あんな話こんな話

会津生まれの会津育ち…三匹の猫と柴ワンコや家族に囲まれ、家庭菜園に勤しみ都会には住めそうにないローカルな私の日常。

延命処置(人間らしくとは…。)

2006-01-18 23:16:16 | 介護

太陽や青空に向かって、精一杯まっすぐに生きようとしているように思える。

この事は、私個人の考えであり、他の人に当てはまるものではありません。

延命治療」とは、人工呼吸器や心電図モニターを装着し
静脈に輸液や栄養補給のためのチューブを挿入するなどの生命維持装置を体中に施す事。

過剰(無駄)な延命治療」終末期の患者さんに対して
輸液や栄養補給のためのチューブが静脈に挿入されていたり、
場合によっては、必要がないと考えられる人工呼吸器や心電図モニターが装着され
患者さんに大きな負担と犠牲を強いる事。

医療技術が開発され、以前ならなら助からなかった命が救われているが
体中にたくさんのチューブが張り巡らされている状態の「スパゲテイ症候群」が
果たして人間として幸せなのだろうか?


思い起こすのは、我が家の亡くなったじぃ~ちゃん。
今年の12月には7年忌になる。

その じぃ~ちゃんが、認知症で施設に入って2年目の11月の末。
施設で脳内出血を起こし救急病院に運ばれた時
生憎 ばぁ~ちゃんも、市内の病院で胆石の手術が終わったばかりだった。

隣の町の厚生病院に運ばれ、意識はすでに無くなっていて
だけど 市内と郡部と二つの病院を掛け持ちするわけにもいかずに
ばぁ~ちゃんの入院している
家から車で15分ほどの大きな病院へ転院してもらう事にした。

その厚生病院と転院した大きな病院でも、手術をしても効果は無いと言われ
時間の問題ですので延命処置はしない事にします。
そう言われて、その時は納得したのだが、ひょっとしたら…そういう気持ちになってしまう。
延命処置はしないと分かっているはずなのに、せめて呼吸が楽なようにとか考えてしまう。

今にも閉じようとする人生が、少しでも楽なようにと思うのは無理なのだろうか?
結局 人工呼吸器を着けてもらったが3日目の夕方には息を引き取った。


また ばぁ~ちゃんも食べ物を受け入れなくなって入院をした時
胃ろうにして、食物を体に取り入れようかとの話の時になった。
だが 担当の主治医は言った。

お婆ちゃんも長年寝たきりでいますから、いつ何時何があるか分からない状態です。
もしもの時に慌てないためにも、いざという時の事を考えておかなければなりません…と。

食べない、食べられないという事は、体が生きる事に拒否反応をしている場合もある。
無理に胃ろうにして、生きながらえさせたとして本人は幸せなのだろうか?
人間らしく生きる事と死ぬ事と選ぶ権利があるのではないだろうか?
よく考えてから胃ろうにするかどうかを決めてください。

幸い胃ろうにしなくても、食べられるようになって今日に至っている。
という事は、ばぁ~ちゃんは体が心が、まだ生きたい!と思っている証拠なのだ。
食べるという事は食の欲求、生きる欲求なのだと思う。

生命維持装置をつけて、何年も意識が無いまま病院で眠り続ける人がいる。
生命維持装置でしか息をする事が出来ないのは生きている事なのだろうか?
入院費用や家族の負担はかなりなもので、挙句の果てに生命維持装置は外してくれと言う。
人間が人間らしく全うするという事は難しい。

でも 私は決めている。
夫や兄弟の人達も、それが一番だと納得してくれた。

もしも もしも ばぁちゃんが、今だという時は延命処置はしない。
病院で管に繋がれて逝くよりも、家で家族や自分の兄弟の見守る中で
おかゆのひと匙でも良い、水の一口でも良い…。
自然と枯れるように、そんなふうに逝かせてあげたいと思う。

たとえ実際の時に、やっぱり延命処置をしてくれと言ってしまうかもしれないとしても…。

コメント (15)
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