あんな話こんな話

会津生まれの会津育ち…三匹の猫と柴ワンコや家族に囲まれ、家庭菜園に勤しみ都会には住めそうにないローカルな私の日常。

2005-06-30 00:27:41 | ひとりごと
手を見るたびにいつも思う。
そんな時、さだまさしさんの“無縁坂”が過ぎる。

 母がまだ若い頃 僕の手をひいて
 この坂を登る度 いつもため息をついた
 ため息つけば それで済む
 後だけは見ちゃだめと
 笑ってた白い手は とてもやわらかだった
 運がいいとか 悪いとか
 人は時々 口にするけど
 そうゆうことって確かにあると
 あなたをみててそう思う
 忍ぶ 不忍無縁坂 かみしめる様な
 ささやかな僕の 母の人生


 いつかしら僕よりも 母は小さくなった
 知らぬまに 白い手は とても小さくなった
 母はすべてを暦に刻んで
 流して来たんだろう
 悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに
 運がいいとか 悪いとか
 人は時々口にするけど
 めぐる暦は季節の中で
 漂い乍ら過ぎてゆく
 忍ぶ 不忍無縁坂 かみしめる様な
 ささやかな僕の 母の人生        作詩・作曲 : さだまさし


母がまだ私くらいの年だった時、私はまだ娘だった。
いつも自分の手を見ては、節くれだった皺の多い手だね…って。
その頃の私はまだ綺麗な手で、年を重ねるごとにあんな手になるんだ。

いやだなぁ…と思っていた。

力強そうな節くれだって皺が多く
苦髪楽爪とはよく言ったもので、母の手は爪が伸びる間もないくらい働き者だった。
やはり兼業農家に嫁いだ母は、農作業を一手に引き受けて
いつも爪の間には、土がこびり付いていた。

今 あの当時の母と同じような年代になって自分の手をよく見る。
すらっとした指はあの時のような母と同じく節くれ立っていた。
でも 爪は自分で切って短くしているし、爪の間も土がこびり付いてはいない。
あの時の母と比べたら、今の自分は何と楽をしているのだろうと
また 自分の手をかざす…。

自分の手を眺めるようになると先が短いって言うからやめてね…と、娘。

その娘も私の手を見て、節くれだってるって思うんだろうな。
そんな事を考えながら、手にクリームを刷り込んだ。
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手紙

2005-06-27 14:56:25 | 浜田省吾
今日は何を書こうかと思っていたところに、朝に届いた手紙にこの事を書こうと思った。
カテゴリーは、日々雑事でも良かったのだが、あえて浜田省吾にしたのは
彼女とは、浜田省吾ファンクラブを通して知り合い、約 二年もの月日を語り合った仲間だからだ。

彼女は仙台市に住む、私より3~4歳年上で
十年ほど前になろうか“愛という名のもとに”というドラマで浜田省吾を知り
2001年のコンサートの時に初めて参加、そしてファンクラブに入った。
いつも 手紙には浜田省吾への強い想いが記されていて
かなり昔からファンであった私よりも浜田省吾の人となりを知り尽くしているつわものなのだ。

今度の2005年 ON THE ROADのコンサートも彼女と待ち合わせをして行く事になっていた。
私達は、ただその日の来るのを指折り数えてまっていたのだが…。

今朝の手紙には、近況とカセットテープ・そして掲載された新聞の切り抜き。
他には辛い現実が記されていた。
大体の事は、2週間ほど前に電話で聞いていたのだが詳しい事は知らなかった。
あえて病名は伏せておこう。
でも 手術をしなければ危ぶまれるほどの病気であった。
たぶんに手術をしても何年も何年も再発の恐怖に苛まれるに違いない…そんな彼女なのだが
手紙には要支援に近い夫の父親と、最近 特に忙しくなってきた夫の心配が
そして 浜田省吾への熱い想い…。

徹底的に検査をされた結果を医師に告げられた時には
あぁ…やっぱり! そんな気持ちだったらしいが、ある程度の覚悟はあったのだと思う。
反対に彼女の夫の方がうろたえてしまっていたと…。

でもね ここ数年 夫婦生活がなんであったか疑問ばかりの生活だったけど
病名が分かってから、夫との距離が近くなったようなのよ…。
体が大事だと、いろんな物を買ってきてくれたり、夫の優しさが感じられるようになった…。
そんな事が嬉しそうに書いてあった手紙を読み進めて、思わず涙がこぼれ落ちた。

いつも手紙には、夫は私が何をしてようと無関心なのよ…って
夫は自分の趣味には一生懸命だけど
きっと 私が省吾さんのファンだなんて気づきもしてないと思うわ。
前のコンサートの時もね 帰りが遅くならないように
アンコールの途中で帰って来たの…最後まで観たかった、今度の時は最後まで観たい! 
きっと 9月までは退院するから一緒に行こうねって。

そんな夫に尽くす昔かたぎの彼女だった。

そんな彼女に私は最近出た、浜田省吾の特集記事の掲載された冊子を送った。
入院しているから、6月のシングルと7月に出るアルバムは聴く事ができないけど
私に送ってくれたラジオ出演のテープと同じものを何回も何回も聴いているって。
省吾さんの曲や声を聴いていると、私に頑張れ!負けるな!って言ってくれてるみたいって…。

そんな彼女に、遠く離れている私はなかなか会いに行く事も出来ないけど
6月のシングルと7月のアルバムを送ってあげよう!そんな事くらいしか思いつかない。
ただ 9月のコンサートには
あんなに会いたがっていた浜田省吾のコンサートに二人で行けることを願う事くらいしかなかった。
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ポチコ農園、至近距離半径5メートル

2005-06-26 16:17:39 | ペット
おいらはポチコ。
今日も農園の見回りをしています。
お母さんに着かず離れずに…いや! くっ付いてうるさがられています。

そんなにうるさがらないで!
おいら お母さんが大好きなのに…



これからお仕事なの?



お母さんのそばが良いなぁ…。




ん? 何か発見!!




し・しまった!! お母さんに見つかった!




すごく怒られちゃった…。体を舐めて落ち着いてっと!




ねぇ~~! まだなの?




眠くなっちゃった…。


そんなわけで、今日も一日が終わります。
夕ご飯には、いつもあのお薬を飲まなくてはいけないけど
ちゃんとお利口に飲んでいます。
だから 病気は再発しない…と思うなぁ…。
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イチゴミルク牛乳

2005-06-25 14:36:47 | 介護
昨日投稿して、いろいろと思い出した。
そのなかで、じ~ちゃんのあれからの続編になってしまうが…。

発見されたじ~ちゃんは、市内のとある病院に一ヶ月ほど入院した。
3日間ろくな物を食べずに彷徨っていたので体力が落ちてしまっていた。
一ヶ月の入院後、ロングステイを組んでもらい、滑り込みで老人保健施設に入れる事になった。

たぶんに、ロングステイの後には家へ帰れると思った事だろうと今更ながら思った。

家で動き回るじ~ちゃんと寝たきりのば~ちゃんを同時に看る事は出来なかった。
正直、看たくなかった…と言った方が正しいのかもしれない。
そこでは、衣類は衣装ケースに一個しか持ち入れる事が出来なくて
まだオムツを着けていなかったじ~ちゃんの洗濯物は
頻繁に取りに行かなければ間に合わなくて、一日2回も往復した時もあった。

冬の日などはなかなか乾かず、ようやく乾いた洗濯物を
家にば~ちゃんを一人残して、往復1時間では帰って来れない距離を何度往復した事か…!
それでも、主人が会社から帰ってから行ったりして凌いでいたが
オムツの着用をお願いした。

これ以上は無理だ! そう 思った。

しかし…施設でのじ~ちゃんの暮らしは快適だったに違いない。
孫のような職員さんに手を引かれたり、トイレへ連れて行ってもらったり
おやつの時間やレクリェーション・花見や盆踊り…。
怒られる事なく、優しくされ声をかけられいつも誰かに見守ってもらえた。
それでもなお、家へ帰りたいという想い
そこにいるお年寄りは一様に同じ事を思っていたに違いない。

だけど…話すことは昔のことばかり
昔から現在までの記憶がスッポリと抜け落ちてるかのように。
昔はどんなに良かったか幸せだったか、繰り返し繰り返し話す。
でも 当人にとっては昔ではなく現在なのだ。
大きくなってしまった孫を見て、はて…どちらさんだっけか?と首を傾げる。

それでも 主人が洗濯物を取りに行ったついでに
いつも 入り口にある自販機から、イチゴミルク牛乳を買い手渡すと。
一緒に椅子に腰掛けて、両の手で包み込むようにそれを持って
ゆっくり ゆっくりと飲み干してゆく…。
まるで、少しでも長い時間、傍に居て欲しいかのように。

そして、いつもひと言。

あぁ  うまいなぁ…。

いつも 同じひと言だった。


当時と同じものはなかったが…

あの 甘いイチゴミルク牛乳を、ゆっくりゆっくりと飲みながら
じ~ちゃんの脳裏には何が思い浮かんでたのだろう?と思うときがある。
自分の幼い頃の事だろうか?
それとも、ば~ちゃんと結婚した頃の事だろうか?

あの甘いイチゴミルク牛乳は、幸せだった頃の象徴だったのかもしれない。

あれから 2年お世話になった施設で朝方に起こした脳出血の為に
3日間という短い入院生活の後旅立って行った。

一昨年の11月の始め、3年忌を終えた。

イチゴミルク牛乳を供えたかったのだが、あそこを思い出すようでやめた。
イチゴミルク牛乳は、後悔が残ったじ~ちゃんへの苦い思い出なのかもしれない…。

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じ~ちゃん 指名手配される。

2005-06-24 16:39:51 | 介護
ば~ちゃんの相方、じ~ちゃんの認知症が密かに深く浸透していた事を
知るよしもなかった…。

お喋り過ぎるくらいのば~ちゃんと、元々 寡黙であったじ~ちゃんと
二人は中々の良いコンビだったのではないかと今更ながら思う。
それが、ば~ちゃんの入院以来話し相手がなくなったと言っても過言ではない。
主人は仕事、子供達は学校・そして私はば~ちゃんと雑多な家事で手一杯だったし
夜は夜で早々に寝てしまうじ~ちゃんにと、そんな生活のすれ違いに
昼間の間誰も話し相手が居なくて、かと言って積極的に他の友達と会う…。
そんな気の利いたことが出来ないじ~ちゃんであった。

黙ってコタツに足を入れて、見るともないテレビを点けっぱなしにして
じ~ちゃんの心は壊れていった…。
夜になると外へ出たがりダダをこねた事もあった
被害妄想が強くなり、失禁しても着替え方が分からない時など…。
それでも、まだそんなにひどくはないと思っていた。 そう 信じたかった。

言葉を発さない事は認知症への第一歩だと思う。

それは、小春日和な10月の最後の日あたり、
「床屋へ行ってくるよ」そう言って愛用の自転車で出かけたのは
朝も8時半か9時頃だったではないかと思う。
自転車で家から10分もかからない場所にある床屋は馴染みのところだった。

それっきり、夕方になってもじ~ちゃんは戻らなかった。

きっと いつも行っている、自宅から自転車で30分ほどの
老人福祉センターへでも行ったのに違いない。
だから 遅くても5時くらいになったら戻ってくる。そう思っていた。
秋の日はつるべ落としが如く暗くなるのは早い。
5時を過ぎても戻ってこない、じ~ちゃんを心配して
やがて 仕事から帰った主人に話た。 じ~ちゃんがまだ戻らないと…。

それから 二人して心当たりを探したが一向にじ~ちゃんの姿は見つからなく
意を決して、近くの交番へ出かけて、戻ってこない旨を話して捜索願を出した。

それからが嵐のような時間が過ぎた。

警察から消防署に連絡が行き、親戚の人や地区の人が総出でじ~ちゃんを探し
新聞にも載った、ラジオにも、行方不明者捜索のお願いに出してもらったりもした。
折りしも、その年は霜が降りるくらいの寒い時期で
じ~ちゃんは何処へ行方をくらましてしまったのだろう…。

その夜は大勢の捜索に関わらず見つけ出す事はできなかった。
次の日も空しい捜索に終わり
じ~ちゃんは、もはや生きて戻る事は叶わず!誰もがそう思った。
3日目の朝、親戚と警察だけとなった捜索をこれから始まるところに電話が入った。

じ~ちゃん 発見!!

みんなが一生懸命に市内を探しても見つかるはずはなかった。
じ~ちゃんは愛用の自転車で、隣の町からまたその奥の山の中で
木の葉を布団代わりに寝ていたのを、皮肉にも山にきのこ取りに来た人によって発見されたのだ。
我が家から何キロ離れている事だろう…。10キロ20キロではきかない。

事が落ち着いてから、発見してくれた人にお礼方々伺った話によると



獣道のような細い道を、急な上り坂になっているうえに片方は崖っぷち
よくそこから転落しなかったものだと…。
あの日、単身先から実家に戻り、早朝よりきのこ取りに行かなければ見つかる事もなく
山奥で朽ち果てるしかなかったはずのじ~ちゃんは、やはり悪運が強いのかもしれない…。

例え、多くに人に迷惑をかけようが
例え、相方が警察署の職員に事件の可能性はないかと、何度も同じ供述をさせられようと

例え…例え…      生きて帰ってきた者勝ちなのだ!
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プチドライブin柳津

2005-06-23 21:55:12 | プチドライブ・地域の事
今日は柳津までプチドライブをした話をしてみようと思う。
所要があり出かけるついでと言っては、ちょっと遠回りではあったが
柳津にいる省吾関連の友達に会いに行こうと思い立って
愛車SUZUKIのkeiに乗り込んだ。(ドライブと言うにはショボイ車だが…)
その代わり愛車には、特別にウーハを付けてもらってある。
省吾の曲を聴くにはウーハは必需品だと思ったからだ。

もちろん ドライブのお供は浜省。
今日はファンクラブ限定のCD、浜省直々の言葉が入っている“家路”だ。
コンサート仕様で、あの臨場感が何とも言えない。

ば~ちゃんのディケアに出発後、出かけたのは9時半。
まず 若松市内から、最近会津若松市に編入になった北会津へ出て
“いとよ”の生息する場所に寄ってみた。
昔はただの沼であった生息地も、今は綺麗な公園になっていたが沼の自然は守られていたようだ。


入り口に小さな橋が架かってた。


昔の名残は残っていた。


そこの写真を撮って、Uターンする時、車の後ろを縁石にコツンとやってしまった。
(これは内緒にしている…。)

その場所から10分も走ると、坂下町に入る。
そこには、とある場所で話題になっていた、半端じゃない量のハンスパと言うランチ(900円)
そして、これも並大抵でないらしい巨大パフェが売り物だと噂の○リティと言う軽食&喫茶のお店を見つけた。
そのはす向かいには、我が家の息子お勧めのカレーショップも発見し、入って食べるわけではないのだが
見つけたと言う事実が嬉しい気がした。

少し先には、ドライブインがある。(これは地元では有名なのではないかと思う)
会津坂下町は馬肉が有名で(因みに馬肉をサクラと言う。)サクラの刺身が食べられる。
そこのドライブインも例外ではなかった。


ここでは、お通しに馬肉の煮込みがでる。

そのドライブインの隣には白虎隊でお馴染みの娘子隊の隊長的存在であった“中野竹子”のお墓がある。

坂下町を抜けると立木観音が目の前に迫る。


ここが入り口になっている。


奥まったところに本堂がある。

やがて国道を新潟方面に山間の道を数分は走ると大きなトンネルが行く手を待ち受けるように、七折トンネルが見えた。
このトンネルが出来る前は、かなりの遠回りで時間はおよそ半分くらいで行けるようになっている。


トンネルを抜けると、すでにそこは柳津町になる。

目的地はもうすぐだ。

柳津町の入り口には粟饅頭で有名な町に因んでか粟蕎麦なるものがある
一度食べた事があるが、pochiko的には普通の蕎麦の方が好きだ。


粟蕎麦は白く更科蕎麦のようだった。

その町は至るところに、粟饅頭を蒸かす湯気を出している店が立ち並んでいる。
友達のいる所は町内のメインストリートにあって、そこからは大きな橋と圓蔵寺福満虚空蔵尊が見える。


友達のホテルの前からの眺め。

そのメインスポットの裏手には柳津町の道の駅があった。
そこは足湯が無料で入れると何かで読んだような気がするが時間がなかったので
今度 ゆっくりと来ようと思っていたpochikoであった。

しかしこういう文は書き慣れていないので、うまく伝えられたかどうかはわからないが
かなりのストレス解消には役立ったようだ。
このドライブで味をしめたので、次は何処へ行こうかと思案中だ。
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青の時間

2005-06-21 15:58:13 | ひとりごと

我が家のキッチンの窓から西側を見ると天気の良い日などは夕日がキレイだ。
立ち並ぶ工場地帯の黒ずんでゆくシルエットに今にも沈もうとしている真っ赤な夕日が映える。
その眩しいほどの夕日のオレンジからブルー、
そして藍色に夜空へと繋がっていくそんなグラデューションが好きだ。

夕暮れの青が舞い降り ビルとビルの影をふちどる…
想いも思い出も青く染まってゆく 
こんな風に終わる一日 こんな風に愛した人を失う…

こんなメロディが頭をよぎる。

気ばかりが焦って、何も出来ない事がわかった時とか
これから先、こんな事ばっかり私は何をしているのだろう…とか
何もかもが灰色に見えてしまうようなそんな気分に陥る事がある。

思いっきり落ち込むだけ落ち込んで、それから這い上がってみようと思う。

きっと 明日も天気に違いない…。
あの夕焼けに向かって、明日天気になぁ~れ!!って靴を飛ばしたあの日
薄暗くなるまで遊んで帰る道すがら、近所の家の夕食は何かすぐに分かった。
家が近づくにつれて、急に母親が恋しくもの寂しい気分で走って帰ったっけ…。

あんな日もあったんだよね。

沈んで行く太陽の代わりに夜のとばりが落ちて何もかも覆い尽くしてくれるけど
本質的には何も変わってはいないのだと思う。

きっと 明日も天気に違いない…。

今度は昇り行く朝日の写真を撮ってみようと思う。
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ば~ちゃん 車でダイビングする!!

2005-06-20 16:18:25 | 介護
はじめに、もし関係者がこの投稿を読んで、あっ うちの事だ!と思ったら
別に怒っているとか、訴えてやる~~!!とかではありません。
ただ この奇跡の生還劇を書き記したいと思っただけですので
快くご了承願いたいと思います。(笑)

それは今年の冬の事で
朝からの大雪…いや、暴風雪と言ったほうが正しいかもしれない。
あの日はディケアがあって、ば~ちゃんはいつもの車椅子でお出かけをしたのだが…。
そろそろ帰りの時間だと思い、外で除雪をしながら帰りを待っていた。

その日に限って
いつもの時間帯になっても、送迎のバスは陰も形も見えなかった。
たぶん この吹雪で遅れているのだろうと思い
家を出たり入ったりしながら待っていたのだが…。


それにしても遅い!!

そう思いながら、家の前の橋の上で帰ってくる方向をみていたら
向こうから吹雪に見え隠れしながら一台の車が
雪煙をあげて道路沿いの田んぼに突っ込んでいくのがスローモーションのように見えた。
おぉ!! 事故だとばかりにその車を見続けていたら
なにかしら、見覚えのある車で、降りてきた運転手も見覚えのあるジャケットなのだ。

うそっ!! まさかっ!!

すぐさま、車を出して家から300mほど先の現場へ向かった。


   あらら!! やっぱり!!

それは危惧どうり、ば~ちゃんのデイケアの送迎のバスだった…。
その日の天気と同じように頭の中真っ白状態。
すると、バスの陰で運転手が蒼白な顔で一生懸命に謝り続けていた。
ひょっとしたら、車の中は物凄い惨劇なのでは…血の気が引いた!

ところがだ! 車の中には送迎の順番で、最後の一人になったば~ちゃんが
車椅子にかくしゃくとして、何事もなかったような顔で身じろぎもせずにいた。
車の中で、シッカリと固定された車椅子とシートベルトのお陰で
怪我ひとつせずに無事救出されたのだった…。
アイスバーンの為に、運転操作を誤り田んぼに突っ込んでしまったのだが
そのままの形で横転もせずにダイビングしていた。

奇跡だと思った。

もし!もしも!! これが反対車線であったなら、道路と田んぼの境には大きな側溝があり
それこそ、大惨事になったに違いない…と思ったら背筋が凍った!
結局 運転手と助手の力では車椅子ごとのば~ちゃんを出す事は無理で
応援を呼んで、ば~ちゃんは無事、我が家のベッドに帰りついたのだが…。

それにしても、九死に一生の話と言っても過言ではないと思った。

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お父さんは心配症

2005-06-19 14:23:21 | 日々雑事
今日は父の日に因んでお父さんである、我が家の相方の話をしてみようと思う。
と言うのは、お互いの父親はすでに亡くなっていて
お父さんと呼べる人は、子供たちにとって私にとって、我が家の相方しかなかったからだ。
『お父さんは心配性』と言うコミック本が昔あったのを思い出した。
よく 子供たちと一緒に、コミック本の主人公であるお父さんと我が家のお父さんと比較して笑ってたものだった。

とくかく、我が家のお父さんは外面が良い!
家では気に入らない事があると、まさかちゃぶ台を引っくり返す事はないが
顔色が変わってすぐに切れる。
それでも最近はよる年波のせいか、少しは忍耐力がついて来たようだ…。

娘が彼氏を我が家に連れてきた時も
陰では、なんたらかんたら…私に向かって文句を言うが
実際娘の前では、話の分かるお父さんでいたいらしく話の分かるお父さんを演じる。

この間などは、別にアパートに住んでいる娘が最近顔を見せないとブツブツ言っていた。
で、私が今日当たりお休みだから来るかもしれないね…と言ったところ
夜寝る頃になって、来なかったぞ!!と、ご機嫌斜めであった。
来るかもしれないとは言ったが、来るとは言わなかったでしょ?と言う私に
電話をしろと…。 娘だって、年中休みの日に家に来るわけには行かないでしょう。
そういう私に、何かがあってからでは遅い!
この間、近くで物騒な事件があったばかりだべ!!と。

確かに、隣の市で一人暮らしの娘さんが被害に遭ったばかりだ。
心配するのは良く分かる。
でも…それを、どうして自分で言わないのだろう?
照れ臭いのは分かるが妻に当り散らしても、らちがあかないのではないかと思う。

その時に息子がポツリ…と。
お父さん ね~ちゃんにメール打ってみたら?

それを聞いた、我が家のお父さん、黙って二階に上がって寝てしまった。
携帯電話を使いこなせない、我が家のお父さんはメールが大の苦手なのだった。

結婚式で泣くのはお父さんと相場が決まっている。
女親はその辺、意外とシビアなのかもしれない。

今日はお父さんの好きな海鮮丼を作ってあげようと思った。
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メロン白書 【 介護番外編 】

2005-06-18 16:21:59 | 介護


またメロンの安くなる時期がやってきた。
メロン白書などと気取ったタイトルを付けてしまったのだが
なんて事はなく、ただ 単にば~ちゃんが入院してこんなにメロンが好きだった事が
初めて知ったからだっただけなのだが…(笑)

その頃はミルクのままかと思われたば~ちゃんの鼻の管も
看護士さんのアドバイスにより何とか取れて、曲がりなりにも食事が取れるようになっていた。
鼻から管を通したまま、飲み込みの良いものなら食べさせてもかまわないと言う言葉に
親が赤ちゃんに初めて離乳食を与えるのと同じだった。
プリンの一さじから始まったのだが、最初は口の中にいつまでも残っていた。

当時、ば~ちゃんには口の中にあるプリンは食べ物だと認識できてはいなかったに違いない。

それでも本能というのだろうか?
やがて飲み込んでくれるようになるのには何日かを費やしたのだが…。
それからはミルクの時間前に必ずプリンやらゼリー・固まってるヨーグルトなど
むせりの出ない喉越しの良い物を一さじ二さじと増やしていった。
そしてトレーニング食(ペースト・レベル2)を、何度かの失敗の後完食出来た時は本当に嬉しかった。

看護士さん曰く、本当に食べられるようになるとは思わなかった、努力のたまものだね…って。

だから、そういう時は辛い時ばかりではなく
モノの達成感と言うか、相変わらずに無表情で言葉のでない
ば~ちゃんを相手に手を取り合って喜んだ…その時はかなり迷惑そうな顔をされたが…。

たぶんに、それは昔 白紙の状態だったヘレンケラーが
サリバン先生によって井戸水を手にとって、水を理解したのと変わりないのではないかと思った



そうそう…メロンの話をするはずが、長い前書きになってしまった。

当時、病室は6人部屋で気の合った人が二人いた。
残りの人は、生かされてるだけのような人で、話どころではなかったからだ。
で、ニ人の人は、年代にしたら60代くらいで、比較的軽い脳梗塞の方で、退院を待つばかりの人だった。
私がいない時はよく代わって、ば~ちゃんの面倒を看てくれた有難い面々で
そのうちの一人が、家のお嫁さんと仲が悪かった。

その人はお見舞いにメロンをいただいていたのだが
小憎らしい嫁には喰わせたくないと、ここで食べちゃおうと言う話になり
遠慮する私たちに、惜しげもなく大きな一個を四等分にして
私とば~ちゃんに四等分の二切れ分をくれた。 つまり半分をいただいてしまった事になる。
一切れで良い…と言う申し出に、遠慮しないで!と、すでにパクついていた(笑)

かなり大きい一切れだった…。

有難い複雑な思いに、ば~ちゃんに一さじ。
大きな口を開けて食べる、食べる。四分の一の一切れは、瞬く間になくなってしまった。
よほど美味しかったのだろう、それでも口を開けて催促する姿に
残りの一切れもあらかた食べつくしてしまった…。

元々 家でメロンを食べる時は、人数が多いので一切れも小さい。
自分の孫たちが食べてしまい、もっと食べたそうな顔をすると
ば~ちゃんはあんまり好きじゃないからと自分が食べずに孫に与えていた。

本当は好きだったんだね! ば~ちゃん。

だから メロンが出回る時期になると、ば~ちゃんのおやつはメロンが多い。
それだけの話だった…思いっきり引っ張っておいたにしては

たいした事がない結末ではあったのだが…。 ごめん
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