有作未庵  烏兎怱怱 有作憂さ話 

有作(うさ)=煩悩の生ずること。
憂さ話=つらさや苦しさを語ってなぐさめ合うこと。
月日の経つのは早いですね。

多面

2011年01月11日 03時39分53秒 | モブログ
人って色んな面を持ってる。

時と場合によってそれを使い分ける。

その違う面を見る機会が有ると、新鮮だったり、見直したり、見損なったりって、それまで自分に見せられていた面に色んな作用をおよぼしたりする。

TPOに応じた社会人として当たり前の態度だったりしても、変に`いつも´より尊大だったり卑屈だったりするのが鼻につくとか、仕事では非情に思えた人が家族に向ける眼差しが愛情と自負に溢れているのを見て、その人の奥行きに信頼が生まれたりする事も有るだろう。

「お前は俺にはキツイのに、他人には優しい。そんなのおかしいじゃないか!」と言われたけど、普通に人と接するのにいちいちキツイ事を言う必要なんて無い。
「外面がいい」って、程度にもよるけど、社会人なら当たり前のな一面だったりするのが分からんとは、どんな時でも自分優先の我が儘で、赤ん坊にだけは許された優先権じゃないかなあ。

私は親になって、こどもを通じて教師と対峙する時、自分のこども時代の恨みつらみはとりあえず蓋をして、言葉を選ぶ。
それは卑屈に見えるかもしれないけど、彼らの仕事が私には出来ない物だと認識しているし、こどもを預けている礼儀だと思っている。

長男が幼稚園に入った時、先生にタメ口を聞く母親に驚愕した。
公の場で言葉使いを選ぶのは当たり前だと思っているから。
先生とそのお母さんが実は同級生だと知っても私の考えは変わらなかった。
つい口調が崩れる事があったとしても、相手の立場を考慮してとりあえず他に人が居る時は先生を立てるべきだと思う。
カタイ奴だと思われるだろうけど、そうしないとこどもに示しがつかんだろう。
けじめって必要だと思う。

で、驚いた事に次男の小学校で6年を担任になった先生がタメ口だ。
私は先生を立てるのは当たり前だと思っているけど、それは先生が親より偉いと思っているからではない。
教師の方も社会人として節度有る言葉使いを選ぶべきだと思っている。

先生も親もお互いに見せる面とこどもに見せる面を使い分けるべきで、こどもはそれを見る機会が有れば社会性の実地研修になると思う。

私は頭でっかちかな?

誰に対しても全く同じ接し方ができる人はある意味尊敬にあたいする。
でも立場ってもんが有るはず。

私はいつでも誰にでもべらんめえな下町の大将って好き。
でもあの人達だって多少は相手によって態度を変えるはずだ。
町の御意見番の長老にめったな口はきかないんじゃないかな?
頭が上がらない女将さんには言葉は同じでも口調が微妙に引き気味になってたり。

そうそう直に会う事も無かろうけど、王室とか皇室とかの一般庶民とは明らかに違う人達の中には偉ぶるでなく、下々の者に対しても丁寧な言葉を使われる。
日常家族とくつろぐ時に砕けた言葉を使っていたとしても、それはそれで立場の自覚ってもんなんだと思う。

私が夫に対峙する時、時と場合で私は色んな面を見せたと思う。
二人だけの時、こどもが一緒の時、親しい人と同席した時、仕事絡みの時…。
違って当たり前だろう。

先々を考え始めてから、私は私の多面を突き合わせて何度も協議した。
キッツイ私、道徳的な私、女々しい私、めんどくさがりの私…。
どういう態度を取るか、どんな言い回しにするか、計算を練り上げてから行動する事は「いつ届けを提出するか」くらいで他はその場その場の成り行きだった。
その辺はビジネスライクにとはいかなかった。

計算し、天秤にかける。
けれども誤差は生じるし、おもりの選択を決めかねてバランスが取れない。

いつも一定、ブレない。
それは凄い事かもしれないけど、私は固定出来ないタイプだって事は固定されている。