古新聞を片付けていて、少し前の痛ましい事件の記事を読み返した。
「どうしてそこまで追い詰められたのか」
「考えられない」と人は言う事件。
「我が子が可愛くないのか」
そんな意見が当たり前に出るからこそ起こった事件だと思う。
我が子が可愛いからこそ追い詰められたのではないだろうか。
あまり使いたくないけれど、普通、に考えればそりゃあ考えられないだろう。
当たり前だ。
我が子が可愛く思えないと悩む親もいる。
思えても思えなくても虐待してしまう親もいる。
普通に可愛く思えたとして、例えば我が子を殺されたら犯人を殺してやりたいと思うのはとても普通の事だろう。
それを自らが行うのだ。
辛さはいかばかりか。
「考えられない」「我が子が可愛くないのか」「なぜ」単純にその言葉を投げた人は、あの母親(そして同じように悩んでいる人)を追い詰める要因にも成っているかもしれない。
「子どもを殺して自分も死にたい」なんて相談されたら「気持ちは分かる」と(その上で思い止まるようにもっていくのは当然)言える人は少ないのではないか。
追い詰められた事を社会のせいにするのは簡単だけど、問題はそう簡単ではない。
殺された男の子は学習障害があったらしい(私は詳しく知らないのでどのような障害がどの程度あったのか知らない)けど、
障害と聞くと公的に何らかの手当や補助などが受けられると単純に考える人がいるんではないかと思う。
けれど、そうじゃない。
よほどの事が無ければ。
障害と付いていても障害では無い。
そういう病気や症状は沢山有る。
たとえ障害者として認定されても生活をまるごと面倒見てもらえるほど世の中は優しくない。
自分で生活費を稼ぐ事が困難だとして生活保護を受けられたとしても、本人に管理能力が備わっていなければ誰かが手助けしなければ生活出来る事にはならない。
知的障害を持つ人を監禁状態で劣悪な条件で労使して、公的援助を巻き上げていた事件もあったはずだ。
極端かもしれないが、可愛い我が子の将来を憂い悲観的になってもおかしな事ではないのではないだろうか。
「私がいなくなったらこの子はどうなるのか」という思いは自分の存在価値に酔っているわけではないと思う。
もちろんその子がどのように成長するのかは未知数だ。
未知数に素直に期待出来るのは実はとても幸せな事だと思う。
「なんとかなる」という言葉が気休めにすらならない、それどころか更に不安を煽る無責任な励ましに成り兼ねない場合もあるのではないか。
頭が悪いので、多少なりとも同じような不安を感じた事の無い人には理解してもらうのは困難かもしれないしれないけれど、そんな風に考えた。
切ない。
子どもという太陽に照らされて出来る闇に飲み込まれてしまう人が二度と出ないで欲しい。
どうか息子達が自分で自分の生活を立て、私はその後で息子達の世話にならないうちに永眠したいと願う。
「どうしてそこまで追い詰められたのか」
「考えられない」と人は言う事件。
「我が子が可愛くないのか」
そんな意見が当たり前に出るからこそ起こった事件だと思う。
我が子が可愛いからこそ追い詰められたのではないだろうか。
あまり使いたくないけれど、普通、に考えればそりゃあ考えられないだろう。
当たり前だ。
我が子が可愛く思えないと悩む親もいる。
思えても思えなくても虐待してしまう親もいる。
普通に可愛く思えたとして、例えば我が子を殺されたら犯人を殺してやりたいと思うのはとても普通の事だろう。
それを自らが行うのだ。
辛さはいかばかりか。
「考えられない」「我が子が可愛くないのか」「なぜ」単純にその言葉を投げた人は、あの母親(そして同じように悩んでいる人)を追い詰める要因にも成っているかもしれない。
「子どもを殺して自分も死にたい」なんて相談されたら「気持ちは分かる」と(その上で思い止まるようにもっていくのは当然)言える人は少ないのではないか。
追い詰められた事を社会のせいにするのは簡単だけど、問題はそう簡単ではない。
殺された男の子は学習障害があったらしい(私は詳しく知らないのでどのような障害がどの程度あったのか知らない)けど、
障害と聞くと公的に何らかの手当や補助などが受けられると単純に考える人がいるんではないかと思う。
けれど、そうじゃない。
よほどの事が無ければ。
障害と付いていても障害では無い。
そういう病気や症状は沢山有る。
たとえ障害者として認定されても生活をまるごと面倒見てもらえるほど世の中は優しくない。
自分で生活費を稼ぐ事が困難だとして生活保護を受けられたとしても、本人に管理能力が備わっていなければ誰かが手助けしなければ生活出来る事にはならない。
知的障害を持つ人を監禁状態で劣悪な条件で労使して、公的援助を巻き上げていた事件もあったはずだ。
極端かもしれないが、可愛い我が子の将来を憂い悲観的になってもおかしな事ではないのではないだろうか。
「私がいなくなったらこの子はどうなるのか」という思いは自分の存在価値に酔っているわけではないと思う。
もちろんその子がどのように成長するのかは未知数だ。
未知数に素直に期待出来るのは実はとても幸せな事だと思う。
「なんとかなる」という言葉が気休めにすらならない、それどころか更に不安を煽る無責任な励ましに成り兼ねない場合もあるのではないか。
頭が悪いので、多少なりとも同じような不安を感じた事の無い人には理解してもらうのは困難かもしれないしれないけれど、そんな風に考えた。
切ない。
子どもという太陽に照らされて出来る闇に飲み込まれてしまう人が二度と出ないで欲しい。
どうか息子達が自分で自分の生活を立て、私はその後で息子達の世話にならないうちに永眠したいと願う。