有作未庵  烏兎怱怱 有作憂さ話 

有作(うさ)=煩悩の生ずること。
憂さ話=つらさや苦しさを語ってなぐさめ合うこと。
月日の経つのは早いですね。

食べ過ぎ

2010年08月21日 03時54分39秒 | モブログ
突然お腹がグーグー鳴り出して、眠気と競り合って空腹が勝った;

すぐ食べられる物が無いわけじゃないんだけど、試し買いしたカップ麺を思い出して一悩み(笑

食べたらすぐ寝たいから軽めにしておくべきかとカップ麺はやめて素麺を湯がいた。

最近お気に入りの麺つゆは、「創味のつゆ」を適度に薄めて、無添加の出来れば有機JAS認定レベルの昔ながらの梅干しをほぐし、とろろ昆布をたっぷり入れた温かいつゆ。
ルックスは悪いけど、饂飩でも蕎麦でも素麺でも合うと私は思う。
本当は元のつゆも作るべきでしょうけど、物ぐさな私には無理~。

今回は半分眠りかけていたせいかつゆを入れ過ぎてしまい、つい麺を食べ過ぎてしまいました;

水分タプタプで少しお腹が苦しい…。

…寝よ…。

昔話

2010年08月17日 02時39分10秒 | モブログ
母の昔話が最近増えた。

お祭りで実家に帰った時、折しも終戦記念日でテレビも特番が多かった。

母は終戦時小学一年生だった。
よくテレビで玉音放送?を悲しみにくれた様子で聞く子供達の映像を目にするけど、母は学校の教室で「何言ってるんだかさっぱり分からない」校内放送に何の感慨も無かったそうだ。

「どの家にも電話なんか無かったのにちゃんと皆登校して聞いた」のが不思議だと言う。
隣組とかの連絡体制が密だったんだろうなあ。
現代、私の住んでる団地なんて隣は何をする人ぞだし、回覧板が行方不明になる事も有る。
災害が起こったらわけわからんかも。

母が幼少期に暮らした町は軍事産業の一つを担っていた地域で、それゆえ母や級友達の父親で兵役を免れた人が大勢居た。
空襲を主に受けたのは隣の大きな町で、夜空を真っ赤に染めて燃え上がるのを逃げもせず見上げた事も有ったそうだ。

直接被害は少なくても戦後の悲惨さは良く目にしたと母は語る。

田舎に来れば何とか暮らせると思って移り住む人達の行き場を失った悲しさや、どうにも出来なくなって鉄道に身投げする人が後を絶たなかった事、配給の切符が有っても物の数が足りて無くて我先に並んで間に合わなかった人が叩き出されている様子。

母は両親揃って終戦となったけど、従兄が二人写真で無言の帰宅をしたそうだ。
空襲が激しさを増していたので標的にされないように明かりも点けずに走る列車に乗って母もその出征を見送りに行ったのだけど、真っ暗で気持ち悪かったと話してくれた。

これまでは「思い出したくない」と言っていたけど少し話してくれる内容が増えた。

父方の祖父は生活の苦労を晩年になって少しだけ話してくれたけど戦争の話はしなかった。

父はやはり空襲は隣の市街地が焼け野原になっていてもあんまり関心が無かったんではなかろうか?という呑気な話しかした事がない。
戦後は進駐軍の駐屯地に行ってお菓子を貰ったりしたと笑っていた。

マイペースの度を超している父は耳が遠くなったし最近ボケも加わってか話が噛み合わないので水を向ける事自体があまり無いから私が育った場所がどんなだったかよく分からない。

隣の市街地の悲惨な様子はたまたま話を聞けたおじいさんの体験談として初めて身近に感じられた。
そのおじいさんは「忘れたいけど忘れられない」と言っていた。
当時野球をされていて、こちらの方のグラウンドに来ていたら大規模な空襲が有って兵隊さんに缶詰等を配られて解散を命じられたそうだ。
けれど帰ってみると一面焼け野原で焼けぼっくいのような死体があちこちに有って、その中を歩いたけれど家は跡形も無かったとだけ話してくれた。

もっと年配で物資の輸送の任務に就いていたというおじいさんは南方の激戦地から敵のレーダーに探知されないよう海面すれすれを飛んで命からがら帰ったと話してくれた。

とても穏やかでにこやかに語ってくれたけど、本とかで読んだりテレビで見聞きするのとは違う迫力が迫って来た。
貴重な体験をさせて頂いたように思う。

夫の父方の祖父はお目にかかる前に亡くなっている。
給料が良かっので家族を養うために被差別だった炭鉱に職を求めたと聞かされたけど、敬謙なカトリック信者だったそうなので戦争という人殺しに加担したくない思いも有ったのではないかと私は理解している。
炭鉱夫も兵役を免れたらしい。

夫の母は私達夫婦の両親の中で一番若いけど、ただ一人だけ空襲の中を逃げ惑った経験を持つ。

同じ日本国内でも暮らした場所でそれぞれ違った体験をされている。

私は都会ではないけれど田舎でもないこの町でのんべんだらりと暮らしている。

最近次男坊は細菌兵器の話を酷く怖がる。
実際の史実を特集した番組でも虚構の映画でもとにかくそういった話には少々過剰反応気味なくらいで泣いてしまうくらい怯える。

おそらく兵器という物が少なくとも私や子供達が生きている間に地球上から無くなる事はないだろうけど、どんな兵器にしろ使用される事が無いのを祈るばかりです。

不発弾の処理にあたる戦争を知らない自衛官の方々も事故無く任務を遂行出来ますように。

日本海で隣国が軍事演習を行ったニュースにも不安になります。

戦争が科学の向上に一役買うのが現実ですが、戦争自体は何も良いものを生み出さない事くらい世界中の国が未来を担う子供達に教える事が出来るだけの平和が訪れますように。

病院で

2010年08月17日 01時35分11秒 | モブログ
思いがけず近所のおばあちゃんに会った。

入院中で外来に診察に下りて来ていて、向かいの科に行った私は少しやつれたその人を始め人違いかと思った。

病院食は美味しくないそうで、私が以前本をお借りしたお礼に持って行ったお菓子が美味しかったのであちこち探したけれどどこにも売ってないとどこで買ったのか尋ねられた。
うちもたまにカタログに出た時に買うだけなのですぐお見舞いに持って行って上げられないのは残念。

おばちゃんは明るくおしゃべり好きなので入院は寂しく退屈らしい。
テレビも面白くないとぼやいていた。
時期的に戦争に関する番組が多いしね、と、なにげに応えたけど、それには何も応えが無かっので後から悪い事を言ったかもと反省した。
ただ私は面白く無いをつまらないという意味で言ったんじゃないんですよ。
大事な事だし、うちの家族構成は私と高校生と小学生のこどもだけど、よそに比べて戦争関連の番組は見てる方じゃないかと思う。
おばちゃんは私の母よりずっと年上だからきっと苦労の多い時代だったろうから私の言葉は勘違いされたかもなあ。

おばちゃんは転んだのがきっかけであちこち連鎖して悪くなってしまったらしい。
お年寄りは一度寝込むとなかなか元通りに動けるようになるのがしんどい。
私の母も手術後歩くのが辛くなって気持ちとのギャップに気落ちしている。
おばちゃんはやっと少し歩けるようになったけど、連鎖した不調のせいでリハビリが進まないそうだ。
旦那さんは面会時間以外、家に居る時は一人で気をもんでいるようだ。
はやくおばちゃんが元気に帰宅してまたにぎやかな暮らしに戻れるといいね。

私は子供達の学校が始まったらもう一度検査のために病院に行く予定。
おばちゃんが気に入ってくれたお菓子がそれまでに入手できて、まだ入院中だったらお見舞いしてみようか。
ほとんど近所付き合いをしていない私だけど、ここで会ったのも何かの縁かもしれないからね。

病院めぐり

2010年08月15日 03時00分50秒 | モブログ
夏休み前から何度も高熱を出した次男坊。

一度目は胃腸炎。
二度目は夏風邪。
三度目は尿路感染症。
でもあくまで推測。
原因は特定できなかった。
三度目は尿検査で原因が判明するかと思ったけど、細菌は検出されなかった。

始めの発熱がなかなか下がらず血液検査してもらっけど数値の異常もろくに無く、次はすぐ平熱に戻ってさらに発熱、尿検査で白血球が大量に検知されて細菌検査に出されたものの判明せずに診察終了。

次男坊の夏休みは1/3が熱でパア。
残ったのは大量の宿題と補習。
その合間を縫ってレジャーに病院めぐり。

そう、発熱による小児科通いは一旦終了だけど、いつもの定期通院と気になる別件でも他院を受診予定。

今年は私も自分メンテナンスの検査を受けに行くつもりだけど、予定が多過ぎて要領の悪い私はスケジュール管理がうやむやになりがち。

今年は我が家にとっては変化の年になっているのでちゃんと気を配ってないとね。

頑張って夏を乗り切りたいです。

お盆

2010年08月15日 02時46分15秒 | モブログ
私は生まれた病院の所在地と母の床上げまでの期間を除いてほとんど今居住している市町村から出た事がないので帰省には無縁だけど、母は元々県外の人なので田舎らしきものが無いことも無い。

今年はお盆前に母の里の近くに旅行した。
ささやかながら母へのプレゼントのつもりではあったけど、一泊だけの湯治でいま一つ親孝行とはいかなかった。

それでも孫合計3人(うちの長男坊はお留守番)交えての久しぶりのちょっと遠出で気分転換になってたらいいなと思う。

私にとっても久しぶりの田舎の風景と叔父さんが加わってからは初めてのお墓参りにも行けて、運転手を買って出てくれた妹の旦那様には感謝している。

高齢者の行方不明が取り沙汰される日本だけど、私の近親者にそこまでの高齢者はいない。

私は墓守りの立場に無いけど、最後の親孝行は母が亡くなった時に母の希望である里のお墓に分骨でもいいから届ける事になるだろう。

でもお墓の場所をちゃんと知らない。

近所なのにすっかり足が遠退いている実家のお墓には今年もお盆のお参りにも行かない。

ただささやかなお供え物を仏壇に置いて、地元のお祭りに息子達と出掛けるだけのお盆。

薄情なようだけど、父や母の兄弟達がどう思うかでお墓がこれからも代々まつられるかどうかが決まるだろう。

でもなかなか面識もない世代の事まで気が回らないのは事実。
実家の墓守りは血脈から行けば私の次の代ではうちの息子が引き継ぐのが一つの筋かもしれないけど、親である私がお墓の必要性をイマイチ感じていないのでどうなることやら。

お盆の作法も私は知らない。

田舎のお墓参りの際、お供えを調達しに立ち寄ったスーパーでお盆の飾り(?)が売られてるのを見た。
仙台の七夕飾りを白一色で作ったような形のそれは亡くなった人の着物だと母が説明してくれた。
地方によって色々有るんだろうな。

実家ではたいして特別な飾りも見た事が無い。
野菜で作った動物も大人になってから知ったように記憶している。

別な見方をすれば、故人はお盆に帰ってくるものではなく、いつもそこに居る存在なんだよな。

でもねー、故人が亡くなった時の年齢でずっと魂が存在するなら考えようによっては残酷かも。

私は迎え火とかいうのを焚いて帰ってくるとしたら今は数年前に死んだ私が拾って育てた猫に会いたい。
会ったら恨み言を言われるかもしれないけど。

「グーグーだって猫である」の映画をビデオで観た。
死に神が死んだ猫と会わせてくれる場面で切なくなって泣いた。

お盆と重なって息子とそんな諸々を話した。
私にとってはいいお盆になった。
そう思う。

小さな幸せ

2010年08月02日 03時14分42秒 | モブログ
花火を見に夜の散歩をした。

薬が効いて(?)熱が下がった次男坊と夏休み旅行は誘っても「行かない。」長男坊も一緒にのんびりてくてく歩く。

時々立ち止まって遠くの花火を眺める。
穏やかな夜になった。

私が子供の頃は今みたいに建物に遮られる事もなく、家からちょいと出れば大きく花火が見渡せて、大玉が上がれば家が地響きで震えた。
頭上まで真っ赤に染まるのも壮観だった。

距離は変わらないのに間に建造物が増えるごとに花火は遠くなった。

それでもまだこうして花火は見える。

私が育った家は歩いてでも行けて花火からは変わらない距離だけど、立地条件から今の自宅からの方が見やすい。

長男が小さな頃は実家に帰って近くのたんぼまで出て花火を見ていたけど、旦那が自家用車から電車移動をするようになって花火の鑑賞スポットを知った。

実家近くのたんぼは少しずつ家が建ち、横手でワイワイやってると迷惑になったりするようになっていたので、毎年恒例の花火大会の日には実家近くでご近所さんや電車の利用ついでの見物人に混ざって見るのが次男坊には普通になった。
長男坊もたんぼから見たのは覚えてないかも?

今年はしばらくいつものように見物して、帰りのルートを変えてみた。
そしたら道々花火を見ながら帰れる事にやっと気がついた。

回り道してゆっくり花火見物するゆとりが出来たと言えるかもしれない。

家のベランダからも近所のお宅の屋根越しに大玉なら見えるんだけど、息子達と散歩しながら見る花火はなんだか格別。

せめて息子達がオカンと散歩してくれる間は巨大建造物が花火を隠してしまわないで欲しいと願う、我が儘な私です。