●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

自分を諦めること

2018年07月19日 | 思うこと

最近、クリスチャンが「砕かれること」について語られる事が少ないように思います。

だからといって十字架の恵みによって、

自我から解放されることの効力がなくなった訳ではありません。

そして、語られなくなった訳でもないと思います。




おそらく、「砕かれる」と言う言葉が使われなくなっただけで、

「神さまに自分の全てを信頼する事にした。」とか、

「自分に頼らず、完全にキリストのみに信頼する。」など、

違う言葉で、このメッセージは語られていると思います。




個々の罪を犯した時には、罪の悔い改めは必要ですが、

砕かれる時には、悔い改める必要はありません。

神さまの摂理によって、人それぞれにいろいろな出来事があった末に、

もう少しも自分には頼れないと、やっと気づきます。

それくらい人間は、自分の力に頼るのが「生まれた時から普通」の状態なんです。

その時には「私は罪深い者です!」などと言うことさえ、なんと無駄な事か?と思います。

(私が、知らなかっただけですから)





自分に何の期待も出来ないと分かると、

「これが私(罪そのもの)」と認識して、全てを十字架に委ねるだけです。

しかし「これが私なんだ!」と自分の本心が見えると、

愕然としてとても絶望的な気持ちになりますが、

だからこそ、これはもう自分の手には負えないと知ります。

まともな自分になれるなんて、全く思えなくなります。

(思わないようにすることではなく、思えないんです)



そしてそれは落ち込む事でも、弱る事でもなく、

「あーイエスさま、ありがとう!」と言うしかない事柄です。




落ち込む事や、弱る事には自我の強さが隠れています。

自分を諦めていないからです。

仮に「自分はなんてダメなんだ!」と言ったところで、

イエスさまは、「そんな事はよく知っているよ。

だから、私が十字架についたのだからね。」

とおっしゃるに違いありません。


自分に頼る人は、自分と自分の力に執着しているので、

見つめる先が自分の内面なんです。

(私は何十年も内側ばかり見て、苦しみの日々を送っていました。)



しかし、見るところは十字架以外にはありません。

十字架だけです!

そこに見えるのは、私の罪となって死なれたイエスさまの死。葬り、復活。

イエスさまの内にあり、この復活の命によって、新しく生きるしかないんです。

その新しい復活の命の中に、本来「なりたかった自分」がいます。

キリストから、全ての善きものを頂く事が出来ます。

私自身を全て預け、キリストの命を頂く交換ですね。



他の道はありません!

他の道はないと、心底知るのです。

知らない間は、自分で何とかしようとします。

「もう少し静まって祈ろう。あのミニストリーをしよう。

誰か助けを頂ける人に会おう。」等々いろいろ思いつきます。





しかし、十字架にしか解決がないと知る事は、本当に嬉しい事です。

あんなに悩んだ「自分と言う重荷」を置く場所があるんです。

イエスさまと継ぎ合わされて、その命を頂き、

一緒に生きる事が出来るのですから。






「わたしはキリストと共に十字架につけられた。

生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、

わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた

神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」

(ガラテヤ人への手紙 2:19‭-‬20 )


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