最近、クリスチャンが「砕かれること」について語られる事が少ないように思います。
だからといって十字架の恵みによって、
自我から解放されることの効力がなくなった訳ではありません。
そして、語られなくなった訳でもないと思います。
おそらく、「砕かれる」と言う言葉が使われなくなっただけで、
「神さまに自分の全てを信頼する事にした。」とか、
「自分に頼らず、完全にキリストのみに信頼する。」など、
違う言葉で、このメッセージは語られていると思います。
個々の罪を犯した時には、罪の悔い改めは必要ですが、
砕かれる時には、悔い改める必要はありません。
神さまの摂理によって、人それぞれにいろいろな出来事があった末に、
もう少しも自分には頼れないと、やっと気づきます。
それくらい人間は、自分の力に頼るのが「生まれた時から普通」の状態なんです。
その時には「私は罪深い者です!」などと言うことさえ、なんと無駄な事か?と思います。
(私が、知らなかっただけですから)
自分に何の期待も出来ないと分かると、
「これが私(罪そのもの)」と認識して、全てを十字架に委ねるだけです。
しかし「これが私なんだ!」と自分の本心が見えると、
愕然としてとても絶望的な気持ちになりますが、
だからこそ、これはもう自分の手には負えないと知ります。
まともな自分になれるなんて、全く思えなくなります。
(思わないようにすることではなく、思えないんです)
そしてそれは落ち込む事でも、弱る事でもなく、
「あーイエスさま、ありがとう!」と言うしかない事柄です。
落ち込む事や、弱る事には自我の強さが隠れています。
自分を諦めていないからです。
仮に「自分はなんてダメなんだ!」と言ったところで、
イエスさまは、「そんな事はよく知っているよ。
だから、私が十字架についたのだからね。」
とおっしゃるに違いありません。
自分に頼る人は、自分と自分の力に執着しているので、
見つめる先が自分の内面なんです。
(私は何十年も内側ばかり見て、苦しみの日々を送っていました。)
しかし、見るところは十字架以外にはありません。
十字架だけです!
そこに見えるのは、私の罪となって死なれたイエスさまの死。葬り、復活。
イエスさまの内にあり、この復活の命によって、新しく生きるしかないんです。
その新しい復活の命の中に、本来「なりたかった自分」がいます。
キリストから、全ての善きものを頂く事が出来ます。
私自身を全て預け、キリストの命を頂く交換ですね。
他の道はありません!
他の道はないと、心底知るのです。
知らない間は、自分で何とかしようとします。
「もう少し静まって祈ろう。あのミニストリーをしよう。
誰か助けを頂ける人に会おう。」等々いろいろ思いつきます。
しかし、十字架にしか解決がないと知る事は、本当に嬉しい事です。
あんなに悩んだ「自分と言う重荷」を置く場所があるんです。
イエスさまと継ぎ合わされて、その命を頂き、
一緒に生きる事が出来るのですから。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、
わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた
神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」
(ガラテヤ人への手紙 2:19-20 )
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