◯ "Pardonné" "Permis"「赦す」 と 「許す」―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題

2015-01-19 07:55:17 | ♪PFK ASAP NEWS

2015-01-19 07:49:57
http://synodos.jp/international/12340
2015.01.14 Wed
「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題
関口涼子 / 翻訳家、作家

「シャルリー・エブド」誌襲撃事件の後、フランスと日本のメディアによる報道を追っていて、この事件への反応や解釈が2つの国でまったく異なっていることに気がついた。


大まかに言えば、フランスの場合は、「シャルリー・エブド」の編集方針に賛成でない人、あるいは同誌を読んだことがない人でもほぼ全員が、同誌への抗議の手段として殺人という最大の暴力が行使されたことに激しく怒りを覚えたのに対し、日本の場合には、「テロは良くないが」というただし書き付きで、「でも表現の自由と騒ぐのは西欧中心主義ではないか。表現の自由にも、他者の尊厳という制限が設けられるべきでは」と表明することが少なからず存在した。

ここではその点については触れない。それとは別に、取り急ぎ指摘するべき問題が一つあるからだ。




1月13日付読売新聞の夕刊、国際欄に出ていた記事のことだ。今日14日水曜日、襲撃事件後初めて発行される「シャルリー・エブド」最新号の表紙のデッサンに触れたその記事では、

「最新号の表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら『ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)』との標語を掲げる風刺画が描かれている。この標語は、仏国民が事件後、表現の自由を訴えるスローガンとして使った。表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。また、『すべては許される』との見出しも付け、ムハンマドの風刺も『表現の自由』の枠内との見解を訴えたと見られる。」

とある(AFP通信を始め、他の幾つかの日本のメディアにも、「ムハンマドへの風刺も許されるという意味と見られる」とあった)。



この記事には多くの事実誤認が見られる。政治学者の池内恵氏によると、緑はムハンマドのターバンの色ではなく、そもそもシャルリー誌の表紙絵の男性も緑のターバンなど被っていないのだから、単に一般的にイスラーム教というと緑とされているから、背景に緑を用いたのだろう、という。

また、ムハンマドの表象自体は、一般的ではないとはいえ、イスラーム世界でもかつては伝統的に存在していた。中世イランのミニアチュールなどでは、ムハンマドが描かれている。


右手、説教壇の上にいるのがムハンマド。ペルシャの学者アル・ビールーニーが書いた天文学書の挿画。


イランで1980年頃から作成されるようになった、若きムハンマドの肖像ポスター。




And I'm this article above all as a translator, and the place I'd like to point out is the important mistranslation seen by this article.


The meaning of Tout est pardonne

Two sentences are recorded on this table cover. First Muhammad and an interpreted man put up Je suis Charlie and written paper and are shedding tears. And it's written with Tout est pardonne on it.

We assume when everything was permitted, an article of Yomiuri Shimbun translated Tout est pardonne, and that indicated freedom of the speech which is with everything (And, they said or were selfish.), but this is the just reverse meaning.

When everything is permitted, it would be Tout est permis in French. Pardonne is different from Permis from Permission which means permission, and a heavier word which derives from forgiveness of a crime of a religion. And when it's permis, permitting the act to which I come in the future from present is meant, but pardonne means permitting an accomplished fault in the past. When Tout est pardonne is translated literally, everything, it was permitted, it'll be.


However,, if this is an idiomatic phrase of the spoken language at the same time, and look for the nearest implication in Japanese, for example, the words that a parent will say to by the return of the prodigal son, "do not already blame it about it" or a certain couple falls into the crisis of serious relations, and "let's already forget it after a difference for the long time last though there were various kinds"; will be expressed.


This isn't a word of reconciliation after an ordinary quarrel. There is a many years of feud and the case that that is left in the actual condition may not also be able to be permitted. A broken therapeutic point may not be gone back. Still let's decide to end about this matter, the reconciliation which will do that and move to the relation spicy but new each other The deep nuance you can't finish expressing in an expression every beautifulness I forgive and forget is included in this word.


そしてなにより、私が翻訳者としてこの記事で指摘したいところは、この記事に見られる重大な誤訳なのだ。


「Tout est pardonné」の意味

この表表紙には、ふたつの文章が記されている。まず、ムハンマドと解釈されるような男が「Je suis Charlie」と書かれた紙を掲げ、涙を流している。そしてその上には「Tout est pardonné」と書かれている。

読売新聞の記事は、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳し、何でもありだ、という、言論の自由(というか「勝手」)を示したものだとしているが、これはまったく逆の意味だ。

「すべてが許される」であれば、フランス語ではTout est permis になるだろう。「許可」を意味するPermissionから来ているPermisと異なり、Pardonné は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。そして、permisであれば、現在から未来に及ぶ行為を許可することを指すが、pardonnéは、過去に為された過ちを赦すことを意味する。「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる。

しかしこれは同時に、口語の慣用句であり、日本語で一番近い意味合いを探せば、たとえば、放蕩息子の帰還で親が言うだろう言葉、「そのことについてはもう咎めないよ」、または、あるカップルが、深刻な関係の危機に陥り、長い間の不仲の後、最後に「いろいろあったけどもう忘れよう」という表現になるだろう。

これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない。長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。割れた壺は戻らないかもしれない。それでも、この件については、終わったこととしようではないか、そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。





画面上この文章は、預言者ムハンマドが言ったとも取れるし、「シャルリー・エブド」誌側の言葉とも取れる。つまり、複数の解釈を許しているのだ。ムハンマドが言ったとすれば、それは、「君たちの風刺・または思想をもわたしは寛容に受け止めよう」ということであり、「シャルリー・エブド」誌の側としては、「わたしたちの仲間は死んだ。でも、これを憎悪の元にするのではなく、前に進んでいかなければならない」ということを意味するだろう。

読売新聞の記者は、このデッサンに「自分が読みたいことを読んだ」のかもしれない。イメージは曖昧であり、ときに自らが含んでいない解釈も許してしまう危険性があるが、この文章と結びつけられたときのメッセージは明白だ。Tout est pardonnéを、「すべては許される」とすることで、この読みの多様性が全て消えてしまう。

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