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◯ CHAPPiE「チャッピー」が内蔵する手塚治虫と芥川龍之介

2018-02-11 22:54:43 | ♬ AI

 2018-02-11 22:54:43

2018-02-11 22:54:43「チャッピー」が内蔵する手塚治虫と芥川龍之介

 



こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

ニール・ブロムカンプ監督作「チャッピー」を観た。本国での評判はイマイチだったと聞いていたが、これがどうして、中々に頭を揺らしてくれる映画だった。鑑賞して一晩が経ったが、まだ頭のどこかにしこりが残っている感じだ。というより、この感覚は二日酔いのそれに近い。(以下、作品のネタバレあり)



■ロボットの命、手塚治虫とブロムカンプ

先に言ってしまうと、「チャッピー」ほどに手垢が付きまくった物語もない。自我を持つプログラムの進化の先は…という内容であれば、近年は「トランセンデンス」や「her/世界でひとつの彼女」、ロボット警官の統治とそれによる危険性なら「ロボコップ」もリメイクされたばかりだ。そもそも、間が人間に近付いたからこその悲哀という物語は、さかのぼればピノキオあたりから語らなくてはならない。少し脇道に逸れれば、キカイダーや仮面ライダーもこれに近いニュアンスがある。しかし、日本人として挙げなければならないのは、やはり手塚治虫の「鉄腕アトム」だろう。





アトムのあらすじは日本人の多くがすでに知っていると思うが、彼もチャッピーと同じように、人間に作られた「限りなく人間に近い間」だ。俯瞰して見るとアトムの物語は陽のイメージが大きく、作風の変遷はあれど、悪い人やロボットとアトムが対決したり、不可解な事件を解き明かしたりする“ワクワク”が大部分を占めている。しかし忘れてはならないのは、アトムがロボットのアイデンティティに悩み、苦しみ、命というものを考えさせられるテーマを孕んでいることだ。青騎士やプルートウのエピソードに代表されるように、“たかがロボット・されどロボット”な存在たちがドラマを織りなす。

「チャッピー」のドラマは、この「鉄腕アトム」で手塚治虫が数十年前にやろうとしたことと、実はそう違わない。終盤の“人間の意識を機械の身体に移植する”というシークエンスも、「火の鳥」のロビタという偉大な前例がいる。だからといって、ブロムカンプ監督が周回遅れだなんてことを言いたいのではなく、彼はこの手垢の付きまくった作品に、自分なりのエッセンスをたっぷりと練り込んだ。





命を持ったロボットの物語であれば、倫理の教科書で頭を殴ってくるような映画にも思える。例えるなら、手塚治虫は割とこっちだ。畳の上に正座して目をつむっているこちら側に向かって、「考えなさい、考えなさい」と懇切丁寧に倫理の教科書で頭をコツコツとやってくる。対して「チャッピー」の場合、こちらが正座しているのは畳じゃなくて岩の上だし、多分同時に足の裏に根性焼きをされている。そして、倫理の教科書でコツコツと突くのではなく、思いっきり上から振り下ろされる感じだ。しかも、何度も、何度も。「もうやめてください!やめてください!」と懇願しているのに、ブロムカンプはおそらく満面の笑みで腕まくりをしているだろう。

それは一言にすれば「悪趣味」という単語に集約される。手塚治虫より、ブロムカンプの方がよっぽど趣味が悪い。いや、手塚治虫も相当に意地が悪いし屈折している面は多いのだが、「悪趣味」という意味ではブロムカンプの方がおそらく相当イカれている。

劇中のチャッピーは、酷い目に合う。ゴロツキに石や火炎瓶を投げられ、意識を保ったまま腕を切断される。その直前ギリギリまで、観客に対して「チャッピーは可愛くて小さい子供」という演出を積み上げておきながら、平気でこういうことをやる。これでは、自分と同じ生身の人間の子供が無残にも虐待を受けている様子と、何が違うのだろうか。その地点に至ったとき、観客は自然と「人間とロボットの違いはなんだろう」という劇中のチャッピーと同じ疑問を抱いているのだ。それにしても、腕が切断された際に血のようにオイルが噴き出すシーンはさすがにやりすぎだった。おい、ブロムカンプ、いい加減にしろ。(注:褒めています)



■チャッピーが辿り着くもすっ飛ばしたシークエンス

自身の「悪趣味」というコーティングで観客の心をえぐりつつ、自然とチャッピーに感情移入させるブロムカンプの手腕が光る。いや、正確には感情移入ではなく、チャッピーと同じ疑問を持ち、その哲学的で倫理的な問いかけの答えを探す姿勢を、強制的にスクリーンの向こうから求められる。気付いた時には四肢を縛られ、チャッピーの行く末を見守ってしまう。チャッピーがギャングから屈折した教育を受ければ受けるほどに人間味が増し、歩き方からちょっとした仕草、創造者デオンに叱られる時のいじけた態度まで、まるで思春期にちょっとグレた少年のように見えてくる。しかし同時に、彼は主にゴロツキから姿を見ただけで忌み嫌われ、迫害され、銃弾をその身に浴びていく。

劇中で「死とは意識が次の場所にいくこと」という概念が示されるが、それはつまり「じゃあ肉体は何でもいいの?関係ないの?」という疑問の裏返しでもある。観ている側は、そういった問いかけが頭の中でグルングルンするも、ド派手な映像と畳み掛けるハンス・ジマーのスコア(露骨にターミネーターっぽいのはご愛嬌)、妙に小物臭いヒュー・ジャックマンと“テンション”に代表されるジャパニーズ闇鍋要素に振り回されていくのだ。気付いた時には、物語はとんでもない方向に傾いていく。





基本的にスタイリッシュな映像が続くが、たまに堤幸彦ばりにキャラクターを真正面から撮るなど絶妙にダサい画もあり、この“一級品とは言い難い”感じが、まさにチャッピー的な何かだなあ、と。むしろ、ブロムカンプ的と言おうか。この「チャッピー」は、観た後に残る観念的な作品として、例えば「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」のような上品さは一切ない。気品の欠片も見当たらない。前述したように、ひたすらに「悪趣味」なのだ。だから、ふと気付けば傑作かもしれないし、一歩間違えればただの頭のおかしい奇作にも受け取ることができる。これを書いている私も、実はまだこの映画の自分の中での評価が全く定まっていない。

意識が別のところに行く、肉体は一種の入れ物である、という考え方は仏教の“輪廻”にも通じる部分があり、これも手塚治虫が「火の鳥」でメインテーマとして扱っていた。これについて「チャッピー」が面白いのが、例え入れ物であれど、元の肉体に対する執着や慈悲が全くないことだ。物語のラスト、チャッピーはシステムをハッキングして母と崇めるヨーランディの“蘇生”を画策する。おそらく、機械の身体で蘇ることの是非や倫理的な意味について、チャッピーはひとつも疑問を抱いていないだろう。誰かがそれを指摘したとしても、本人は「何が悪いのか?」と純朴に聞き返してくるだろう。だって、誰も教えてくれなかったのだから。





チャッピーは、人間が“人間の身体”を持っていることに全くもって意味を見出していないし、しかしそれは彼自身が人間でないからこそ至れた境地でもある。つまり、「個」を構成するのは「意識」であって、「肉体」は何でも構わない。意識を転送し機械の身体になったデオンも、一瞬たりとも元の身体に対する執着や後悔を見せず、無邪気に喜ぶ。ここまで、手垢のついたテーマをひとつひとつ積み上げてきたのに、この最後の最後で“この手のテーマに通常あるべき”「肉体への執着」というシークエンスを二段階くらいすっ飛ばしている

元のチャッピーのボディやデオンの身体は、無残に扱われること“すら”無く、完全に画面から退場する。だから観客は「え?」と、口を開けてしまうのだ。「そんなに簡単に?あっさりと?」。一緒に歩んできた理解が、あの瞬間一気に物語に追い抜かれ、突き放されたまま本編が終わる。これをハッピーエンドと取るか、バッドエンドと取るか、はたまたそのどちらでも無いのか、観た人によって解釈は様々だろう。



■芥川龍之介が魅せるエゴイズムとの共通点

「チャッピー」のラストを観て私がなぜか思い出したのは、芥川龍之介の「羅生門」だった。昔国語の授業で習ったが、この短い小説は、人間のエゴイズムを非常に克明に表現している。参考までに、Wikipediaからあらすじを引用する。


背景は平安時代。飢饉や辻風(竜巻)などの天変地異が打ち続き、都は衰微していた。ある暮れ方、荒廃した羅生門の下で若い下人が途方にくれていた。下人は数日前、仕えていた主人から解雇された。生活の糧を得る術も無い彼は、いっそこのまま盗賊になろうかと思いつめるが、どうしても「勇気」が出ない。そんな折、羅生門の2階に人の気配を感じた彼は、興味を覚えて上へ昇ってみた。

楼閣の上には身寄りの無い遺体がいくつも捨てられていたが、その中に灯りが灯っている。老婆が松明を灯しながら、若い女の遺体から髪を引き抜いているのである。老婆の行為に激しい怒りを燃やした下人は刀を抜き、老婆に踊りかかった。老婆は、抜いた髪で鬘を作って売ろうとしていた、と自身の行いを説明する。それは自分が生きるための仕方の無い行いだ。この女にしたところで、生前に蛇の干物を干魚だと偽って売り歩いていた。それは、生きるために仕方が無く行った悪だ。だから自分が髪を抜いたとて、この女は許すであろうと言う。

髪を抜く老婆に正義の心から怒りを燃やしていた下人だったが、老婆の言葉を聞いて勇気が生まれる。そして老婆を組み伏せて着物をはぎ取るや「己(おれ)もそうしなければ、餓死をする体なのだ。」と言い残し、漆黒の闇の中へ消えていった。下人の行方は誰も知らない…。






改めて読み返してみても、「チャッピー」イズムを感じる部分は多い。「生きるために悪事を働く」を“よし”としてしまう解釈については、まさに劇中でニンジャが闘犬を引き合いに出してチャッピーを説得したシーンのようだ。そして、一線を超えた下人の行方を読者は知らないし、チャッピーたちのその後も、こちら側は知ることができない。ただ、なんとなくの感覚で、決して順風満帆のハッピーエンドが訪れないことを、知っているのだ。

この「チャッピー」という物語には、見事に愚か者しか出てこない。それはギャングたちについては言わずもがなだし、創造主のデオンも明らかだろう。ヒュー・ジャックマン演じるムーアも慢心的な愚の骨頂だし、もちろん、チャッピーも極端に愚かだ。まともな奴がひとりもいない物語で、そのエゴがぶつかり合う。金を儲けたい、名声を得たい、研究を追求したい、そして、とにかく生き続けたい。交差する「エゴイズム」と死屍累々という点にも、「羅生門」のような屈折した物語との符合を感じてしまう。みんな、自分なりの言い訳をしてばかりいる。





しかし、上で一度書いたにも関わらずだが、この物語は本当に「チャッピーの行方は誰も知らない」というエンディングなのだろうか。

というのも、映画の冒頭、ニュースかワイドショーかの映像から「チャッピー」の幕は上がるのだ。テロップ付きの専門家らしき面々が、「まさかあんなに早く進化するとは…」などとおそらくチャッピーと思われるAIについて語り、<18ヶ月前…>というテロップを経て本編に突入する。つまり、チャッピーが新しいボディを手に入れるまでのあの数日間の進化の過程が、その18ヶ月後には“周知の事実”になっているのである

一連の事件を唯一知っているデオンはチャッピーと行動を共にしているし、彼ももう普通の人間ではない。この部分を理詰めで考えていくと、チャッピーたちはもしかしたらその後人間の警官たちに捕縛されそのボディを研究のため解体されてしまったのかもしれないし、もしかしたら近い将来に、人間の意識を機械の身体に移す技術が一般化しているのかもしれない。チャッピーがいとも簡単に超えた一線が、その後あの世界にどのような影響をもたらしたのか。その含みを持たせつつこちらを突き放すエンディングに、それこそブロムカンプの悪趣味なエゴイズムを感じてしまうのだ。
 
 
 
 
 
 

知恵コレ

ペットの名前の英語表記について
犬の名前を英語で表記すると
ボビー=Bobby
チャピー=Chapy (※チャッピーではない)
で良いのでしょうか。

英語の綴りに詳しい方がいらっしゃいましたら教えてください。

宜しくお願い致します。

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2013/03/05 23:11

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ベストアンサーに選ばれた回答

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malinois703さん

ボビーは男の子なら、Bobby 女の子ならBobbie (女の子でも、ボビーはいる。うちの親戚の叔母さんの様に)
チャピーは、Chappy もしくは、 女の子なら Chappie ですね。
同じ名前でも、女の子の場合は、最後がie になります。 勿論、Chappi とちょっと変わった感じにしてもいいでしょう。

ナイス

0

2013/03/06 03:23

 

質問した人からのお礼

ありがとうございました。三名の方とも、回答ありがとうございます。