2018-11-10 09:21:27 crrier
CULTURE
7min2018.9.17
だから、「モナ・リザ」はすごかった
ダ・ヴィンチの“7つの謎”と「天才の見る力」
Photo: pictore / iStock / Getty Images
Photo: pictore / iStock / Getty Images
ル・ポワン(フランス)
ル・ポワン(フランス)
Text by Roger-Pol Droit
レオナルド・ダ・ヴィンチが、いまなお“人類史上最高の天才”と言われる所以は、その卓越した「見る力」にある。
現代と同じく、“変化の時代”を生きぬいた、ルネサンスの巨匠──。その人生の謎を解きながら、世界を見通す「天才の目」を学ぼう。
レオナルドの人生は果てしない旅だった。どこにも腰を落ち着けることがなく、どこにも拠点を構えなかった。
少年期はヴィンチ村で過ごし、青年期はフィレンツェ、円熟期にはミラノ、動乱の時代にはヴェネツィアやローマ、そして最期はフランス中部のクロ・リュセ城で過ごした。
旅立つときは、悲しむことなく、ノスタルジーを抱くこともなかった。高齢になっても、気候や文化や言語が異なる国に移住することを躊躇しなかった。
数人の近しい者とアルプス山脈を越えたのは64歳のときだった。その一行にはフランチェスコ・メルツィもいた。やがてレオナルドが4万枚の手稿を遺すことになる弟子だ。
数頭のラバが運ぶカバンにレオナルドの人生のすべてが入っていた。
『モナ・リザ』などの絵画作品がまるめられてしまわれ、鏡文字で書かれた手稿はすべて紐で結わえられていた。
ラファエロによる『アテナイの学堂』。中央左手の髭をたくわえたプラトンは、ダ・ヴィンチがモデルと言われている
ラファエロによる『アテナイの学堂』。中央左手の髭をたくわえたプラトンは、ダ・ヴィンチがモデルと言われている Photo: Photos.com / Getty Images
ラファエロが『アテナイの学堂』でレオナルドをモデルにして描いたプラトンのように、ひげをたくわえ、思索にふけり、不遜だったのだろう。
巨匠も高齢になり、マラリアで死にかけたこともあった。助手であり恋人でもあったサライも、最晩年にはレオナルドのもとを離れた。
自分がイタリアに戻ることもなければ、トスカーナ語を聞くこともないことを知っていたはずだ。だが、レオナルドは進み続けた。
ロンバルディアとピエモンテを越え、モンジュネーヴル峠に積もった雪の道も耐えながら歩み続けた。
第1の謎|ダ・ヴィンチが最も大事にした「あること」
実際、レオナルドを止めるものは何もない。失敗も無関心も関係ない。不祥事も悪口も関係ない。栄光も賛辞も関係ない。
レオナルドは、あらゆる挫折を経験していた。挫折のせいで悩み、自分の力が落ち込んだように感じたこともあった。
CULTURE
7min2018.9.17
だから、「モナ・リザ」はすごかった
ダ・ヴィンチの“7つの謎”と「天才の見る力」
Photo: pictore / iStock / Getty Images
Photo: pictore / iStock / Getty Images
ル・ポワン(フランス)
ル・ポワン(フランス)
Text by Roger-Pol Droit
レオナルド・ダ・ヴィンチが、いまなお“人類史上最高の天才”と言われる所以は、その卓越した「見る力」にある。
現代と同じく、“変化の時代”を生きぬいた、ルネサンスの巨匠──。その人生の謎を解きながら、世界を見通す「天才の目」を学ぼう。
レオナルドの人生は果てしない旅だった。どこにも腰を落ち着けることがなく、どこにも拠点を構えなかった。
少年期はヴィンチ村で過ごし、青年期はフィレンツェ、円熟期にはミラノ、動乱の時代にはヴェネツィアやローマ、そして最期はフランス中部のクロ・リュセ城で過ごした。
旅立つときは、悲しむことなく、ノスタルジーを抱くこともなかった。高齢になっても、気候や文化や言語が異なる国に移住することを躊躇しなかった。
数人の近しい者とアルプス山脈を越えたのは64歳のときだった。その一行にはフランチェスコ・メルツィもいた。やがてレオナルドが4万枚の手稿を遺すことになる弟子だ。
数頭のラバが運ぶカバンにレオナルドの人生のすべてが入っていた。
『モナ・リザ』などの絵画作品がまるめられてしまわれ、鏡文字で書かれた手稿はすべて紐で結わえられていた。
ラファエロによる『アテナイの学堂』。中央左手の髭をたくわえたプラトンは、ダ・ヴィンチがモデルと言われている
ラファエロによる『アテナイの学堂』。中央左手の髭をたくわえたプラトンは、ダ・ヴィンチがモデルと言われている Photo: Photos.com / Getty Images
ラファエロが『アテナイの学堂』でレオナルドをモデルにして描いたプラトンのように、ひげをたくわえ、思索にふけり、不遜だったのだろう。
巨匠も高齢になり、マラリアで死にかけたこともあった。助手であり恋人でもあったサライも、最晩年にはレオナルドのもとを離れた。
自分がイタリアに戻ることもなければ、トスカーナ語を聞くこともないことを知っていたはずだ。だが、レオナルドは進み続けた。
ロンバルディアとピエモンテを越え、モンジュネーヴル峠に積もった雪の道も耐えながら歩み続けた。
第1の謎|ダ・ヴィンチが最も大事にした「あること」
実際、レオナルドを止めるものは何もない。失敗も無関心も関係ない。不祥事も悪口も関係ない。栄光も賛辞も関係ない。
レオナルドは、あらゆる挫折を経験していた。挫折のせいで悩み、自分の力が落ち込んだように感じたこともあった。