マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

宋末、元初の時代に何があったのか?

2021年08月29日 09時43分28秒 | 歴史の翻訳
少し追加記事を書きました。

前回は神武天皇の東征がモロッコから始まったと述べました。なぜモロッコなのかがいまいち不明なのですが、そもそも始まりの天照様が降臨したのは天国アルメニアとなっていて、そこからイザナギ、イザナミ、海幸・山幸の物語などがあり、結果そうなったのしょうが、順番通り歴史を調べると意外と退屈なもので、気になることを重点的に調べるのが私のやり方なのです。わからないことはまたの機会に調べればいいのです。
私が最も知りたいのは日本の支配者がいつごろ、どのような経路で日本にやってきたか、そして彼らはその足跡をどのように残してきたかであります。
神武が実在したとして、その年代、さらにオリエントの歴史の中ではたしてどのように描かれているのか・・・・疑問は山ほどあるのですが、少しづつ解明してゆくしかありません。
現在研究対象にしているのが国立国会図書館デジタルコレクションでダウンロードした古書「日本民族祖先の雄図」(著者 木村鷹太郎 出版 大正9年)です。
古書をスキャンし、そのままPDF化したもので、入手困難な書物を我々が無料で読むことができる非常にありがたいサイトです。https://dl.ndl.go.jp/
もちろん「日本太古史(上、下)もダウンロードしましたが、「雄図」がおそらく木村氏の最新版で一番新しい考えが書かれていると思い、まずはこの本を読んでみようと考えました。(年代により少しづつ主張が変わってゆく。当然ですね。)
ただし、今日話題にするのは「日本太古小史」で、これは太古史の縮小版といえるもので、いわばダイジェスト版と言えます。これを少しずつプリントアウトし読んでいますが、時間が限られているため一日に何ページも読めません。まあ、ライフワークとしてゆっくりやっています。
何度も言いますが、私は木村氏の考えとは明らかに違います。彼は日本の天皇は世界を支配するべきだというような超右翼的な考えを持っていて、それこそ日本は世界のひな型だという危険な思想を持っています。しかし日本の天皇がエジプト・ギリシャ方面から移動してきたことを明らかにし、移動の経過を詳細に記すことは支配者層にとって実は「不都合な真実」であり、「ありがた迷惑」な話になっていたと思います。だからこそ史学会はシカトし彼の挑発を無視し続けたわけです。
さて、木村氏の説を鹿島氏がさらに進め、「史記解」(鹿島昇著)で、中国の歴史はオリエント史の借りものであることを証明し、さらに、日本史も朝鮮史のコピーだと論証してきた。しかし鹿島説をさらに進めたのが稲羽太郎で、鹿島氏の見逃してきた部分を大幅に見直し、おおむねオリエント史と中国史の対比がほぼ完成できてきた。
鹿島氏は司馬遷が漢の史家で、漢以降の歴史は正しいものと考えています。稲羽氏は中国史の宋代以前をすべてオリエントの借史とし、さらに高句麗・新羅・百済までもオリエントの歴史としています。ここまでくると中国・日本・韓国の歴史はほぼ全部が歴史とは言えず、支配者たちの出世物語に過ぎないことになります。
とはいえ、トロイ戦争と白村江の真実、ヘブライ王国の誕生年など本当に正しいのかは現状では仮説にすぎない。そんな中でデジタルコレクションで木村氏の著書が見ることができるとわかり現在夢中で読んでいるわけですが、そこで気が付いたのは「木村が一番過激」なことです。
まずは少し読んでみましょう。とはいえ、長くなるかも…ですが、本物は旧字体で格調高い代わりに読みにくいのでマヨ流に翻訳してあります。
「これより後代に関し、古典に書かれているのはアフリカ南部一帯より、インド、チベット、中国西南方面を含み日本書紀、天智、持統、天武天皇の時代においては日本国家の中心はインド・チベットとなりバンコク、ウイグル、デリー、カシミールの地は古典では他の名称をもって記載していることは新研究の発見でした。かくて日本歴史は奈良朝、平安朝、源平時代、鎌倉時代、南北朝時代となるものがあったと言うが、それらの時代の地理的舞台はどこであったのだろう。私はこれを極東島国日本ですとは言うわけにはいけないという者であります。なぜなら源平時代と南北朝時代とは実は連携する時代とは言えず重複していると考えるべきで、南北朝時代の末期、光厳院の行脚記事なるものは明らかにビルマ方面からインド南方一帯及び、セイロン島地誌を示しているわけで、しかもその年代は中国史に当てはめると宋末・元初のころになってしまう。
その日本書紀以後太平記に至る間に包有される地域は西北はエジプトギゼーの三角塔地からアフリカ南端に居たり、現在のアルベルト・ニャンザ湖、ビクトリア・ニャンザ湖等をはじめそのほか詳細なる地誌が存在する。また、マダガスカル及びその東方の再会島(リュニオン島・近松門左衛門は又会う島という)は鬼界島(オデッシーKirkao島)の名で書かれている。・・・・・略・・・・・・
その果たしていずれの時より現在島国日本の国家的活動の歴史の始まったのだろうか。私もいまだに十分明らかにできていないところではありますが、意外と新しいものであることは感じているところであります。」(「日本太古小史」p128)
まあ、さすがに平安時代や鎌倉時代まで日本列島の出来事ではないと言われるとちょっとびっくりせざるを得ないが、南北朝が別々の場所で起きたことを重ね合わせた歴史だとすると・・・・うーん何も信じられなくなるが…。
ただ、以前S氏から「亀山天皇の時代に日本の地政学的重要性」が高まってきたため、〇〇宮を設置し、日本を南北朝に分断し支配することにした。」と聞いている。その時代と木村氏の指摘する光厳上皇の宋末、元初が奇しくも一致する。
さらに稲羽氏の「中国の歴史は宋、元の時代から本当の歴史になる」という主張とも一致する。
それ以前に日本に歴史がなかったとは言わない。十分な長い歴史はあったのですが、書き換えられ、以前の歴史は破り捨てられたということでしょう。
宋はAD960年に建国された国家でこの国の歴史から本当の歴史だと稲羽氏は述べる。つまり元、つまり女真族とイスラエル部族の本格的な争いが起き、日本の地政学的位置が重要になってきたものと思われる。春秋時代の宋は実はヘブライ王国の歴史を中国語に翻訳したもので中国本土の歴史ではない。
また、木村氏は日本の元寇がペルシャとギリシャの戦争と全く同じであると述べている。つまり元寇があったとする北条時代に疑問を呈している。まあ、この件は別の機会に検証しよう。

木村氏は出雲風土記はエジプト史だとも言っている。この分でいうと各地に残る風土記も怪しいものである。wikiで風土記を調べると、「現存するものは全て写本で、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態で残る。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用されるのみである。ただし、逸文とされるものの中にも、本当にオリジナルの風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。」まあ、すべてをつじつまを合わせて改修するのはなかなか大変で、重要なものは書き換え、面倒なものは焼き捨てのだろう。

それにしても、支配者たちの歴史に対する執念には恐ろしいものを感じる。ウバイド=倭国は世界の王を決める権利を持っているという。国の代表が王だとしてその王を選ぶのはもはや神の仕事である。倭国は表面的には消えているが、既得権益を所持したまま影の存在として今もどこかに存在しているようだ。
私の研究はどこへ向かうのか、今は何も見えていない。

追加分

神武の兄弟で、稲氷命が新羅、つまりローマの始祖となったと書きましたが、もう一人の兄弟、三毛入野命はエジプトに入ったという。これがミケリヌスと言い、該当するエジプトの王とは、ギザの三大ピラミッドのうち第三ピラミッドを建造したとみられるメンカウラー王のことです。この王について、ギリシャの歴史家ヘロドトスがミケリヌス(Mykerinos)という名で伝説を残しているんですね。つまりメンカウラーのギリシャ語読みがミケリヌス。これはもうビンゴでしょう。このことでうれしいことは年代がほぼ確定できることです。この王のミイラが英国博物館に現存しているともいわれます。これで神話が現実とつながります。
要は、神武兄弟の活躍した時代がほぼBC2500年前後となります。
まあ、このような小さな積み重ねで歴史を構築してゆくわけです。