アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

うーん!漢字が多い…

2015年12月05日 | Weblog
 織田信成文学修士をテレビで観る機会が多い。ニュース番組から、バラエティ番組から、スポーツキャスターから、CMにも多数出演。どこの誰だって?元フィギュアスケート選手なんですけどね。「サルコウ(猿公とは無関係)の織田くんか」って?そうです。
 文学修士はないだろうって?修士様なんだからしょうがないでしょ!織田信成さんは、「関西大学大学院文学研究科博士前期課程総合人文学専攻身体文化専修修了。学位は修士(文学)」なんです。漢字の羅列っ長っ!学歴を紹介するのに、漢字が33ですよ!さすが、文学修士!

 その、織田信成文学修士が、織田信長の子孫という話はあまりにも有名。系図によると…
 「初代織田信長→二代信高→三代高重→四代一之→五代信門・・・中略・・・ 十三代豊春→十四代重治→十五代信義…で、信成は次男」
 ※二代信高というのは、信長の後継という意味の二代ではなく、織田信成さんの初代を信長とすれば、二代目が信高ということ。史実としての信長の二代目(清洲会議で決まった)は秀信。幼名三法師。
 二代信高は、信長の八男。ちなみに…信長の子といわれている男子は12人…。十二男(じゅうになん)までいたらしい。女の子もたくさんいたようです。

 織田信成文学修士が、織田信長の子孫ではないという論を展開しようとしているのかって?とんでもない!「家系図」などというものは、誰でも勝手に作ることができるものですから、文学修士様が織田信長の子孫であろうがなかろうが全く興味がありません。
 ただ…織田信成文学修士のご先祖様なんですが、私はてっきり信雄(のぶかつ)だと思っていました。この度、信高の子孫だったと知って…少々「?!」でした。今も日本に続いている織田信長の血筋は、「信雄」の子孫しかいないと思い込んでいたもので…。まさか、信高の子孫がいたとはね。

 信雄はあまり耳にしないって?織田信長と長男の信忠が本能寺の変で討たれたため、重臣たちが織田家の家督相続人を決めた清洲会議。ここで後継に選ばれたのは、羽柴秀吉が推挙した信忠の遺児、三法師でわずか3歳だった。柴田勝家(織田家筆頭家老)が推したのは三男の信孝だった。つ、つまり…信長の二男信雄は、誰にも担がれることがなかった。これ、おもしろいでしょう!私は、秀吉も勝家も、「信雄を信長の後継にすると、自分たちの思い通りにならない」と判断したんじゃないかと思っていますがね。なかなかの策士だったらしい。

 で、秀吉と勝家が戦った「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で、信雄は信孝にいちゃもんをつけて切腹させているんです。信雄は、秀吉についてみたり、家康についてみたり…よく言えば時代の趨勢を読んだ。悪く言えば、なりふり構わぬ日和見主義者。それが幸いしたのか、信長の子で、江戸時代に大名として生き残ったのは信雄ただ一人。だから、てっきり文学修士は信雄の子孫かと…。うーん、漢字が多い文章でしたぁ。