おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「笑い三年、泣き三月。」 木内昇

2011年10月12日 | か行の作家

「笑い三年、泣き三月。」木内昇著 文藝春秋社 2011/10/11読了

 

 「茗荷谷の猫」も「漂砂のうたう=直木賞受賞作」も、私にはイマイチ、響きませんでした。なんというか、不思議な空気感だけが残り、ストーリーとしてはつかみ所がないというか…そんな感じ。 

 

 でも、「笑い三年、泣き三月。」は、本屋に平積みしてあるのを見た瞬間に「ど真ん中にストレートが来るっ!」という予感がしたんです。というか…本に呼び止められたような気がしました。その直感は大当たり。

 

 江戸や明治を舞台としたこれまでの作品から一変、「笑い三年、泣き三月。」の舞台は敗戦間もない時期の浅草の小さな劇場ミリオン座。東京で一旗あげようとやってきた旅芸人の岡部善造、空襲で家族を失った戦争孤児の武雄、かつては映画監督を目指していたが夢破れ毒舌ばかり吐いている光秀、財閥の令嬢だったと言い張るストリッパーのふう子。登場人物1人1人の輪郭がくっきりとしていて、ページをめくるたびに物語に引き込まれていく。

 

 これまでに何度も資料映像で観て、ドラマや映画の題材になって「知識」としては知っていることだけれど、改めて、たった65年前、東京の町は何もかもが焼け尽くされた焦土だったんだ―ということを思い知らされる。特に、印象に残ったのは、ミリオン座の面々が、卵かけご飯を食べるシーン。いまとなっては、粗食、手抜き飯の代表格のような卵かけご飯が、当時の日本人にとっては、夢のようなご馳走。卵を口にするのは何年ぶりか―その興奮で鼻血を出してしまうほど。もう一つは、武雄が宝物にしているカメラに初めてフィルムを入れてもらい、考えに考え、悩みに悩みぬいてシャッターを切る場面。それまで、武雄はフィルムが入っていないままファインダーをのぞき、シャッターを切り、頭の中で現像した写真をイメージするしかなかった。高価なフィルムを無駄にすることのないよう、真剣に被写体に向き合いながら押すシャッターの重みに息苦しくなる。

 

 でも、この物語が伝えたかったのは、つい65年前の日本が貧しくて、辛い時代だったということだけではないと思う。ストリッパーのふう子がいい味を出している。周りの人がみんな、ウソだと知っているのに、頑なに「戦争でお父様が死んでしまって落ちぶれたけれど、私は財閥の令嬢だったの」と言い続ける。ストリッパーの仕事に加えて、売春をしてお金を稼いで善造や武雄を自分のアパートに住まわせ、「さあ、みなさんで一緒に食べましょう」「お裾分けをして差し上げるわね」と食べモノを分け与える。とてつもない見栄っ張りか、虚言症のようでもあるけれど、終盤の告白が泣かせる。「私は何の取り柄もない子どもだった。きれいでもないし、勉強もできなかった。でも、戦争が終わって、私には生き延びる才能があるかもしれないって気付いた。だったら、その生き延びる才能を大切に、エレガントに生きようって決めた」

 

食べるものもない、着るモノもない、暖を取るものもない、仕事もない。夢見ることが許されなかったというよりも、夢見る余裕すら無い時代を、日本人はこうやって生き延びてきたのだ。

 

 国債の格付けが最上位でなくたって、GDPが中国に抜かれたって、円高でヨレヨレになったって、そして1000年に1度の震災・津波に見舞われても、きっと、もう1度スタートラインに立ってやり直すチャンスが日本にはあるのだと信じたい。

 

 旅芸人出身の善造は、最初は「自分の笑いは東京でも十分に通じる」と自信に満ちあふれていたが…大きな劇場の舞台に出演するチャンスを自ら潰し、やがてはミリオン座の客からも飽きられ、再び、旅芸人の世界へと戻っていくことになる。それでも、善造のカラ元気なぐらいの前向きさに救いがある。「さあさ、皆さん、ご陽気に!」、善造のかけ声は今こそ、必要なのかもしれない。

  

 前書きも後書きもないので、作者がどんな思いでこの物語を書いたのかはわからない。木内昇は、私と同世代だ。この物語にあるような何もない時代から這い上がってきた世代を親に持ち、でも、自分自身は高度経済成長期のまっただ中に生まれ、右肩上がりだった時代に育った。貧しかった日本を実体験として持つ人から、直接、話を聞いた私たちの世代が、さらに、その伝聞情報を、どう、次の世代にバトンタッチしていくか。作家が、そういう課題を自らに課しているのではないか―と感じさせるようなストーリーだった。

 



コメントを投稿