おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「おれのおばさん」 佐川光晴

2011年11月30日 | さ行の作家

「おれのおばさん」 佐川光晴著 集英社 

 

 「ぼく」から「おれ」へ。大人の階段を上りつつある陽介少年の物語。

 

 陽介は受験を勝ち抜き、都内の名門私立中学校に通っていた。エリート街道の切符を手に入れ、本人も、周囲も「めざすは東大」と考えていたはずなのに…。銀行員の父親が愛人に貢ぐために顧客のカネを横領していたことが発覚し、逮捕。中学二年生にして、転落人生の悲哀を味わうはめになる。

 

名門私立中学を退学し、母親の姉・恵子が経営する北海道の児童福祉施設・HOBO舎に預けられる。決して優等生集団とはいえない、複雑な事情を抱えて施設に預けられている子どもたちの中で、陽介はいつかエリート街道に復帰してやらんとばかりに1人ストイックに勉強を続ける。同じ年の頃の子どもたちが1つ屋根の下で暮らせば当然、小さなフリクションがあり、しかし、心に傷を持つもの同士の連帯も生まれる。ちょっと異色な設定のスクール小説のようなのだが、大人が読んでも圧倒的に面白いのは、施設を経営する「おれのおばさん」恵子さんの存在があるからだ。

 

恵子さんは、北大医学部に進学したものの、演劇にのめり込んで中退。そしてバツイチ。大人になってから、自ら、エリート街道からドロップアウトすることを選んだ人。でも、少しも不幸そうじゃない。ちょっと(かなり?)変人だけれど、逞しく、元気で、生命力があり、そして、彼女を助けてくれる人のネットワークを持っている。そして、揺るぎない自分への自信。

 

陽介をはじめ、施設にいる子どもたちにとっては、単なる寮母というよりも、母であり、父であり、リライアブルな大人。大人の私から見ても、こういう大人でありたいなと思うような人。

 

人生は思い通りにはいかない。でも、それはそれで、結構、面白いことあるじゃん―というメッセージがじわり伝わってくる。しかし、今の中学生って、こういう小説、読むのかなぁ??? 中学生のための小説というよりも、下を向いている大人が上を向くための小説のような気がした。


「隣のアボリジニ」 上橋菜穂子

2011年11月30日 | あ行の作家

「隣のアボリジニ」 上橋菜穂子著 ちくま文庫  

 

 個人的には胸がチクリと痛む一冊だった。

 

作家であり、文化人類学者である著者が20代後半~30代にかけてオーストラリアの原住民・アボリジニの調査をした経験を綴ったもの。文化交流のための派遣小学校教員として現地にもぐりこみ、少しずつ情報提供者を開拓していく。

 

 アボリジニに対して勝手に描いていた幻想と、それが幻想だとわかった時の戸惑い。そして、「アボリジニの伝統」を実体験として知らない世代が増え、にも関わらず、生活水準や差別によって白人のコミュニティとは融合しきれないアボリジニの人々の不満など、著者が見て感じたまま、そして、研究者としての未熟さに対する反省も率直に語っている。

 

 心が痛む理由の1つは、私自身も文化人類学を学びたかったし、そのチャンスはあったのに、学生時代に遊び呆けていて(というか、バイト三昧?)、成し遂げなかったことへの深い深い反省があるから。そして、もう1つは、大学時代にタイのトレッキングツアーに参加して山岳民族の村を尋ね歩いたことを思い出し、古傷に触れられたような気分になったから。

 

 当時は、トレッキングツアーに参加して、アドベンチャー気分を満喫。タイとミャンマー(私が旅した頃は、ラオスだった)の国境付近の山岳地帯に住む民族には、都市部のタイ人よりもずっと日本人と顔が似ている民族もあり、共通のオリジンを感じたし、特別の日に食べるという赤米は日本のお赤飯に似ていたりと、興味深い発見がいっぱいあった。でも、山岳民族にとって「見世物になる」ことが継続的に貨幣を得る手段であるということが、どうしても心にひっかかった。そもそも、貨幣経済に組み込まれることは、彼らが自ら選択したことなのだろうか? 仮にそうであるとしても、その手段が「見世物になる」ということは正しいのだろうか。~なんて、お金を払ってツアーに参加した私が論じるべきことではないけれど、異文化に足を踏み入れることの難しさを感じた。

 

 著者が、その「難しさ」と真正面から向き合い、誠実にアボリジニの人たちと信頼関係を築き、アボリジニが置かれている難しい状況を分かりやすく示したことは、文化人類学という学問が、人の文化に足を踏み入れるという無神経さから逃れられない一方で、社会にフィードバックできるものがある可能性を示しているように思えた。

 

 さすがに、アボリジニのような形で新たな「被・征服民族」が現代社会で生まれることはないと思う(思いたい)。でも、日本におけるアイヌや在日韓国・朝鮮人の人たちや、世界各地の移民コミュニティなどのマイノリティがどうやって社会の中でアイデンティを維持するのか、マジョリティと遜色のない生活レベルを確保していくのかというのは、これからも、ずっと、「難しい問題」であり続けるのだろうなと思う。

 

 …とつらつらと、まとまりのないことを書き連ねているのは、勉強しなかったものの、やっぱり、私にとって人類学がとても気になる学問であり、だから、この一冊はとても「ひっかかった」。


「蹴りたい背中」 綿矢りさ

2011年11月24日 | わ行の作家

「蹴りたい背中」 綿矢りさ 河出文庫 

 

 高校の修学旅行の写真、もはや、どこにしまったのかも覚えていないけれど、思い出すだに恥ずかしい「痛い」写真。仲良しだったグループのメンバー6人全員が、赤いカバンをたすき掛けにしている。お揃いではないし、微妙にデザインも色味も異なるものの、「赤いおっきなカバン」が当時、私たちの間でのドレスコードだったのです。ユッコちゃん、美樹ちゃん…同性から見ても「カワイイ」友達ができて、私はかなり舞い上がっていたと思う。

 

 で、「蹴りたい背中」は、そういう舞い上がっているバカな同級生の輪に入るには早熟すぎ、かといって、輪から外れて超然としているほど大人でもないハツを語り手とした青春()小説。

 

 ハツは、同じように、クラスのグループの輪に入りそびれているにな川という男子と親しくなるが、「余り物」同士、強く共感しあうわけではない。にな川は自分が興味あること以外には何の興味も示さず、ハツは、その背中を蹴りたい衝動に駆られるほどに、にな川の幼さに苛立つ。

 

 そして、私は、群れることによる安寧のために、仲良しグループドレスコードを喜々として遵守していた高校生の頃の私の背中を蹴ってやりたくなる―って、いうのが綿矢りさの狙い通りの読み方なのだろうか。

 

 いずれにしても、高校生を経験した誰もが、多少なりとも胸がうずくような気持ちを感じるのだろうなと思う。中学生は中学生なりに、高校生は高校生なりに、大学生は大学生なりに、人間関係って難しいもんです。

 

 こういう誰もが食いつきそうなフックはあるものの…小説としての面白さは、あまり感じなかった。というか…私は、やっぱり、芥川賞系の作品は、イマイチ、ノレない。

 

ところで、2004年は、まだ、ツイッターもフェイスブックもなかった。学校の教室という現実空間の中に人間関係の大半があったけれど、最近の学生さんは、ソーシャルメディアでも色々な人と繋って、人間関係を築いていかないといけないんだろうなぁ。さぞやご苦労も多いことかと。つくづく、自分が学生時代にこういう面倒なものが存在していなくと良かった、と思いながら読んだ。

 

2004年の芥川賞受賞作品。金原ひとみの「蛇にピアス」とのダブル受賞で、かなりの話題になった。当時、わざわざ買って読みたいというほどの気分にならなかったが、ブックオフの105円コーナーで見つけたので、ようやく読むに至りました。


「牛を屠る」 佐川光晴

2011年11月18日 | さ行の作家

「牛を屠る」 佐川光晴著 解放出版  

 

 著者はこれまでに5回芥川賞候補となった実力派の純文学作家。作家になる前、十年半に渡って場で働いていた経験を綴ったノンフィクション。ノンフィクションといっても、小説的で読みやすい。(という言葉は、著者本人がこだわりを持って使っている)

 

 北大の法学部を卒業し、出版社に就職するも、社長とケンカして一年で失職。職安に通っているうちに希望職種を思いつきで「場」を変えたら、たまたま、自宅から通勤圏に場があった。それまで、近くにそういう施設があることを知りもしなかったそうだ。何か確固たる思想信条や、腹を括るような決意があったわけではなく、なんとなく流れで場に職を得る。

 

 突然、現業の職場に大卒の若造がやってきたことで起こるたハレーションや、どこの会社にも必ずいる仕事もできないのに意地悪なオヤジ、それでもマジメに仕事をしていれば、公正に評価してくれる人もあり―といった人間模様はある意味、普遍的。マジメで誠実な佐川青年に「昭和」の匂いを感じつつ、好意的な気持ちで読んだ。

 

 でも、なんといっても惹き付けられるのはのシーンだ。どんなふうに、豚や牛に刃物を入れ、皮をはぎ、解体していくのか。体力だけでなく、技術と熟練が問われる職人の世界でありながら、血・生命への畏怖と恐怖と切り離してみることも難しい。情緒的に書かれていたら滅入ってしまったかもしれないが、当事者でいながら、どこか、客観的というか、上から俯瞰しているような冷静さに救われる。

 

 キレイにスライスされ、白いトレーに美しく並べられ、パックされた肉を見慣れていると、ついつい忘れてしまいがちだが、改めて、私たちは「生命をいただいている」のだ。そして、そこに至るまでには、畜産やをはじめとする多くの人の手がかかっていることを考えさせられた。私が子どもの頃に比べると、日本の食環境は格段と豊かになり、でも、その豊かさに感謝するというよりも、当たり前のように思ってしまっているのは、私たちのテーブルに届くまでのプロセスを意識することがないからかもしれない。

 

 ところで、「とさつ」を変換しても「」という漢字は出てこなかった。改めて、「そうか、(世の中的には)使ってはいけない言葉なのか」と気付かされた。私が子どもの頃は使っはいけない言葉には分類されていなかったと思うけど…。 どちらがいいのかは正直わからない。

 

 


「ナツコ 沖縄密貿易の女王」 奥野修司

2011年11月16日 | あ行の作家

「ナツコ 沖縄密貿易の女王」 奥野修司著 文春文庫

 

 久々に脳天にガツンと来る一冊。日本で生まれ育ったのに、ほんの1世代前の日本の歴史を私は何も知らないのだなということを思い知らされた。

 

 フリージャーナリストである著者が、石垣島の路地裏の居酒屋にフラリと入った時にオジィやオバァが、いかにも懐かしげに「ナツコ」とい名前を口にするのを耳にした。「ナツコ」とはいったい何者なのか…。文書資料はほとんど残っていない。ただ、ひたすら、ナツコの知り合いを人づてに訪ね歩き、ナツコという人物に迫ったルポルタージュ。

 

 ナツコが密貿易商として一世を風靡したのは1946-51年。沖縄が「ケーキ時代」と呼ばれた頃だ。「ケーキ」は、実は「景気」のこと。私が沖縄に関して知っているのは、太平洋戦争末期に戦場となりたくさんの方が亡くなったこと。1972年に変換されるまで米軍の統治下に置かれていたということぐらい。その延長線上で、終戦後の沖縄は、本土以上に辛く、苦しく、貧しい時間を過ごしたのではないか―と、「死の街」のようにひと気もなく、活気もなかったのではないか―と勝手に思い描いていました。

 

 もちろん、焦土となり、多くの死者を出し、本当に辛い思いをした方もたくさんいたはずですが、ナツコをはじめとするこのルポに登場する人々は、生命力とエネルギーに満ちあふれ、強く、逞しく、ガッポリ稼いでいる。いや、もしかしたら、全てを失ったからこそ、強く、逞しかったのかもしれない。戦争に負けても、着る物がなくても、ひもじくても、生き残った人間は生きて行かなければならない。米軍の物資を盗んでは、舟で香港や台湾に運んで売りさばく。香港・台湾では砂糖やペニシリンを仕入れて持ち帰り、沖縄で売りさばく。

 

 十分な装備のある舟を準備することなどできるはずもなく、気象や海の状態を見極めながらの密貿易。舟が沈むこともあれば、海水をかぶって仕入れた商品が売り物にならないこともある。もちろん、闇取引故に、相手に足元を見られて騙されることも珍しくない。そうした条件下で、並外れた度胸と、ピカイチの商売勘で密貿易の女王とのしあがったのがナツコ。その人生は、太く、短く、はかないが、清々しい。密貿易で警察に捕らえられても「沖縄には何もない。でも、生きていくためには、食べるものも、着る物も必要だよ。だから、貿易で手に入れることの何が悪い?」と、少しも悪びれることのないナツコの強さが印象的だった。

 

 私は、たった1世代前の日本のことをほとんど知らない。そして、その1世代前の人々は高齢期を迎えている。戦争や、敗戦直後のことを実体験として知っている人たちにもっと色々なことを聞いて、書き残しておかなければいけないのではないだろうか。公文書に残っていることだけが歴史ではない、教科書に書いてあることが歴史ではないということを実感する一冊だった。


「舟を編む」 三浦しをん

2011年11月04日 | ま行の作家

 

「舟を編む」 三浦しをん著 光文社 

 

 私の中では、三浦しをん作品は、「dark side Shion 」「light side Shion」に大きく分類できる。「舟を編む」はlight sideの傑作と言っても過言ではない。これまで小説の舞台としては誰も注目しなかった地味な世界に光りを当て、面白・楽しく・暖かな視線で魅力を最大限に引き出している感じ。私に文楽にハマるきっかけを与えてくれた「仏果を得ず」と同系統の作品です。

 

舞台は老舗出版社の辞書編集部。それにしても、地味だ!地味すぎる。

 

私も含めて、読者の99.9%は辞書編集の仕事に携わる知人・友人がいないであろうが、主人公の馬締(マジメ)クンが登場したとたん「ああ、確かにこういう人って辞書編集部にいそうだよな」と思ってしまう。ボサボサの髪、言語に対する感性は人一倍なのに、他人とのコミュニケーション能力は極端に低い。馬締クンのみならず、辞書編集に携わる人たちは、どこか浮き世離れしている。

 

しかし、辞書編集にかける彼らの熱い思いは、スピードは決して速くはないけれど、ジワジワと周囲の人を動かしていく。

 

それにしても、こんなに気が遠くのなるほど時間がかかり、膨大で、大変な作業なのかと、「辞書編集」という仕事を垣間見ることができるだけでも十分収穫ありの「お仕事小説」です。もちろん、三浦しをんらしく、クスッと笑わせる場面あり、不器用な恋愛あり、味のある脇役多数出演で、エンタメ性も十分。恐らくは、三浦しをんの言葉へのこだわりゆえに実現した作品だと思います。

 

さて、辞書編集の話なのに、なぜ、タイトルが「舟を編む」なのか? その意味はストーリーの中で触れられているのですが、ジワッと心に沁みます。

 

「涅槃の雪」「舟を編む」 2冊続けて光文社は大当たり。いいぞ~!

 


「涅槃の雪」 西條奈加

2011年11月03日 | さ行の作家

「涅槃の雪」 西條奈加著 光文社 

 

日経水曜夕刊での高評価がとてもとても気になって購入→結果、大当たり!

 

表紙には力強く咲く赤い椿。本の帯にあるキャッチコピーは赤い文字で「負けるな。生きろ。咲き誇れ。」―でも、結末に到達した時に頭に浮かんだのは、ひっそりと、静かに咲くナズナの花。華やかさとはほど遠く、一見、頼りなげ。でも、雨風にさらされ、踏みつけられても、枯れることはなく花をつける雑草のようなしなやかさと、逞しさを持った登場人物たちが愛おしく思えてくるような物語だった。

 

歴史通なら「今さら…」と思うような舞台設定。悪名高き天保の改革を推し進めた水野忠邦に、庶民の側に立って改革に疑問を呈し続けた北町奉行遠山金四郎ら、有名どころが脇を固め、主役は金さんの配下にいる町役人の門佑。幕府内の改革派と慎重派との対立、苛烈な改革によって疲弊する江戸の町と庶民の生活を門佑の視線を借りて描き出している。そして終盤にはマジメで不器用な門佑の、あまりに一途でプラトニックな恋にクロースアップ。

 

 私の勝手な想像ですが、編集者はこの物語を「庶民の物語」として読んだのだろうと思います。帯には冒頭で紹介したキャッチコピーに加え「お上の苛烈な締め付けに立ち向かう気骨ある与力(=門佑)の姿を通じて、市井の人々の意地と気概をいきいきと描き上げた傑作」とある。もちろん、その部分も物語の魅力の1つ。門佑の思い人であるお卯乃や、芝居小屋の人々の雑草のような強さには素直に共感できる。

 

 でも、私には、市井の人々の意地と気概はむしろサイドストーリーで、お上の側の物語こそが作者の書きたかったことなのではないか―という気がしました(勝手な想像ですが)。

 

 時代も違う、統治システムも違う江戸と現代とを一括りにして語ることができないのは百も承知(しかも江戸時代は身分制度のもと、士分の放漫を庶民におしつけたことが問題)ではありますが…それでも、「改革」を進めることのなんと難しいことよ! 

 

為政者の側に、遠山金四郎のような庶民に心寄せる人物がいれば、庶民にとっては救いであり、人気が出るのは当然。逆に、憎まれ役の改革者の立場は辛い。痛みのある改革は誰からも歓迎されることはないが、しかし、改革は、痛みがあるからこそ進めなければならない。本気でマクロの改革を推し進めるためには、ミクロを無視する勇気と強さと、そして、自らも率先して痛みを分かつ覚悟がなければならない。

 

 門佑が、自ら仕える遠山金四郎の「人たらし」ぶりにどっぷりとハマりながらも、改革派の鳥居耀蔵の理論に心動かされ、鳥居に少しずつ共感を覚えるようになっていく過程が面白い。門佑と卯乃との恋の行方よりも、門佑が為政者とはとどうあるべきかという自らへの問にいかなる答えを出そうとするか―というところこそ、このストーリーのクライマックスだと思う(あくまでも、私的には)。

 

 歴史オンチの私は、実在した鳥居耀蔵の歴史的評価は全く知りませんが…少なくとも、この小説の中では、上司(水野忠邦)を見切ることも含めて、ロジカルで腹の据わった魅力的な人物として描かれていた。

 

 それにしても、オヤジが集まれば派閥が形成され、功名心や嫉妬が政治を動かす原動力になるということは、今も、昔も変わらない。政治家に必要な資質とは何か、改革を完遂できる政治家とはどんな人物なのか― 時代小説でありながら、今の世にも通じる問いかけが聞こえてくる。