おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「武士の家計簿」 磯田道史

2010年10月28日 | あ行の作家

「武士の家計簿」 磯田道史著 新潮新書 2010/10/28読了

 私にとっての読書は、束の間の非日常体験であり、現実逃避。というわけで、ノンフィクションはほとんど読みません。でも、この本は、友人が「途中でやめられないぐらい面白い!」と絶賛していたのが妙に気になって購入。そして、大当たりでした!2003年発刊で、既に42刷。新書としては異例の大ヒットであることも「なるほど」と納得の面白さでした。

 著者の磯田先生は茨城大学の准教授で、歴史学者であるのですが…元をたどれば、純粋な歴史オタクであるのは間違いないでしょう。神田の古本屋で段ボール一杯の加賀藩・猪山家文書を手に入れるところから先生は超ハイテンションなのです。

 文書の中身は、江戸末期から明治期にかけての猪山家のカネの出入りの記録や、家族の間でやり取りされていた手紙、日記の類。江戸時代の武士家庭の具体的なカネの出入りの記録は、これまでほとんど発見されておらず、レアな史料だそうな。私文書には長期保存のインセンティブが働かないということもあるのでしょうが、それ以上に、キッチリと家計簿をつけるという習慣がなかったことも影響しているようです。

では、なぜ、猪山家が克明に家計簿を残していたのか? 下級武士であった猪山家は、「御算用者」としての技能・能力が認められ、加賀・前田家で重責を担うようになった家系。つまり、経理のプロフェッショナルであり、数字を記録してしまうのは習い性だったということなのでしょう。

何を買った。借金返済のために何を売り払った-ありとあらゆることが、事細かに記録されている。それを丁寧に読み解くことで、単なるカネの出入りだけではなく、幕末の武士の家族の暮らしぶりを活き活きとよみがえらせているのです。

 武士家庭、実は、相当、生活が苦しい。猪山家は前田家に取りたてられて石高が増えているのに、借金まみれ。その背景にあるのが「身分費用」であると著者は分析。武士という身分にある以上、避けて通ることができない膨大な冠婚葬祭費用や、目下の物への小遣い・下賜などで、武士の家庭が火の車であるのは珍しいことではなかったようです。

 猪山家は借金返済のために借金を重ねる悪循環から抜け出そうと、思いきった資産売却を乗り出す。売却リストを見ると、武家にとっては宝物のように大切な書画骨董から、算術の教科書・見台、妻が嫁いできた時の花嫁衣装、脇差-ともかく「売れるものはなんでも売る」という心意気がにじみでる。そこまで徹底してやった見返りとして、金利減免や新たな借り入れなどの恩恵を受け、窮地をしのぐことに成功する。債務整理の基本は、やっぱり、心意気と誠意-というのは、現代にも通じるものがあるように思います。

 書物も着物も脇差までも売ってしまった猪山家でも、子どもが生まれれば、やはり、「お祝い」は避けて通れない。娘が生れたお祝いの時には、「絵鯛」-なんと、絵に描いた鯛を各人の膳に載せて「お頭付きを食べた気分」を味わうという、涙ぐましい質素倹約ぶり。でも、武家の跡取りは大事なので、息子が生れると、小さいながらも鯛を買って、1人1人の膳に載せる。節約の日々でも、息子が文字や算術を勉強するための紙は定期的に購入するなど、お家存続のための支出は惜しまない。
 
 そして、明治維新を迎える。身分を失い没落する武士も数多いたが、幕末には赤貧生活を余儀なくされていた猪山家は、明治に入り、セレブの仲間入り。「算用者」としての技術・能力を活かして、海軍省に職を得たことが「勝ち組」となる近道だったのだ。武家にとって、官の役職を得れるか否かが、その後の命運を分けたという…。なるほど、日本の官僚機構が「パブリック・サーバント」としての意識が薄く、逆に「天下国家をけん引するのは我らなり」という気概を持っているのは-恐らく、官僚機構ができた当初、それを担っていたのが、お武家さま方だったこととは無関係ではないのかもしれないなぁ…などと思いました。

 いやぁ、実にすばらしい! カネの出入りの記録から、ここまで、ある一家の暮らしぶりを再現させた磯田道史先生に大拍手!!!

 そして、最後に「あとがき」を読んで、何もかもが腑に落ちた気持ちになりました。「歴史は過去とのキャッチボール」という言葉が、磯田先生が歴史研究者の道を歩むきっかけであり、神田の古書店で手に入れた猪山家文書から「武士の家計簿」という著作にいたるにも歴史とのキャッチボールがあったという。だからこそ、筆者は武家のカネの出入りの記録を「極めて珍しい史料の発見」で終わらせず、そこから、小説よりも面白く、微笑ましい家族の物語を紡ぎだせたのだと思う。

 私は小学校6年生の時の担任の先生が言っていた「過去の過ちを繰り返さないために歴史を学ぶんだよ」という言葉を忘れることができず、大学で歴史学を専攻しました。その小学校の先生の言葉も、「過去とのキャッチボール」と同じことを言っているのだと思います。だからこそ、余計に、この「武士の家計簿」という著書の重みと、筆者の興奮とが伝わってくるような気がするのです。


「日本国債」上・下 幸田真音

2010年10月28日 | か行の作家
「日本国債」上・下 幸田真音 講談社文庫 2010/10/19読了 

 実はこの小説を読むのは、もう5回目か6回目ぐらい。作品にそれほど惚れこんでいるわけではないのですが…その時々に、仕事がらみで再読せざるを得ない事情が生じ、そのたびに、ブックオフで必死になって探すことの繰り返し。

 ブログを通じて知り合った憂国の債券トレーダーたちが、財政再建に本気で取り組もうとしない借金まみれの日本という国家に警鐘をならすために、国債入札で札割れ(応札額が募集額に達しない状態)を起こすことを軸とした、ミステリー仕立ての経済小説。

 世間では諸悪の根源のように言われている財務官僚や、カネの亡者の烙印を押された証券マン-というのは、実は、マスコミが生み出した虚像。与えられた職務の中で、今よりもいい日本を次世代に残すために何ができるかを真剣に考え、思い悩む彼らの姿を描き出したことには素直に好感が持てるし、肩入れしたくなってしまう。

 でも、作品として洗練されているか-というと、それほどでもないなぁ。飛びぬけて文章が上手いわけでもないし、ミステリーとして深みがあるわけでもなし。ただ、金融機関の勤務経験があるだけに、「国債入札」という、普通の人が扱えないフィールドで勝負できることが、この作者の強みなのだと思う。

 ちなみに、作品の設定は2003年。その時点でも、日本はとんでもない借金大国だったからこそ、この作品が描かれたのですが… 残念ながら2010年の日本は2003年よりも新規国債発行額(新たな借金)も、国債発行残高(これまでの累積債務)も格段と増えております。

 さすがに、小説の中のように、トレーダーたちが意図的に国債入札でサボタージュを敢行することはないとは思いますが…でも、何かのきっかけで、国債価格が急落して、日本発の金融混乱が起こってもおかしくない状況にはあると思います。設定は過去ですが、なきにしもあらずの近未来小説として、一読の価値はあるかもしれません。でも、仕事がらみでなければ、再読する価値は見出せません-というレベルではあります。


「モノレールねこ」 加納朋子

2010年10月22日 | か行の作家
「モノレールねこ」 加納朋子 文春文庫 2010/10/21読了 
 
 イメージとしては…グリーン車や飛行機の機内誌、又は、異常に混んでいる病院の待合室に常設してある医療関係の機関誌。1時間とか2時間ぐらいで読み終えることができて、しかも、ちょっとホッとするようなストーリー。 ってあたりを狙っているのでしょうか?

 いやぁ、こんなヌルい文章で生計立てて行かれるとしたら、羨ましい…。

いえいえ、別に、ケンカ売っているわけじゃあ、ありません。単に、私のシュミじゃなかっただけです。 「心かホッと温かくなる」「疲れた気分を癒してくれる」という路線なんだろと思いますが、安直で安っぽく感じてしまうのは、私がへそ曲がりだからでしょう。きっと。

直前に読んだ「ふがいない僕は空を見た」には、書き手が身を削って書いている迫力がありました。もちろん、いつも迫力ある文章が読みたいわけではなくて、時にはポケッ~と穏やかな気持ちで読むのもいいものですが、でも、それにしても、ヌルすぎるなぁという印象でした。

ラスボスって…

2010年10月21日 | Weblog
ラスボスって…    2010/10/21記

 「ふがいない僕は空を見た」のところで書こうと思ってうっかり忘れていたことを…。

 「スリーピング・ブッダ」「ふがいない僕は空をみた」という何の脈絡も共通点も無い2作品に共通して「ラスボス」というワードが登場していた。文脈からして、それが「難敵」であることは読みとれたし、なんとなく、誰もが知っている有名なゲームに登場する有名なキャラなんだろうな…と勝手に想像していた。

 ところが「ラスボス」ってキャラの名前ではない…というか、固有名詞じゃないんですね。ラストポス-一番最後に登場する強敵。へぇ~。ゲームをしない私にとっては、全くの「初出単語」でしたが、今や、注意書きを付けなくても使えるぐらいの常識なんですね。いやぁ、大変、勉強になりました。
 


「ふがいない僕は空を見た」 窪美澄

2010年10月21日 | か行の作家
「ふがいない僕は空を見た」  窪美澄著 新潮社 2010/10/20読了

 いつも参考にさせて頂いている読書ブログで高評価だったのと、タイトルが、ちょっとカッコイイなと思って楽天ブックスで注文。オムニバス形式の小品集。
  
 最初に収録されている「ミクマリ」は新潮社の「女による女のためのR-18文学賞」受賞作。という文学賞があること自体、今まで知りませんでしたが、既に10回を数えるそれなりに定着しつつあるものらしい。趣旨としては、「エロ小説といえば、おっさんによるおっさんのためのものが9割以上。女が書く、女のための、感じる小説を選ぼう」ということなんだそうです。

 ただ、私的には、そのR-18文学賞受賞作である単品としての「ミクマリ」は、かなりイマイチでした。

高校生の斉藤くんが、アニメおたくの主婦にナンパされて、毎日のように学校帰りに主婦の書いた台本に沿ってコスプレして、セリフをいいながらセックスをする。主婦のおっぱいは垂れていて、足は丸太のように太いから、ずっと目を閉じて、別のことを想像する。終わったあとに折り畳んだ1万円札をもらう。一度は、関係を終わらせるものの、ある時、彼女が郊外のショッピングセンターで赤ちゃん用の靴下を手にとって見ている場面に遭遇して、彼女への純粋な思いが心の底から噴き出してくる。そして、もう一度、彼女のマンションを訪ねて、初めて、コスプレなし、台本なしで、欲望のままのセックスをするという話。

文体は極めて淡々としていて、冷静に観察して書いているような描写。女による女のためのエロ小説-というほどのエロでもないし。感じないし。というか、エロよりも、おタクな印象が強くて、「私のシュミには合わないなぁ」という冷めた気持ちで読んでいました。

しかし、これに続く「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」→斉藤くんをナンパした主婦の目線で同じ時期の出来事を書いた作品、「2035年のオーガズム」→斉藤くんに片思いして、斉藤くんとセックスすることをひたすらに夢見る同級生女子の物語 「セイタカアワダチソウの空」→斉藤くんの同級生の良太とアブノーマルな性志向を持つバイト先の先輩の物語 「花粉・受粉」→助産師である斉藤くんのお母さんと、若い助産師みっちゃんの物語 と、展開していくにつれて、その総体としての「ふがいない僕は空を見た」という作品の力強さに圧倒され、物語の世界に引きずり込まれていってしまいました。

特に、最後の斉藤くんのお母さんの物語がステキ。不倫がバレて不倫相手の妻から受けた仕打ちのシーン、その後、斉藤くんの父親(つまり、元夫)に巡り合い、恋をして、結婚したとたんに失望する場面は、あっけらかんとしていて、女だから書ける女のしぶとさ、たくましさがにじみ出ていました。そして、そんなに失望している働かない元夫にカネを無心され、息子に隠れてこっそりと小遣いを与え続けるのも、また、切ないほどにリアルでした。
 
彼女は息子=斉藤くんと生きていくために開業した助産院で、いつも、新しい「生」に向き合う。助産院から響きわたる、妊婦さんの喘ぎ声は「産む苦しみ」を現わす音であると同時に、新しい生命がこれから向き合わなければならない「生きる苦しみ」でもあり、そして、命を生み出すために繰り返される愚かだけれども愛おしい性を象徴する音でもあって、文字を追っているだけで、心が充電されるようです。

斉藤くんは主婦とコスプレセックスの写真や動画をあちこちでばら撒かれて傷つき、自暴自棄になる。もちろん、斉藤くんのお母さんにとっても、息子のそんな写真を目にするのは辛いことだけれども、でも、産む苦しみも、生きる苦しみも、それを乗り越えて生きることの意味も知っている母は、あくまでも、強くたくましいのです。

単品「ミクマリ」はともかくとして、小品集である「ふがいない僕は空を見た」は秀逸!恋愛とは愚かでもとてつもなく楽しく、生きることは苦しくても快感-というメッセージがじわりと伝わってきます。  

「スリーピング・ブッダ」 早見和真

2010年10月20日 | は行の作家
「スリーピング・ブッダ」 早見和真著 角川書店 2010/10/19読了 

 毎週水曜日のお楽しみ、日経夕刊(10月13日付)の本のコーナーで紹介されていました。ファンキーなタイトルと表紙に心奪われ、即、楽天ブックスで注文。

 正直なところ、色々な要素を盛り込み過ぎて、後半は、若干、ストーリーが破たんしているのではないか-と思わないでもありませんでした。小説としての完成度は、まだまだ高める余地が残っています。しかし、それでもなお、人を引き寄せる吸引力のあるストーリーでした。

 なにしろ、仏教という特殊な世界を舞台にしているものの、突き詰めていえば、青春小説なのです。「生きる」とはどういうことなのか。「死」と向き合うとはどういうことなのか。嫉妬や名誉欲に打ち克つことはできるのか-どんな時代も若者は悩み続けるのです。そして、この物語の中では、本来、救済者であるはずの僧侶に俗世の若者たちと同じように悩み、もだえ苦しみ、無様な姿をさらさせているのが、斬新であり、リアル。

 まだ、私が子どもだったころ、実家では、家族の命日やお盆にお坊さんに来て頂き、お経をあげてもらっていました。子どもにとって法事などというもものは、退屈極まりないはずなのですが、毎年、来て下さるお坊さんは立ち居振る舞いの全てが優雅で美しく、仏さまがそのままこの世に現れたのではないか-と思うほどでした。私は、密かに「菊童子さま」とあだ名を付けて、その姿を見るのを楽しみにしていました。

 寺の跡取り息子であり、やがては住職になるはずだった菊童子さまが自殺したのを知ったのは、新聞の地方版でした。1年にほんの1度か2度姿を見るだけの菊童子さまの心の内側にどんな懊悩があったのか知る由もありませんが、子どもながらに「人を救わなければならない人が自ら生命を絶ってどうする?」と割り切れぬ思いがずっと残っていました。

 「スリーピング・ブッダ」は、寺の次男として生まれた広也と、バンド活動に明け暮れながらもメジャーデビューの夢がかなわなかった隆春の2人が、大学の教室で出会い、共に仏門に入り、辛い修行の日々を送る-というのが前半戦のメーンストーリー。広也は兄が事故死したことで繰り上がりの跡取りになることに。仏門に入ることは子どもの頃からの憧れであったが、住職である父親から期待されていないのではないか、認められていないのではないか-というコンプレックスを持ち続けていた。かたや、隆春は、バンド命でろくに就職活動もせず、あてにしていた父親の経営する町工場の経営も傾き、「ナンカ、安定してそう」という理由で仏教界に興味を持つ。

 つまり、修行僧も、つい昨日までは、普通に町中にいて、悩みを抱えたり、悩むことにすらマジメに向き合おうとしなかった若者であり、俗人の集団なのだ。もちろん、修行を積み、人を救いたいというピュアな思いを持った人もたくさんいるだろう。しかし、人が集まるところにはイジメがあり、権力闘争があり、嫉妬もうずまく。

その中で、どうやって、道を極めていくのか。理想と現実との狭間で揺れる2人。一時は、互いの友情すら信じられなくなってしまうが、共に修行する仲間の一人が自殺未遂事件を起こしたことをきっかけに、再び、求道者として相互の存在を認め合うようになるが…。
物語後半はかなりグダグタ系。先輩も交えて3人で寺の経営に乗り出すものの、それぞれの目指すものが微妙にズレてくる。ピュアであるが故に信徒の期待に必死に応えようとして気が付けばカルト教団の教祖のような存在に祭り上げられてしまった広也。「なんとなく」仏門に入ったものの、教えに目覚め、原理主義者のように教えに忠実であろうとする隆春は激しくぶつかり合うようになる。

もだえ苦しんだ隆春が、最後に行きついた安息の地は、学生時代に大好きだった美鈴先輩との貧しいけれど、幸せで甘い生活。そして、隆春にパワーを与えてくれるのは、一度は諦めた音楽の道。  

 私は、この結末が嫌いじゃない。結局、人間を救うのはそういうものなのだ-と思う。というか、救われるか・救われないか-は最終的には気の持ちようなんじゃないかと思う。

 しかし、この小説、ここまで仏教について、修行生活について熱く語っておきながら、最後の最後に「美鈴先輩、超・愛してる!」で終わっちゃっていいの-??? という余計なお節介的な疑問が湧いてきてまうなぁ。 私自身は、特定の宗教を信じているわけではないけれど、宗教が果たす役割を否定するつもりは全くないし、クリスチャンや仏教徒でなくとも教会やお寺の敷地に足を踏み入れれば厳粛な気持ちになるのは、私だけではないだろう。せっかく、宗教というやっかいなテーマに手をつけちゃったのであれば、「自分が救われる」ための答えだけではなく、「人を救うとはいかなることなのか」というところを、もうちょっと掘り下げてほしかったです。しかも、後半、かなりたくさんの要素を詰め込んだわりには、慌てて終わらせようとしているような印象でした。

 でも、荒削りながら、読み手を引き付けるパワーは感じました。特に、前半は文楽の世界に飛び込んだ若者の奮闘を描いた三浦しをん「仏果を得ず」の仏教版のような印象で、異色青春小説として楽しめました。

「無痛」 久坂部羊

2010年10月14日 | か行の作家
「無痛」 久坂部羊著  幻冬舎文庫 2010/10/13読了  

 「廃用身」「破裂」とデビュー2作は超高齢化社会における医療保険制度の限界について取り組んだ問題作。「医者と作家の二足のわらじを履いて活躍している」という点では、チーム・バチスタシリーズの海堂尊と共通プロフィール。海堂作品は、最初からフジテレビでのドラマ化を意識していたんじゃないか-と思うほどに劇画チックで、ある意味、純粋にフィクションであることを楽しめる作品。これに対して、久坂部作品は、若干、華やかに欠けるものの、妙なリアリティがあって、「もしかして、近未来にこういうことが起こってしまうんじゃないか」という薄ら寒さを感じる。私的には圧倒的に「海堂<久坂部」と思っていたのですが… 先行2作品に比べると「無痛」はイマイチでした。

 取り上げているテーマは、極めて現代的で、重たい。
「刑法第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為はその刑を軽減する」。
テレビのニュースや新聞でも「なお、容疑者には精神病院への通院歴があります」という表現をしばしば見かける。この場合、容疑者が起訴されたとしても、裁判過程で精神鑑定が行われ「責任能力がなかった」ために無罪になることが想定されるため、容疑者の名前はニュースに出ない。

 捜査をする警察官にとってはこの39条が大きな壁になる。被害者やその家族にとっては39条が存在するがために、犯罪によってどんなに傷つき、苦しんでも、誰も罰せられないという不条理に向き合わなければならない。39条などなくすべきだ-という思いに駆られるのもやむをえない。

しかし、もしも、自分の家族が鬱病や統合失調症になってしまったら-犯罪を犯す可能性を減らすために一生、閉鎖病棟に閉じ込めておくという選択ができるだろうか。回復の可能性を信じて、治療をしながら、普通の生活への復帰を目指そうとするはずで、そうした家族にとっては39条は最後の最後のセーフティネットなのだろうと思う。

一昔前に比べると、メンタルヘルスに問題を抱えている人は急激に増えている。今後、ますます、39条が適用される誰も罰せられない重大犯罪が多くなるのは確実。その一方で、39条を悪用して心神喪失・心神耗弱を装って罪を逃れようとする人間が少なからず出てくることだろう。
 
 ある意味、超難問に取り組んだ意欲作であることは、先行2冊と変わらないのだけれども… 舞台設定があまりにもおどろおどろしく、しかも、若干、変態チックなところもあり、どこか、「久坂部羊が海堂尊化」したような印象を受けてしまいました。しかも、ヒロインの女性が「もしかして、これって著者の理想の女性像?」と思わせるような書きぶりなのも、ちょっと陳腐な感じでした。

 十分に面白いと言えば面白いけれど、でも、先行二冊に比べると、やっぱり、パワーダウンだなぁ…。

「アナザー修学旅行」 有沢佳映

2010年10月08日 | あ行の作家
「アナザー修学旅行」 有沢佳映著 講談社 2010/10/07読了

 タイトル通り、本当の修学旅行ではない、別の修学旅行(?)の物語。
 骨折したり、保健室登校だったり、経済的事情-などで修学旅行に行けずに「お留守番組」となってしまった中学生7人の、わずか2泊3日間の友情と成長。「旅行には行けなかったけれど、私たちにとって思い出深い3日間だったよね」-っていう、チープなほどに無難な結末でした。

 講談社の第50回児童文学新人賞受賞作だそうな。確かに、中学生にとって、「修学旅行に行けない」という事態は、一生悔いが残るようなショッキングな出来事であり、十分にドラマチックなのだと思う。 しかし、物語の中で展開されているのは、「7人だけが置いてけぼりを食らった」という事実を除けば超超日常なのです。先生の目を盗んで教室を抜け出してアイスを買いに行ったり、自習時間は思いっきりやる気なくダラタラと過ごしたり、女子の関心事と言えば「誰と誰が両想い」だとか…。

 いくら児童文学とは言え、読者である小学高学年や中学生は、こんな超日常が綴られたストーリーのトキメいたり、心躍らせたりできるでしょうか。または、何かを学んだり、考えたりするのでしょうか。しかも、言葉遣いが美しくない…というか、中学生のしゃべり言葉そのまんまの文体で書かれていて、私は、ちょっとイラッとしました。もちろん、過去にも口語体で書かれた小説はたくさんありますが、ここまで稚拙な言葉遣いを活字で読むのは、あまり楽しいものではありません。これ自体は、ケータイ小説ではないのですが、いかにも、ケータイ小説時代の作品だなぁと思います。

 友人が貸してくれた本なので、一応、冷静に論評してみました。でも、自分で1300円払っていたら、もうちょっと口汚く罵り、「お金返して!」と言っちゃいそうな勢いです。
それにしても、こんなんが児童文学新人賞受賞作って… まあ、活字離れもやむをえないか。