おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「磯崎新の『都庁』」 平松剛

2008年08月28日 | は行の作家
「磯崎新の『都庁』-戦後日本最大のコンペ」 平松剛著 文芸春秋社 (08/08/27読了)

 はるか昔、某私立大学に入学した私は、楽勝・一般教養の筆頭格として名高い「末吉の美学・美術史」を履修登録しました。美学に興味があったわけではなく、単に、単位稼ぎのために。しかし、その授業で、初めて、「絵画とは思想である」「絵とは読むものである」ということを教えられ、もの凄い衝撃を受けてしまったのです。何しろ、それまでは、絵なんて「上手いか、下手か」「好きか、嫌いか」「美しいか、美しくないか」でしかないと思っていたのですから。乏しい知的好奇心を刺激され、「ああ、私、大学生になったんだなぁ」としみじみ感慨に耽ったのでした。

「磯崎新の『都庁』」で、久々に、あの頃感じたのと同じような衝撃と感激を味わいました。そうなんです、私、この本を読むまで、「建築とは建物を建てることである」としか思っていませんでした。でも、実は、「建築とは思想」であり、「建築とは芸術」であり、「建築とは時代の象徴」なのだということを初めて知ったのです。それは、新鮮な驚きであり、今まで、容れ物にしか見えていなかった建物が、生き生きと、力強く見えてきました。ズブの素人に向けて、建築学への扉を大きく開いてくれる、最良の入門書です。でも、小難しい学術書ではありません。ドラマよりドラマッチクなノンフィクション・ストーリーを通じて、私は、知らず知らずに、門の中に足を踏み入れていたのでした。

タイトルである「磯崎新の『都庁』」には二重の意味があります。一義的には、磯崎新の実現はしなかったカギカッコ付きの「都庁」という意味。「磯崎新アトリエ」は1985年、都庁舎を有楽町(現在は国際フォーラム)から新宿に移転する際のデザインコンペに参加し、落選したのです。この本では、師・丹下健三(コンペ勝者)と弟子・磯崎新対比させる形で、磯崎新がいかにコンペで戦ったを振り返りつつ、「建築とは思想である」ということを示しています。都が、暗に、高層庁舎案を提出するように求めているのに、コンペ参加会社の中で、唯一、高層案を出さなかったのが「磯崎新アトリエ」だったのです。しかし、磯崎新は、あえて、負け戦をしたわけではなく、突き詰めたすえにたどりついた答えが非・高層案だった。それは、潔い戦いぶりのようであり、でも、その一方で、超えなければならない師の存在を意識した弟子の懊悩もあり、本当に、小説以上にドラマチックです。
そして、磯崎新の「都庁」のもう一つの意味は、負けて消滅したハズの磯崎案が、思わぬ形で復活、都内某所に出現したことを指し示しています。それが、師・丹下健三の限界なのか、それとも、師・丹下健三こそが磯崎新の最大の理解者であることを意味するのか-明確な答えは出ていませんが、愛憎半ばする師弟間の葛藤が生き生きと、かつ、グロテスクに描かれていました。磯崎、丹下の他にも、魅力的な職人や弟子が多数登場。バブルで方向感を失ってしまった鈴木都政のお粗末ぶりも振り返れ、いろいろ、盛りだくさん。ノンフィクションとは思えない、巧みな場面展開で、エンターテインメントとして、十分に楽しめます。私的には、相当の、大当たり作品。

でも、あえて、不平不満を。タイムワープがあまりにも多すぎるということには百歩譲って妥協します。しかし、取材を元に構成したと思われる「」内のセリフ部分の記述で、あまりにも「(笑)」が多すぎるのには、かなり、イラつきました。たとえば、「相手はプロですからね。まぁ、見透かされているわけです(笑)」-というような使い方。数えてないですが、少なくとも、100回はあったと思います。人間の感情表現は(笑)以外にも、色々あるはずなのに…なぜか(笑)ばかりが頻出。(怒)という記述は1回登場しましたが…。それに、(笑)にしても、「苦笑い」「照れ隠し」「同意の気持ち」「心の底から大笑い」など様々なバリエーションがあるでしょうに…十把ひとからげで(笑)にしてしまうのは乱暴すぎませんか?そもそも、これだけの、表現力のある人が、なぜ、(笑)という薄っぺらな表記に頼ろうとしたのか意味不明。(笑)がなくても、十分に、ニュアンスは伝わったと思うのに…残念です。

「いっちばん」 畠中恵

2008年08月23日 | は行の作家
「いっちばん」 畠中恵著 新潮者 (08/08/23読了)

 ヒット作シリーズ化の罠にはまったか…。

 ご存知「しゃぱけ」シリーズの最新作。妖(あやかし)の祖母を持ち、常人は目にすることができない妖怪たちを友とする大店の若旦那・一太郎のゆる~い日常。とびきり身体が弱く、ほとんど外出はできない身だけれども、布団の中で推理をめぐらし、難事件を解決に導いたり、持ち込まれた相談事に名解答を示すお江戸ファンタジックライトミステリーってな感じでしょうか。第一作の「しゃばけ」を読んだ時には、なんと、斬新でオリジナリティがあるのだろう-と心打たれました。そして、のほほんとした、ゆるキャラ一太郎に心癒されたのでした。

 「いっちばん」もシリーズの基本路線を踏襲。相変わらず、身体が弱くて寝込んでばかりの一太郎の知恵と推理で難問を解決していきます。相変わらずのほんわかムードで、癒し系のストーリー。でも、正直言って、「ちょっと飽きちゃったな」という印象。場面設定は、もちろん、毎回、違うのですが、ストーリー展開のパターンはだいたい決まっていて、結末もなんとなく推理できてしまう。第一作を読んだ時のような、新鮮味は、当然のことながら無いわけです。ヒット作はついついシリーズ化したくなり、二作目もそこそこヒットすると、では三作目-となっていくのでしょうが、退け時は難しいもの。意外と「ああ、早く、次が読みた~い」というあたりでスパッと止めてしまうのが、読者の中で超・好印象だったりするのかも。(思えば、有川浩の「図書館戦争」シリーズも、私の中では3冊目が終わった時点が最高潮でした…)

 もしかして、この、倦怠感を超えたところに、サザエさんや水戸黄門のような「大いなるマンネリこそが最大の魅力である」という境地が待ち構えているのかもしれませんが…。個人的には、もう、おなかいっぱい。次は、全く別の、新しい、畠中ワールドを期待したいと思います。

「烏金」 西條奈加

2008年08月20日 | さ行の作家
「烏金」 西條奈加著 光文社 (08/08/19読了)

 意欲作だし、オリジナリティあり。でも、もの凄く好きか-と言うと、ちょっと微妙な感じでした。前半、中盤は結構、楽しめたのですが、結末がイマイチかなぁ…。帯に、書店員さんの言葉として「最近、お客さまにオススメして、『烏金』ほど喜ばれた作品はありません」と書いてあったので、期待が勝り過ぎていたのかもしれませんが…。

 田舎から出てきて、金貸しのお吟婆さんのところに居候を決め込む若者・浅吉が主人公。タイトルの「烏金」は、烏がカァと啼く朝方に貸して、烏がねぐらに帰る夕刻には利息を付けて返済する超短期・小額のローン。お吟は、わずかの元手から烏金を貸しをして、細々と暮らしを立てていた。それを浅吉はガラリと変えてしまうのです。今で言う、企業再生ファンド兼ベンチャー・インキュベーターのようなものでしょうか。貸した金を確実に返済させるために、債務整理をアドバイス。時には、起業を提案した上でカネを貸したりもする。なかなか、頭の良い青年ではあります。今の時代に生まれていたら、産業再生機構にスカウトされて箔をつけた上で、外資系の再生ファンドに移籍して億円プレーヤーの道が拓けそう。といっても、浅吉が提案する起業というのが、孝行娘の漬物屋や、お武家の嫁・姑が力を合わせた稲荷寿司作りなど、いかにも、お江戸情緒に溢れていて微笑ましいです。前半は面白い反面、ちょっと、暗~い気分になるのは、軽い気持ちで消費者金融でお金を借りた人が、どんどん多重債務に陥り、二進も三進も行かなくなっていく様子を見せ付けられるようなのです。それにしても、返すあてもないのに高利貸しから借金してしまう人は昔も今も変わらずにいるし、さらに、アコギな金貸しが、カモをドロ沼に陥れる手口というのも、また、時代を経ても変わらないものなのだなぁ-と妙に感心。

 後段に入って、浅吉がお吟のところに転がり込んだいきさつが少しずつ解き明かされていくのですが、これが、意外と単純というか…まぁ、よくありがちな展開なわけです。しかも、登場人物のバックグラウンドの描き方がイマイチあっさりしすぎているような気がしました。だから、なぜ、その人は、そんな行動をとったのか、そういう考え方をしたのか、ちょっとわかり辛いというか…やや、飛躍があるような印象でした。とはいえ、意欲作であることは間違いないし、総体としては面白かったです! この作者の代表作はファンタジーノベル大賞受賞の「金春屋ゴメス」だそうです。うううう、今の気分で言えば、新刊本で買おうというほどの意欲はないかなぁ。ブックオフか、文庫化待ちといったところですな。

「男子の本懐」 城山三郎

2008年08月18日 | さ行の作家
「男子の本懐」 城山三郎著 新潮文庫 (08/08/17読了)
 
 1979年(29年前。「一弦の琴」が直木賞を受賞したのと同じ年!)の春から秋にかけて週刊朝日に連載された小説。昭和初期に緊縮財政と行政改革、金解禁を断行した浜口雄幸首相と井上準之助蔵相の2人にスポットライトを当て、政治とは何か、人生とは何かを考えさせる作品です。タイトルの「男子の本懐」は、主義・主張を通した結果、反対勢力の銃弾に屈した浜口雄幸が瀕死の病床で呟く言葉です。

 大蔵官僚・浜口、日銀マン・井上として別々の人生を歩んでいた二人。ともに、筋を曲げない融通の利かない性格ゆえに順風満帆の出世街道を歩んだわけではなく、それぞれに左遷の苦渋を体験。井上はニューヨークに飛ばされ(今の時代なら、ニューヨーク派遣なんて、超エリートコースなのに、当時は島流し同然だっらしい)、寂しさのあまり、ほとんど心身症というような状態にまで陥ってしまう。しかし、苦しみながらも、真摯に職務に当たる二人には徐々に道が開け、そして、二人の人生の軌道が交差するようになります。首相になった浜口は、「金解禁の政策を実現するためには、井上しかいない」と、周囲の反対を押し切って井上を蔵相に指名。井上もそれに応えて、2人は死ぬ気で財政再建、金解禁に取り組もうとするのです。

 2人の決意は中途半端なものではありません。「無い袖は振れぬ」と、軍部が力を持つ時代にも関わらず、有無を言わせぬ予算削減を断行し、抜き打ち的に官僚の給与カットを打ち出すなど、今の政治家先生方にも見習っていただきたいもの。信じることを疑わない人の強さは、清清しいものがあります。信じることを疑わず、妥協することをしない二人は、結局は、反対派の銃弾に倒れてしまうのですが…途中で仕事投げ出して敵前逃亡しちゃったお坊ちゃま首相と比べたら、なんと、鮮やかな生き様でしょうか。

 さて、物語の本筋とは関係ないのですが…井上という人は日銀総裁、蔵相をそれぞれ2回ずつやっています。どうも、当時は、日銀総裁と蔵相のポストというのは、交換可能というか…「金融の専門家なのだから、蔵相には適任」みたいなノリだったらしい。翻って、今年、日銀の武藤副総裁が財務省出身者だからという理由で総裁就任の道を阻まれたのは、なんと、不条理なことか-。もちろん、単なる、財務官僚の天下りコースとして日銀総裁の椅子が用意されているのはおかしなことではありますが、しかるべき知識と見識を持った財政のプロが、単に、財務省出身だからという理由で道を閉ざされるのは、かえって、国益に反すること。民主党の皆さんも、ねじれを利用したゲームに興じていないで、政治家としての本懐を遂げて下さいまし。

「厭世フレーバー」 三羽省吾

2008年08月13日 | ま行の作家
「厭世フレーバー」 三羽省吾著 文春文庫 (08/08/13読了)

 巻末の解説(by角田光代氏)は超・絶賛モードでしたが、私は「なんとなくイマイチ~」という気分のまま読了してしまいました。

 一つ屋根の下に暮らす崩壊寸前の家族の物語。一家の大黒柱であるはずのお父さんは退職勧奨されて会社にいづらくなり、割り増し退職金をもらって行方不明。残されたのは不倫を経て妻の座に収まった母ちゃん、血のつながらない兄と妹・弟、ややボケぎみの爺ちゃん-の5人。崩壊寸前というよりも、事実上の破綻状態ですな。

 残された5人が順に(末っ子から始まり、最後は爺ちゃん)、自分について、家族について語っていく形でストーリーが展開。一見、バラバラのように見える家族なのに、それぞれが家族をさりげなく思いやり、身勝手なようでいて純粋で、投げやりなようでいて一生懸命で-だから、歯車がかみ合い始めると、急速に収れんし始める。気が付くと、主人なしでも、家族は再生へのも道を歩み始めているという感じなわけです。しかし、語り手が次々と変わることで読者の視点も変わり、それによって、欠けた部分が埋まり、読み終わると、物語が完成している-という手法って、まあ、ありがちのような。しかも、最初の二章、ケイ&カナのティーンズ姉弟の部分の、わざとらしい若者言葉が、読んでいて疲れてしまいました。さらに、語り手が変わるたびに「実は…」というちょっとした種明かしがあるのですが、それも、やや無理があるというか…出来すぎの印象を受けました。
 
 ただ、爺ちゃんの語りの中で「どいつもこいつも簡単に『殺したい』『死にたい』『逃げ出したい』などと口にするが、そんなのはワシに言わせれば厭世ごっこだ」という言葉は、ズシンと来ました。タイトルが「厭世フレーバー」であるということを考えあわせると、恐らくは、著者が一番、伝えたいことは、まさに、この爺ちゃんのセリフだったのではないでしょうか。とすれば、「複数の登場人物による語り分け」などという技巧に走らず、もっとストレートに、爺ちゃん中心の物語でもよかったのかなぁと。ま、「重いことを重いまま書く」か「重いことを軽いタッチで書くか」も、著者の選択であり、どちらが正しいということもないのでしょうが…私的には、本当に言いたいことを表明するまでの過程が、ちょっと回りくどすぎた感じがします。

「師匠!」 立川談四楼

2008年08月11日 | た行の作家
「師匠!」 立川談四楼著 ランダムハウス講談社文庫 (08/08/10読了)

 上手い!文句なしに上手いです。落語界に飛び込み、修行中の若いお弟子さんを主人公にした短編集。最初の3行を読んだだけで、決して、期待を裏切らない一冊であることはわかりましたが、読み終えてみて、改めて、上手い!

 著者は、立川談志一門の噺家さん。談春著の随筆集「赤めだか」を読んだ時にも「この人って、文筆家としても、超一流」と思いましたが、談四楼師匠もタダモノではありません。さすが、噺家さんだけあって、文章のリズムが心地よい。そして、ストーリーも手が込んでいるので。決して、クドくはない程度に。「すず女の涙」「講師混同」は、結末がぶっきら棒な印象(もしかして、私に落語の知識が無いからそう感じるのか???)がありましたが…後半の三作は、完璧です。過不足なく、キッチリとまとまった、小世界がそこにある-という感じでした。

 ところで、談四楼師匠って、「赤めだか」の中では、いつも酩酊した状態で登場して、その場をぶち壊していく困った人-って感じの描かれ方をしていた記憶があるのですが…。そんな、ほとんど依存症のような人が、こういう素晴らしい文章を書くんですね。立川一門恐るべし。

「まほろ駅前 多田便利軒」 三浦しをん

2008年08月09日 | ま行の作家
「まほろ駅前 多田便利軒」 三浦しをん著 文藝春秋者 (08/08/09読了)
 
「一弦の琴」が直木賞受賞作なら、「多田便利軒」も直木賞受賞作。意外と懐が深いなぁ…。

 まほろ駅前にある便利屋・多田クンの物語です。「まほろ駅」は架空の駅のようですが
、モデルとなっているのは町田と思われます。東京なのに神奈川県と勘違いされがちで、駅近くにハンズがあったり…。物語に登場する「ハコキュー(箱根急行電鉄)」≒「小田急」?「横中(横浜中央交通)」≒「神奈中(神奈川中央交通)」? -などと神奈川県民ならではの楽しみ方もできてしまいました。

 正月早々、多田くんが、「横中バスの間引き運転状況を調べよ」という妙な仕事の依頼を受けるところから物語はスタート。その仕事の帰り道、偶然、遭遇した高校時代の同級生・行天クンが多田便利軒に転がり込んできて、奇妙な同居生活が始まるのです。同居するからには、二人は高校生の時からの仲の良い友人かと思いきや…高校時代には一度も口をきいたこともなく、その後、一度も会うこともなかった遠い存在。そもそも、行天クンは、多田クンのみならず、誰ともしゃべらず、同級生と交わることのなかった大変人。変人のまま大人になった行天クンは、多田便利軒に転がり込んだあとも、居候に相応しいしおらしい暮らしぶりをするでもなく、非常識な言動、奇行を繰り返し、多田クンにとっては「ちょっと困った」存在。

一見、大人・多田クンが大きな子ども行天クンの保護者となって立派な社会人に育てるストーリーのようであり、でも、実は、過去の悲しい出来事を機に社会に対して心を閉ざしてしまった多田クンの成長記録でもあるのです。途中、ちょっと冗漫だなぁと思った部分もありましたが…読み終えてみると、一つ一つのエピソードが多田クンや行天クンのバックグラウンドを形作るために不可欠のものであることがよくわかります。そして1年がめぐり、多田クンは再び、横中バスの間引き運転を監視する仕事を依頼され、今度は、偶然ではなく、必然に行天クンともう一度めぐり合う。

パステルカラーの表紙が似合うような透明感のある文章を書く、ありがちな流行の女性作家とは、やっぱり、一味違います。秀作です。でも、やっぱり、私の中では「仏果を得ず」がダントツ・ナンバーワンです!

「一弦の琴」 宮尾登美子

2008年08月03日 | ま行の作家
「一弦の琴」 宮尾登美子著 講談社文庫 (08/08/02読了)

 1979年(29年も前だ!)の直木賞受賞作です。先々週、青森出張のお供に最新刊の「錦」を買うつもりが、羽田空港内の書店には未入荷。でも、宮尾登美子が読みたい気分だったので、「一弦の琴」を買ったのでした。言葉遣いも若干難しく、決して、スラスラと読める本ではないけれど、でも、読み応え十分!現在、NHKの大河ドラマで宮尾登美子原作の「篤姫」が放送されていますが…なるほどと頷けます。最近の作家の作品でも「映画化したら面白そう」とか「スペシャルドラマでいけるんじゃないの?」と思う作品はたくさんありますが、でも、大河ドラマを書く筆力がある人は少ないような気がします。

 「一弦の琴」をめぐる女の戦いの物語。子どもの頃に聞いた「一弦琴」の音色に魅せられた苗は、その道を極めるべく、青春時代を琴に捧げ、ひたすら練習に励む。まだまだ自由な恋愛や結婚が許されない時代であり、女はひたすらに婚家に仕える存在だったものの、子に恵まれなかった苗は夫の支援を得て一弦琴の教室を興す。一弦琴の教室は、夫婦にとっては子どもに代わる存在であり、大切に育てているうちに、やがて、土佐の良家の子女の集う大教室へと成長していく。その大勢の弟子たちの中でも、実力に秀でた蘭子との壮絶なバトルが物語の主軸。蘭子は周囲から、苗の後継者と目され、本人も実力ナンバーワンの自覚を持ち練習に打ち込む。しかし、ひたすら「一弦琴」の音色を愛する苗にとっては、ナンバーワンの弾き手であること、人から実力者と認められることにこだわる蘭子は、違和感のある存在。そして、ついに、蘭子外しの奇策に出たのでした。失意の蘭子は、一旦は、一弦琴から離れるものの、苗の死後、改めて、苗を超えるための蘭子の復讐バトルが始まる。ひたすらビュアに琴を愛する苗に、ついつい感情移入してしまいますが、でも、誰の心の中にも、蘭子のように「人に認められたい」「私こそ第一番の存在」という気持ちがあるのではないでしょうか。苗とは違う意味で、蘭子もまたピュアなだけに、二人の戦いは苛烈を極めるのかもしれません。

 しかし、それにしても重い。「錦」は是非、読んでみたかったけれど…続けて読む元気はありません。次は、軽めの作品で頭をほぐしたいと思います。


楽しい西遊記

2008年08月03日 | 文楽のこと。
楽しい西遊記 (08/08/03)

 大阪遠征2日目。本日は第一部の「西遊記」を鑑賞。「夏休み親子劇場」と銘打っているだけあって、たくさんの親子連れでほぼ満席。子どもたちの若いエネルギーで、劇場全体にも活気が溢れていて、なんか、嬉しくなってしまいました。
 子どもたちを飽きさせずに、楽しませようと、大技、小細工目白押し。勘十郎さまの宙乗り(2回も!)に加えて、食い倒れ太郎やグリコの看板などの大阪名物が登場したり、孫悟空がサングラスを掛けていたり、サントリー黒烏龍茶(多分、ホンモノ)など小道具でも笑いをとっていました。また、幕間に一輔さんの文楽教室があり、子どもたちを舞台にあげて、人形を遣わせるという大サービスも。「じゃあ、人形やってみたい人!」と会場に呼びかけると、子どもたちはすごい勢いで手を挙げていて、本当は3人を指名するはずが…なぜか7人になってしまい少々、混乱。それでも、上手く子どもたちをさばき、観客も同時に楽しませていただきました。
 さてさて、「西遊記」本編。やっぱり、私は勘十郎さまに釘付け。華のある人形の遣いは、いまさら、言うまでも無いことですが…動きが少ないところにこそ、本当の実力が発揮されるのだなぁと思いました。冒頭の孫悟空は黒衣の若手さんで、勘十郎さんの登場は二段目からでした。残酷ですが、「一段目のお人形さんが、二段目から本当のサルになった」というような変わりようなのです。何気ない仕草が、本当に、生きているかのように見えるのです。「やっぱり、勘十郎さまステキ!」と思ってしまいました。

 というわけで、「国言詢音頭」「西遊記」とも大満足。大阪遠征した甲斐は十分にありましたが…残念だったのは、簑助さん、文雀さんを拝見できなかったこと。お二人は私が断念した第二部に出演されていました。今回の大阪公演は3部制のため、配役も苦労されているのか、スターをバラして出演させているのです。住大夫さんの語りで、勘十郎さまのイケメン、簑助さんの姫-など贅沢組み合わせの舞台も見てみたいものです。

 さあ、次は東京の9月公演。チケット取り、頑張らなきゃ。