おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「似せ者」 松井今朝子

2009年03月29日 | ま行の作家
「似せ者」 松井今朝子著 講談社文庫 (09/03/29読了)

 一週間近くかかってようやく読了。江戸の芝居小屋に携わる人々を主人公にした短編集。
役者ばかりではなく、三味線方や興行の仕切り役である「お仕打ち」など裏方を主役級で登場させるあたり、いかにも歌舞伎の専門家である松井今朝子らしい作品。

 表題作の「似せ者」は、当代の人気歌舞伎役者である坂田藤十郎のそっくりさんの物語。藤十郎が死んで芝居人気が低迷しているところに、興行師の与市が、田舎芝居で活躍していた藤十郎のそっくりさん桑名長五郎を連れてきて舞台に立たせると、大人気に。しかし、所詮、似せ者は似せ者。人気が長続きするはずもなく、与市も長五郎もそれぞれに挫折を味わう。
タイトルの「似せ者」は、そっくりさん・長五郎だけを指しているわけではないというのがミソ。名優・藤十郎の人生もまた、自分以外の誰かを演じる似せ者に過ぎなかった。いや、役者に限らず、誰もが、自らに与えられた役割を人生の中で、それらしく演じる似せ者なのではないか-。そんなふうに考えさせられる物語。

 表題作に象徴されるように、舞台の華やかさとは裏腹に、芝居に携わる人々の諦念のようなものが作品全体を支配していて、ちょっと重たかった。そもそも、作品のジャンルが全く違うけれど、芝居をモチーフにしたものであるのならば、軽妙な拍子郎シリーズの方が圧倒的に好きです! 

「光」 三浦しをん

2009年03月23日 | ま行の作家
「光」 三浦しをん著  集英社 (09/03/23読了)

 私の勝手な分類によるところの「ダークサイド・しをん」作品です。これでもかこれでもかと、暗く陰鬱なエピソードが続き、最後まで何の救いもないような印象でした。でも、とても考えさせられる内容でした。物語の中では象徴的な極限状態を描いているものの、実は、殺意も、憎悪も、暴力も、猜疑心も、絶望的な妥協も、きっと、私たちとすぐ隣り合わせに存在しているのかもしれない。ただ、私は、運よく、極限状態に置かれていないだけなのかもしれない。だからこそ、この物語には、読む者を引きずり込むただならぬ吸引力があるのだと思うのです。

 舞台は、伊豆諸島にあると思しき架空の島。津波に襲われて、島は壊滅、島民もほとんど死んでしまう。生き残ったのは島民5人と観光客1人。いたるところに死体が散乱する被災現場で、観光客の男は、たった一人の女である中学生の少女を抱く。その現場を目撃してしまった主人公の信之は、少女を助けたいが一心で観光客の男を殺してしまう。
「どうせこの島は死体だらけ、観光客の男のことなど誰ひとり、気にしはしない」 信之は自分の行為をそのように納得させ、実際に、その男の死が問題となることもなかった。しかし、信之が観光客の男を殺したという事実は、信之だけでなく、生き残った5人の島民の全員の人生に影を落とし、人生を狂わせていく。残念ながら、5人の人生には、タイトルの「光」は差し込まず、殺意と、憎悪と、暴力と、猜疑心と、絶望的な妥協の中で、あるものは死に、あるものは暗闇の人生を歩んでいくしかない。

 本当に、救いが無い物語です。だからこそ、たとえぬるま湯でもいい、極限状態に置かれていない幸運に感謝し、できれば、一生、のほほんと、殺意も抱かず、暴力をふるうことも・ふるわれることもなく、気が狂わんばかりに誰かを憎むこともなく、暮していきたいという気持ちになります。

 でも、そろそろ、私の勝手な分類によるところの「お気楽・しをん」「ポジティブ・しをん」を読んで、脳も心も弛緩したい気分です。

「村田エフェンディ滞土録」 梨木香歩

2009年03月22日 | な行の作家
「村田エフェンディ滞土録」 梨木香歩著 角川文庫 (09/03/21読了)

 今から100年以上も前、1899年のトルコ・スタンブール(もしかして、イスタンブールのことなのだろうか?)に留学していた、村田クンの日々の生活を綴ったもの。“エフェンディ”とはトルコ語で学問を修めた者への敬称で、日本語でも目上の人を“センセイ、センセイ”と呼ぶのに似ているらしい。トルコの漢字表記は土耳古。というわけで、ちょっと不思議なタイトルは「村田先生、トルコ滞在記」という意味。そして、読んだ印象も、ちょっと不思議なのですが…でも、結構、好きでした。

 村田クンは考古学の研究者としてトルコ政府の招きでスタンブールにやってきた。滞在先は、英国人女性の営む下宿屋。下宿仲間のドイツ人・ギリシャ人の研究者、トルコ人召使と、少々迷惑な鸚鵡との日々の交流は、まったり、のんびりしていて、100年前は時間がゆっくりと流れていたんだなぁと感じます。当時は、まだ、留学などというのは、超レア体験であり、在トルコの日本人の数もごくごくわずか。トルコ入国早々に体調を崩した日本人を見舞おうと、鯵を釣って塩焼きにし、研いだ米でご飯を炊いて持参する場面がなんとも共感できます。日本人は、たぶん、あからさまに愛国心を表現することは苦手だし、外国人から見たら、愛国心が無いかのように見えるかもしれないけれど、日本食に対する思い入れ・執着は、その代償なのかもしれないですね。

 背景には、トルコ革命があり、第一次世界大戦に進む不安定な世界情勢があって、そういう激動の中で、国も、宗教も異なる若者同士の出会いと別れを描いた青春群像物語。-のはずなのですが、肩ひじ張らず、ひたすら、日々の淡々とした生活雑感が続くのが心地よい。村田クンには、やがて、帰国命令が出て、日本の大学で研究を続けている(正確には、論文が書けずに苦戦中!)ところに、下宿屋を経営していたディクソン夫人から手紙が届き、物語は悲しい結末を迎える。
 
 ストーリーとは別に、村田クンを通して、100年前、外国から見た日本がどんなふうに見えたか、そして、国際化とは何なのか-ということを、いろいろ、考えさせられました。特に、大政奉還とは、外国人から見ると、単なる無血革命どころか、極めて特異な権力の移譲なのですね。徳川家が、長い治世の間に、元の王家(=天皇家)を滅ぼさずに温存しつづけたことも、再び、天皇家に権力が戻った時に、徳川家が華族として生き永らえたことも、殺すか、殺されるか、ゼロか100かのデジタルな選択しかなかった狩猟民族からみると、理解不能なことなわけです。一方で、明治維新後には、西洋化を焦る日本の姿があり、それをトルコ人女性からたしなめられる。彼女に言わせれば、西洋の論理性とは、「あまりにも幼稚だわ。分かるとこだけきちんとお片付けしましょう。あとの膨大な闇はないことにしましょう、というそういうことよ」。言いえて妙です。リーマンブラザーズの破たんが引き金になった資本主義の混乱の原因も、突き詰めていけば、彼女の言葉で説明できるような気がします。

「ドスコイ警備保障」 室積光

2009年03月20日 | ま行の作家
「ドスコイ警備保障」 室積光著 小学館文庫 (09/03/20読了)
 
 キュートなネーミングで勝負あり。まさに名前の通り、元・お相撲さんたちが第二の人生を送るために作った警備会社を舞台に、ドタバタあり、涙あり、笑いあり、おまけにほのぼの恋愛までのありのハートフルコメディ。はっきりいって、かなり散漫な筋立てではあります。でも、作者の人柄(想像ですが…)が反映されているであろう、心温まるエピソードにホロリとさせられ、ちょっと優しい気持ちになれる、休日の“ながら読書”にピッタリの作品です。

相撲界に800人もの力士がいるうちに、十両以上の関取として給金をもらっているのはわずかに70人ほど。つまり、中卒・高卒で裸一貫で相撲部屋に入門してくる新弟子たちの多くは、十両にたどりつくこともできず、無名のままに、相撲界を去っていくのだ。しかし、学歴もなく、社会の荒波にもまれた経験もない彼らが、スムーズに第二の人生をスタートできるわけではない。相撲協会の理事長でもある南ノ峰親方は、こうした現実を変えなければならないと、廃業力士の受け皿として警備会社の設立を思い立つ。そこに、巻き込まれる地方都市出身の幼馴染4人組もまた、会社では微妙な立場に立たされたり、自分の人生これでいいのか-とちょっと不安になったりで、第二の人生の選択の曲がり角に立たされている。

厳しい稽古で作られた体は、強く、柔軟で、瞬発力もあり、廃業したからといって、ただのデブではない。巨漢アスリートをガードマンとして抱えるドスコイ警備保障には、予想外に、仕事の依頼次々と舞い込みます。バカバカしくも楽しい依頼は、まさに、コメディ! 番組改編期、親子で安心して見られる2時間スペシャルドラマにピッタリかも、南ノ峰親方は渡辺徹。ドスコイ社長の豪勇には伊集院光なんてどうでしょう? 唯一、相撲取り出身ではなく、ただのデブ役の松村には、内山クンで!

ドスコイ社員のガードマンたちは相撲界では上り詰めることはできなかったし、会社のマネジメントに携わった幼馴染たちも、順風満帆の人生ってわけではなかった。でも、ドスコイ警備保障で、彼らは、夢と自信とやりがいを取り戻す。
終盤、物語を〆る言葉がいいです。『成功した人間が「努力したから」と言い、挫折した人間が「運がなかった」と言ってはだめなんだよ。人間、いい時と悪い時がある。いい時は「おかげ様で運良く」と思い、悪い時は「誰のせいでもなく自分の努力が足りない」と思う。これが成功する人間の発想』。 いかにも日本人的だなぁ。たぶん、アメリカ人に説明してもなかなか理解してもらえなさそうだけど、いいじゃないか、日本的でも。「おかげ様で、今日も、無事、過ごせました」そんな感謝の気持ちが、幸せになれる第一歩かもしれない。

「落語と私」 桂米朝

2009年03月16日 | か行の作家
「落語と私」 桂米朝著 文春文庫 (09/03/16読了)

 落語初心者向けの入門書。落語を観る(聴く?)に当たっての初歩的な知識から、江戸時代まで遡って落語史に名を残した名人の紹介など、門外漢にもわかりやすく解説しています。ただ、初心者向けを意識したためか、「落語と私」というほどには、師匠の落語への思いが語られていないような気がしました。もっと、本格的な芸談を聞きたくなってしまいました。

 最後に紹介されていた米朝師が師匠の米団治から言われた言葉にググッときました。「芸人は、米一粒、釘一本もようけ作らんくせに、酒がええの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間が決めてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」。何度、読み返しても、いい言葉です。私は芸人ではないけれど、「米一粒、釘一本もようけ作らん仕事」をしています。「むさぼってはいけない」。「一生懸命仕事する以外に、世間へのお返しの途はない」-心に響きました。

「風に桜の舞う道で」 竹内真

2009年03月15日 | た行の作家
「風に桜の舞う道で」 竹内真著 新潮文庫 (09/03/15読了)

 タイトル通り、桜の花びらが舞っている春の風に吹かれているような気持ちの良い小説でした。舞台は山の手学院桜花寮。アキラ、リュータ、ヨージらが大学受験に失敗して入寮した1990年4月から大学進学が決まる翌91年3月までの1年と、彼らが社会人となり、それぞれの道を進みつつある2000年4月から01年3月までをパラレルに描いていく。

 昔、若者だったことがある人なら、誰でも、胸がきゅんとなっちゃうような、懐かしい思いが、蘇ってきます。決して、ビッグイベントではない、ごくごく当たり前の生活の一こまの描写が絶妙に巧い! 私も浪人経験者ですが、現役では痛い目にあっているくせに、なぜか「来年はなんとかなるさ」という根拠のない楽観論で、結構、楽しかったあの頃を思い出しながらストーリーを追いました。

 パラレルに語られる90年と2000年は、やがて、一つの道へと収れんしていきます。そう、あの頃から10年を経て、30歳近くになって、ボクたちは、ようやく、大人になろうとしている。予備校の寮で、小さな事件を乗り越えながら、みんなでワイワイやっていたのも楽しかったけれど、でも、精神的に社会的に大人の一歩を踏み出そうとしている2000年の物語こそが、実は、本当の、青春物語なんだと思わされます。

 「自転車少年記」(新潮文庫)に次ぎ、2作目の竹内真作品でしたが… この人、絶対に、すご~く、イイ人だと思うんです。その証拠に、文章に邪気がありません。平易で読みやすく、そして、作品を通じて、透明で心地よい風が吹いているような印象。
 でもね、やっぱり、大人になると、カワハギの刺身を肝醤油で食べたり、木の芽やコゴミの天ぷらがおいしいと思えたりするわけで、「平均的においしい」だけでは、なんとなく、物足りないのですよ。ま、無いものねだりなのかもしれません。心を浄化するには、ピッタリの作品です。


「推定少女」 桜庭一樹

2009年03月14日 | さ行の作家
「推定少女」 桜庭一樹著 角川文庫 (09/03/14読了)

 私が小学校六年生だったならば、きっと、もうちょっとは、感じるものがあったと思う。さすがに、オバサンになってコバルトシリーズのノリはついていけませんでした。いきなり、15歳美少女・巣籠カナが自分のことを「ボク」と名乗るのも、引きました。ま、事後的に、彼女が「ボク」と自称しなければならない事情はなんとなく明かされるのですが、それにしても、不自然な印象は否めず…。ま、そもそも、少年少女向けに書かれた作品のため、私には理解しがたかっただけで、桜庭一樹の力を感じさせる作品ではありました。

 決定的に桜庭一樹が苦手になる前に、早いところ「赤朽葉家の伝説」を読まなきゃなぁと思います。
 
 

「白いへび眠る島」  三浦しをん

2009年03月13日 | ま行の作家
「白いへび眠る島」 三浦しをん 角川文庫 (09/03/13読了)

 後半は相当に斜め読みしてなんとか読了。私の趣味には、イマイチ、合いませんでした。

三浦しをんの長編はポップで楽しい系(「仏果を得ず」「風が強く吹いている」「ロマンス小説の7日間」)と暗い陰鬱系(「多田便利軒」「むかしのはなし」)の2系統かと思っていましたが…これは、そのどちらにも属していません。
「拝島」という離島に生まれた悟史と光市の高校生コンビが中心人物。悟史は島を離れて本土の高校に通い、お盆の祭りに合わせて帰省。島に伝わる伝説を絡めながら、夏休みの少年たちに降りかかる不可思議な現象を描く。

読みながらふと思い出したのは、仲間由紀恵と阿部寛が主演していた「TRICK」的な世界。「白いへび眠る島」には、怪しい手品師が出てくるわけではないのですが…閉鎖社会での意味不明な怪奇現象をああでもない、こうでもないと、こねくり回すあたり、あい通ずるところがあります。でも、結局、それって超常現象でもなんでもなくて、ただのドタバタ騒ぎなんじゃないのというところも似ている。

結局、この物語を通じて、三浦しをんが何を言いたかったのかよくわからないし、文章もイマイチ、洗練されていなくて、後半はグダグダな印象でした。



「京極噺 六儀集」 京極夏彦

2009年03月11日 | か行の作家
「京極噺 六儀集」 京極夏彦著 ぴあ (09/03/10読了)
 
 初・京極夏彦。正直、京極夏彦の怪しいファッション・センス(着物にDAIGOのような革手袋)が理解し難く、これまでは遠巻きにしておりましたが…友人が貸してくれた2冊のうち1冊をとりあえず読んでみました。で、結論から言うと、とっても面白かったです!

 これは創作狂言と創作落語の上演用の台本集です。どれも、味わい深く、面白いのですが、特に創作狂言の「豆腐小僧」と「新・死に神」が好き。豆腐小僧は豆腐を持ったバケモノ。でも、全然、怖くなくて、むしろ怖がり。死に神クンは、口下手で、疑り深く、引っ込み思案で、合コンで気の利いたことも言えない陰気な性格。そのうえ、花粉症なんだそうで。現代的なエッセンスがとりこまれながら、でも、ちゃんと、狂言っぽい(「っぽい」というのは、実は、ほとんど狂言を見たことがないので、自信を持っては言えません)のが不思議です。きっと、「狂言」が満たしていなければならない、最低限のコードを押さえた上で、遊び心満載の台本にしたてられた感じがします。どちらも、実際に、上演されているのですが…是非、見てみたいです! 「豆腐小僧」は肩の力を抜いて、クスッと笑いながら楽しめる小品。「新・死に神」は、「その心の弱さは君だけじゃないよ、誰もが弱いんだ」と言ってくれているような… シリアスだけど、優しく包み込んでくれるような舞台なんじゃないかと想像します。

 そして、この作品を上演した狂言師・茂山千之丞さんが、伝統芸能が置かれた位置、創作狂言が果たす役割についてなどの考えを特別寄稿されているのが、作品に勝るとも劣らず興味深かったです。能・狂言が権力者に抱え込まれることによって、本来のパトロンであるはずの一般大衆から切り離されてしまったこと。そうした経緯により、演者自身が、特権階級のような意識を持ち、ますます、大衆とミゾができてしまったり、重々しさを出すために滑稽モノは疎んじられ、悲劇的な演目が幅を利かせるようになった歴史を優しい言葉で紐解いています。そして、今、起こっている静かな狂言ブームを喜びつつ、「お狂言を拝見する」と狂言を崇高なもののように持ち上げてくれる客に甘んじてはいけないと気持ちを引き締めています。狂言を見に来てくれる良いお客様に再び見放されることのないように、狂言の世界に新鮮な空気を送り込むのが創作狂言であると-。

 私は狂言は見たことはありませんが…、でも、同じく伝統芸能である新参文楽ファンとして、茂山さんのおっしゃることはとってもよくわかるような気がしました。もちろん、演者の方々は、日々の研鑽を積み、素晴らしい芸を身につけていらっしゃるのですが、でも、やっぱり、芸能は、観客がいてこそ成り立つもの。素晴らしい芸であるからそ、ますます、高い玉座に鎮座ましまさずに、大衆によりそって、さらに100年、200年と生き残ってほしいと改めて思うのでした。

 さて、私の次の課題は、京極氏の小説にトライ です。





「風の墓碑銘」(上)(下) 乃南アサ

2009年03月08日 | な行の作家
「風の墓碑銘」(上)(下) 乃南アサ著 新潮社文庫 (09/03/08読了)

 上・下二分冊と長いわりに、とっても読みやすく、一気に読めました。取り壊し中の貸し家の地中から男女と胎児の白骨体が見つかるところから物語はスタート。家の持ち主はまだらボケの老人だし、埋められたのは10-25年前と推察され、もはや迷宮入りかと諦めかけた頃、当のボケ老人が撲殺体で発見され、一挙にきな臭い事件に。

 老人と顔見知りのホームレスや、老人が暮らしていたケアつきホームの介護職員らに疑いがかかるが…。途中までは、めちゃめちゃ面白かったのですが、第四コーナーを回って種明かしが始まるにつれて、急激に気分が冷めてしまいました。そんな、おかしなことがあったら、もう、とっくに疑われているよね-というような、こじつけっぽさが鼻についてしまいました。

 でも、その部分を割り引いて考えても、十分に面白かったです。それは、美人、離婚歴あり、人付き合いちょっと不器用な音道刑事と、典型的なオッさん刑事の滝沢コンビが、なんとも言えず、味わい深いんですね。親子というには年が近すぎ、恋心を抱くには年が離れすぎた2人が、反発しながら、でも、相手を思いやり、コンビとしての熟度を高めていくところがステキ。謎解きではなく、音道ドラマとして楽しめば、合格点!

 私的には、音道刑事は和久井映美(深津恵理も捨てがたいが…)で、オッさん刑事は古田新太。ホントは、もうちょっと年齢が上の方がいいんだけれど… 音道刑事がコッソリつけている滝沢さんのあだ名が「アザラシ」。このイメージにピッタリなのが、古田さんです。