おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「日本人の叡智」 磯田道史

2011年06月30日 | あ行の作家

「日本人の叡智」 磯田道史著 新潮新書 11/06/26読了 

 

 磯田先生の本を読むたびに、小学校6年の時の担任の松崎均先生を思い出す。歴史を学ぶことの意味を教えてくれた人。

 

 当時、社会科はあまり好きじゃなかった。特に、歴史は苦手。「美しさはなんと(710年)言っても平城京」「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」程度の語呂合わせは覚えられたけれども、もっと細々として膨大な合戦や将軍の治世とかの年号を覚えることに何の意味があるのかさっぱりわからなかった。そもそも、昔の人がどんな戦をしようが、私には何の関係もないと思っていた。

 

テスト直前になっても「歴史なんて意味がわからないから勉強しない」と開き直っていた時に、「人間は過去の過ちを繰り返さないために、歴史を学ぶんじゃないのかな」と松崎先生に言われて、子どもながらに目から鱗が落ちたような、今まで見えなかったものが見えてきた感動を覚えている。

 

松崎先生に巡り会っていなければ、多分、私は今の私ではなかったと思う。大学で史学を専攻した―という外形的なことだけでなく、あの時の先生の言葉は、折に触れて私が立ち戻る原点だ。

 

 磯田先生の著作は歴史オタク的マニアック魂の結晶だが、でも、その底流に流れる歴史に対する敬意と、歴史に学ぶ真摯な姿勢がストレートに伝わってくる。

 

 「日本人の叡智」は朝日新聞土曜版beの連載をまとめたもの。歴史上の人物100人(超有名人も、ほとんど無名人も)が残した言葉を毎週1つ取り上げ、その言葉が意味するもの、読み取れること、現代に生きる私たちが学ぶべきことを優しく読み解いてくれる。連載していた頃から時々読んでいたけれど、一冊にまとめると、ズシリとした重みになる。

 

 読みながら、美しい言葉に何度も涙が出てきた。人の心を動かす力がある言葉は、時代が変わっても普遍なのだと思う。そして、3回に1回ぐらいの割合で「それに引き替え、菅政権は…」と独りごちてしまう。首相会見、官房長会見の空虚な言葉が国民に届かないのには、そこに心が無いからなのだ。磯田先生は、直接的に今の政治を批判したりはしていないが、今の政治、今の社会の空気に対する厳しい目を感じずにはいられない。そして、それは、社会の構成員であり、有権者でもある読者11への問いかけでもある。

 

 子どもの頃、課題図書を読んで読書感想文を書くのが夏休みの宿題の定番だった。永田町の先生方に、「日本人の叡智」を全員必読の課題図書として指定したい。被災地で家族や、仕事や、家財を失った方々のことを考えたら、遅々として進まない原発事故対応のことを考えたら、今、政治ゲームにうつつを抜かしている場合ではない。自分で考えられないならば、せめて、素晴らしい治世をした先人に学んでほしいところ。そして、政治家だけでなく、「一家に一冊、『日本人の叡智』を!」とたくさんの人にオススメしたくなる素晴らしい珠玉の言葉たちです。


「小夜しぐれ」 高田郁

2011年06月22日 | た行の作家

「小夜しぐれ」  高田郁著 ハルキ文庫 11/06/21読了 

 

 お馴染み「みをつくし」料理帖シリーズも、ついに第5弾となりました。

 

 昨日読み終わった「雷電本紀」は格式ある料亭で頂く会席料理の如し(って、料亭で会席石料理なんて食べたことないけど)。一つ一つの素材が厳しく吟味され、調理法から味付けまで、これ以外の方法は考えられない―というところまで極めた迫力が感じられる。

 

 でも、どんなに素晴らしい素材で、どれほど美味しくたって、毎日会席料理を食べたいか―と聞かれると、決して、そうではないんですよね。白いごはんに海苔の佃煮を載せて、ワカメとジャガイモの味噌汁、目玉焼きは白身を先に食べて、最後に半熟の黄身に醤油を垂らしてジュルッて食べるのがフツーに幸せなのです。

 

 「みをつくし」シリーズは、まさに、そういう「うちゴハン」的な安心感で、ホッとした気分にさせてくれる。「雷電本紀」とは違う意味で、物語を読む喜びを与えてくれる作品。

 

 でも、根性なしの私はちょっとイライラしてきました。物語のベクトルは、明らかに、澪が思い人と結ばれるフィナーレに向いてると思うのですが、その進捗は「3歩進んで2歩下がる」超スローペース。著者がレディースコミックの漫画原作の仕事をしていたことと関係あるのかどうか定かではないが、なんとなく、少女漫画の毎週ネタ小出し作戦的に結末を後ろ伸ばしにしているような…。「落としどころは決まっているんだから、さっさと2人が結ばれちゃえばいいのに!!!」と、ついつい、せっかちなことを心の中でつぶやいてしまう私。せめて、最終刊が6巻なのか、7巻なのか教えてほしいなぁ。

 


「雷電本紀」 飯嶋和一

2011年06月21日 | あ行の作家

「雷電本紀」 飯嶋和一著 小学館文庫  11/06/20読了      

 

 江戸時代の伝説の力士・雷電為右衛門と彼を取り巻く人々にスポットを当てた時代小説。

にもかかわらず、ページをめくるたびに今日の日本のことを深く考えさせられる。 

 

 雷電は力士生活21年。生涯成績25410敗。勝率96分。名横綱として後生に名を残すであろう千代の富士や曙ですら勝率75分であることを考えると、時代が違うとはいえ「史上最強力士」の称号に納得がいく。

 

 当時、力士は各藩が抱える下級武士の身分。力士を戦わせ、その勝敗が、幕府公認の博打となっていた。故に、相撲とは純粋な力士同士の勝負というよりも、藩と藩とのメンツの張り合いであり、賭けの勝ち負けをめぐる思惑が働いたりした。「自藩のお抱え力士の負けがこまないように」「親しい藩に頼まれたから、勝ち星を一つ貸しておく」といった「拵え相撲」が横行していた時代に、雷電は、誰の指図も受けることなく、誰に手加減することもない真剣勝負の力士としてめきめきと頭角を現す。雷電は相撲界では疎んじられることも多々あったが、江戸の庶民たちからは熱烈な支持を得、そして、停滞していた相撲人気が復活する。

 

 ストーリーの中で、母親が子どもの無事な成長を願って力士に子ども託し、抱き上げ、厄払いしてもらう場面と、江戸の大火で焼き出された人々に力士たちが炊き出しをする場面が印象に残った。今でも、力士が子どもを抱きかかえて土俵に上がり、びっくりした子どもが泣き出す声を競い合う「泣き相撲」という伝統行事が各地に残っているが、鍛え上げられた美しい身体と、他を寄せ付けない圧倒的な強さには、神が宿っていると考えられているのだろう。私は、全く、相撲に詳しくはないが、それでも、全盛期の千代の富士、貴乃花の身体は神々しく、その強さは説明無用の説得力があったように思えた。

 

 勝負の世界には様々な思惑が働き、お金の魔力に負けてしまう人も少なからずいるのが世の常。ゆえに、江戸の「拵え相撲」の伝統が脈々と引き継がれ、平成の世になって「無気力相撲」や「八百長相撲」が行われていたのは、致し方のない現実なのだろう。しかし、時として、土俵の上に「神」が現れるからこそ、相撲は廃れることなく、なんとか生き延びてきたのではないだろうか。相撲人気は浮き沈みを繰り返しているが、それは「神」の在・不在によるものなのかもしれない。そういう意味では、観衆は「神」の存在を敏感に察知しているのだろうし、「八百長相撲」が表沙汰になったのは、今の相撲界に圧倒的な「神」が存在しないが故なのではないだろうか―とそんなことを考えた。ただ、被災地で炊き出しをしていた白鵬は美しかった。今の角界では、「神」に一番近い存在なのだろう。物語の中で江戸の力士が炊き出しをする場面とシンクロした。

 

 雷電は晩年に至り、かつて自分が負かしてきた力士たちの鎮魂のために、資金を集め寺の鐘を鋳造した。しかし、当時、寺社奉行は出世街道の要衝だったことが禍いし、幕府内部の権力闘争に巻き込まれる形で、「鋳造した鐘は幕府の定めに反している」と言いがかりを付けられて投獄され、江戸払いを申し渡される。雷電の最大・最良の理解者であり、鐘の鋳造に尽力してくれた助五郎は罪を1人で背負って獄死した。史上最強の力士の晩年は、決して幸福ではなかった。しかし、江戸の民は、本当に責められるべきは罪人とされた雷電ではなく、権力者たちであることを見抜いていた。

 

 大火が相次ぎ、疫病が蔓延し、人心荒廃しても江戸の役人たちが権力の虜となったように、平成の世でも永田町は相変わらず楽しい権力争いにうつつを抜かしていらっしゃるようだ。かくして、人間とは歴史に学ばず、同じことを繰り返し続ける運命なのだろうかと、暗澹たる気持ちになる一方で、権力者たちが無知蒙昧の民と思い込んでいる民草の生命力と英知こそが、時代を一歩進める原動力になるのだ―と願わずにはいられない気持ちで読み終えた。

 

 で、読み終えたあとの「オマケ」が素晴らしくよかった。久間十義氏による飯嶋和一インタビューが収録されていた。ネットで調べても、飯嶋和一氏に関する情報はほとんどなく、心の中で崇拝しつつも、その姿がまるで見えない人物だったが… ほんの少しだけ、後ろ姿を拝めたような気分。徹底したプロフェッショナリズムと、ストイックなまでの細部へのこだわりがあるからこそ、寡作にならざるをえず、でも、その分、完成度の高い作品を生み続けていることに納得。 

 

 飯嶋和一の作品を読むと、いつも、「歴史観」を持つことの大切さを思う。

 妄想的希望。飯嶋和一×磯田道史の対談を読んでみたい。誰だって、自分の生きた時代が後世の検証に耐えうるものであってほしいもの。そのためにも、歴史を見る眼を、振り返る心を養いたい。


「謎解きはディナーのあとで」 東川篤哉

2011年06月14日 | は行の作家

「謎解きはディナーのあとで」 東川篤哉著 小学館 2011/06/13読了  

 

 何年か前に深田恭子主演で「富豪刑事」といとうテレビドラマがあった。本編を見たわけではないけれど、予告編で深キョンが「たった○○億円のために殺人事件を起こすなんて信じられな~い」という、すっとぼけたセリフを甘ったるい声で言っているのを聞いて、「深田恭子による、深田恭子のためのドラマなんだろうなぁ」と思いました。トリックの緻密さとか、リアリティなんかは二の次で、深キョンが深キョン的に可愛ければそれでよしってことだったんじゃないかと…。

 

(と、ここまで書いたところで、友人から「富豪刑事」の原作は筒井康隆の小説で、そちらはめちゃめちゃ面白い作品であったとの情報がもたらされる。)

 

 で、その「富豪刑事」にインスパイアされた作品なのかどうかはしりませんが、「謎解きはディナーのあとで」も、警視庁国立署の超セレブなお坊ちゃま刑事とお嬢様刑事のコンビが難事件に挑む。でも刑事としての2人の能力はほどほどな感じで、難事件を見事に解き明かすのは、お嬢様に仕える執事でした―という設定。しかも、この執事は現場も見ずに、お嬢様に事件の概要を聞いただけで、犯人やその手口を推理してしまう。その上、「お嬢様の目は節穴でございますか」などと辛辣な言葉をまき散らす毒舌家。

 

 個人的には、まったく好みではないけれど、百歩譲って「キャラもの」というジャンルならば「あり」かもしれないな―と思わないでもない。GACKTとか、いかにもナルシストな雰囲気の俳優さんで深夜枠のドラマにしたら、まぁ、それなりにウケるかも。

 

 けれど、これが2011年の「本屋大賞」というのが、どうも、いまいち、腑に落ちない。メインキャラのお嬢様刑事と執事はコメディエンヌ、コメディアンとして、ある程度、できあがってはいるものの、漫画チックに面白いだけ。その背景に、今の時代を映す何か、人間が背負う業とか、悲しみとかがあるわけでもない。その場限りは大笑いして、後で、ちょっと虚しくなる、安っぽいお笑い番組のような…。

 

 その上で、細部があまりにもテキトーすぎるのです。ちょっとしたミステリーファンや、刑事ドラマ好きであれば「ありえな~い」と叫びたくなるような設定が2ページに1回ぐらいの頻度で出てくる。まあ、それも、「コメディなんだからいちいち目くじらを立てずに読めばいいのか」と割り切れば済むことかもしれない。

 

 が、本の帯を見ると「令嬢刑事と毒舌執事が事件を解決。ユーモアいっぱいの本格ミステリ!」と書いてある。こんなテキトーな設定で、「本格」を名乗る気? 本屋大賞に寄せられた書店員のコメントも「ミステリとしても満足のいく出来」「ミステリとしてもきちんと仕上がっている」「上質のミステリ」と絶賛モード。

 

一言、言わせて頂きたい。「書店員さんの目は節穴でございますか?」。

 

 ちなみに、本屋大賞の10作品の中で私の既読は、2位の「ふがいない僕は空を見た」窪美澄著・新潮社、9位「キケン」有川浩著・新潮社、10位「ストーリー・セラー」有川浩著・新潮社の3冊。「キケン」「ストーリー・セラー」は有川浩の代表作にはならない程度の作品なので、まあ、大賞受賞しなくとも納得。「ふがいない僕は空を見た」は、圧倒的によかった。キワモノ的なプロローグとは裏腹に、生きるとは何かを問う作品だ。人間の弱さ、愚かしさを淡々と描きつつ、最後に心に残るのは人間の生への渇望であり、たくましさ、強さ。こういう作品こそ、本屋大賞を受賞してほしいなぁ。ま、毎年、本屋大賞とは意見が合わない私です。

 

 


「どう伝わったら、買いたくなるか」 藤田康人著 

2011年06月10日 | は行の作家

「どう伝わったら、買いたくなるか」 藤田康人著  ダイヤモンド社 

 

 サブタイトルは「絶対スルーされないマーケティングメッセージのつくりかた」

 

天の邪鬼な私は、「絶対なんて、ありえないでしょ~!私は、そんなの騙されないからねっ!!」と心の中で啖呵を切りたくなってしまった。

 

 著者はインテグレートCEO。ガムのデファクトスタンダードとなっているキシリトールを日本に持ち込み、厚労省を説得し、消費者に浸透させた人として、マーケティングの世界ではあがめ奉られている人だそうです。「インテグレート」という会社は、日本初のIntegrated Marketing Communication のプランニングブティックだそうです。う~ん、まぁ、要するに、広告代理店ってことですよね。

 

 インターネット、SNSが普及して、伝える側が一方的に商品情報を反復的に流し続けるマス広告の時代は終わった―という。広告も報道と同じ壁に直面しているのだ。情報の伝わり方が一方向から、双方向へ、そして、いまや、全方位へとなり、消費者は単なる「受け手」ではなくなった。消費者は情報の媒介者でもあり、「共感」することによって動くのだという。

 

 なるほど。納得。

 

 だから、これからの広告代理店の仕事は「共感」を演出する舞台装置を作ることだというわけですな。マスメディアだけではなく、情報番組、フェイスブックのファンページなどSNSも使って消費者自身が新しい価値の創造、遡及に参加する形こそが新しいマーケティングなのだそうだ。その成功事例として紹介されていたのが、「美魔女」やワコールの「ちゃんと測って正しいブラでずっときれいなおっぱいキャンペーン」。

 

 でも、その手口にも、消費者はそろそろ気付いているよね。企業のファンサイトが、決して自然発生的に生まれているわけではないことも。情報番組の裏側で代理店が絵を描いていることも。ブログで「○○の使い心地がよくて感動~」と絶賛している人が企業の仕込みであることも。読者モデルがタレント事務所に所属するプロであることも。そして、消費者である自分自身もマーケティングのコマにされていることも。

 

 もちろん、それを承知の上でブームに乗って楽しむという手もあるけれど、いずれにしても、消費者は騙されっぱなしではないんじゃないの?

 

 しかも、たまたまかもしれませんが「美魔女」も「タレそうなオッパイをキレイに維持したいのも」アラフォー~アラフィフがターゲット。つまり、バブル華やかなりし頃を謳歌した世代。浪費癖のある人を、もう一度、浪費の罠に陥れるという手口って、別に新しくもなんともないような気がするのは私の気のせい?

 

 スマホとDSさえあれ1日楽しく過ごせる。車なんて興味ないし、服はユニクロで十分。牛丼とマックとコンビニで食事は事足りる。それより、失業した時のためにお金を貯めとかなきゃ―などと言っている若者の財布を開かせたら「さすがっ!」と思うけれど、バブル世代は、そもそも、お金使うきっかけがほしくてしょうがないだけなんじゃないの?

 

 個人消費は経済の柱の1つであり、否定するつもりは毛頭ありません。でも、なんとなく「贅沢はステキ」「浪費って楽しい」という時代は終わりを迎えているような気がする。代理店の手口に乗らず、自分にとって本当に必要な、長く大切にできるものを、必要な分だけ買う―そういう人が増えつつある時に、「これが最先端のマーケティングなのかなぁ?」という疑問が残った。

 


「長屋の富」  立川談四楼

2011年06月10日 | た行の作家

「長屋の富」 立川談四楼著 筑摩書房 2011/6/9読了 

 

 美しい日本語の響きに酔いしれた。

 「よっ! 名調子!」と声を掛けたくなるような気持ち良いリズムが活字から聞こえてくる。

 

 長屋噺を下敷きにした、町人時代小説。

 

貧乏長屋で暮らす次郎兵衛は博打で儲けた金で富くじを1枚買う。 博打のあぶく銭はすっかり使い果たし、再び、借金漬けの極貧生活に逆戻りしたところで、すっかり忘れていた富くじの一番札が当たり、1000両を手にすることになる。

 

 今でいう「年末ジャンボの1等が当たっちゃった♪」という設定だ。お気楽次郎兵衛は、周囲の心配をよそに、1000両を当てたことを町内で触れ回り、長屋の住人たちには大盤振る舞い。鉄火場に入り浸り、散々貧乏して苦労もしてきたくせに、次郎兵衛は世間しらず。まんまと騙されてどんどんたかられていく。お金をめぐる人間悲喜劇は、今の時代にもそのまま通じることだろうなぁ。人間はかくもユウワクに弱く、そして、人間はかくも誰かを喜ばせたくて仕方のない存在である―という談四楼師の温かな思いがストーリー全体に行き渡っている。

 

 それにしても、国権の最高機関では、毎日のように聞くに堪えない美しくない日本語(内容も含めて!)が飛び交っている。永田町の戯言は国民の心には響かず、むしろ、政治から心が離れるばかり。政治家の皆さんもたまには談四楼先生の本を読んで、心にすっと沁み込んでいくような日本語をお勉強して下さい!

 

 今日の教訓! 私は、もしもBIG6億円当たっても、動揺せず、誰にも言わず、平静を保ちたい。

 


「なんにもうまくいかないわ」 平安寿子

2011年06月09日 | た行の作家

「なんにもうまくいかないわ」 平安寿子著  徳間文庫 

 

 「あ~、なんにもうまくいかない!」と、悲観したり、投げやりになっているわけではない。うまくいかないのは、うまくいかないなりに楽しいし、うまくいかない友人を横目に見るのはもっと楽しい―という、しぶとい女たちの物語。

 

 オバーフォー、シングル、姉御肌。仕事は楽しく、それなりに経済的余裕ありの志津子と、彼女のまわりにいる女たちをオムニバス形式で描いている。単行本として出版されたのは2004年。wikiによれば「草食男子」という言葉が本格的に世の中に広まったのは200809年。その対語として「肉食女子」と言われるようになったのは2009年以降だろう。

 

 でも、2004年に描かれた志津子も、既に、草食男子を翻弄しまくる肉食女子パワー全開。女はたくましく、しぶとく、恋愛を糧に、不幸も糧に(人の不幸はもっと糧?)するサバイバーなのだ。 志津子のキャラは、桂望実の「嫌な女」(光文社刊)に登場する夏子に相通ずるものがある。華やかで、エネルギッシュで、トラブルメーカーなのに人を惹き付ける。

 

 でも、最後の最後、忌の際で志津子の心は平穏だろうか  読みながらそんなことを考えた。

 

 強く・たくましい肉食の女たちが「私も志津子と同じ」と共感したいわけではない。「私は志津子ほど愚かではない。草食動物を食べ尽くして、荒野にひとりぼっちになったりしない」と、自分を慰め、励ましたいから、こういう小説へのニーズが尽きないのだろう。女は強く、たくまし、しぶとく、そして、不安なのだ。

 

 志津子の物語とは別枠のボーナストラック「亭主、差し上げます」が秀逸。全ての不倫男子諸君、自分がどれぐらい腹を括っているのか、もう一度、よ~く考えてみたまえ。やっぱり、女ってしぶといなぁ。

 


「末裔」 絲山秋子

2011年06月07日 | あ行の作家
「末裔」 絲山秋子著 講談社  2011/06/06読了  
 
 言いたことは分かる…ような気がする。

 私は著者と同世代だ。親の世代は、取り立てて努力しなくても、女の子は年頃になればお嫁に行けて、2-3年のうちには子どもが生まれるのが常だった。社会全体の中で「それが当たり前のこと」というコンセンサスがあったし、敢えてそのルートから外れる人はマイノリティだった。

そういう環境で育ったのに(育ったから?)、私たちの世代は「結婚するぞ!」と強い意志がなければ、結婚しないままでも過ごせてしまう。女性の生き方の選択肢が広がり、結婚しない女が変人扱いされる時代はとうに終わった。楽しいこともいっぱいあるから、家は寝に帰るだけの場所になった。結婚したり、ステディなパートナーがいたとしても子どもを産むことはmustではない。仕事が楽しい、毎日面白おかしい、子どもがいて経済的に苦しくなるのはいや―それぞれの理由で、妊娠を先延ばししているうちに女の子はオバサンになってしまう。少女老いやすく、家庭なりがたし。

絲山秋子氏のブログをたまにのぞいてみる限りでは、きままなシングルライフを自分が納得いくように送っているように見える。彼女が「子どもを産みたい」と思ったことがあったかどうかは知る由もないが、ただ、もはや妊娠(ほぼ)アウトの年齢に至って、「私に子どもがいない」ことから派生する意味について考えるところがあったのではないだろうか。

私自身も婚姻届けを提出するという手続きに興味が持てなかったし、切実に「子どもがほしい」と思ったこともなかった。むしろ、私のような未熟な人間が子どもを持つなどおこがましいと思っていた。「未熟は未熟なりに子どもと共に成長していくことができたかもしれないな」―という心境に至った時には、今さら妊娠する勇気が出ない年齢だった。だからといって、取り立てて後悔しているわけではないのだが、兄弟も子どももいない私が死んだら家は絶える。その前に、実家の処分、墓の処分、もろもろの雑事を片付けておかなければなぁ…などと漫然と考えるようになった。友人たちの孫自慢をジッと聞いているだけしかできない親を、ちょっと可哀想に思うようにもなった。

「末裔」の主人公・省三は、不妊の息子夫婦、結婚する気のない娘を見て、「この家は絶える」という現実に直面する。そこには、後悔とか、悲しみとか、絶望といった湿っぽさがあるわけではないのだが、ある種の「諦念」や一世代前への「郷愁」がそこはかとなく漂っている。

日本がメキメキと音を立てるように成長し、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われる時代を知っている。ひもじい思いもせず、質・量とも豊かなモノに囲まれている。かつての「学士さま」の希少価値は薄れ、望めば(そしてレベルを妥協すれば)誰でも大学に行けるようになった。それなのに、完全に豊かになりきっていなかった子どもの頃の空気がとてつもなく懐かしく思えたり、高等教育では得られない、一世代前の人たちの生きる力、生きる知恵に心打たれたりする。

著者の同世代の私には、なんとも言葉に表しがたい「諦念」や「郷愁」を共有できる。私なりに「末裔」のコンセプトを理解できたと思う。全く個人的ながら、「鶴見」「大船」「鎌倉」「横須賀線」などのなじみ深い地名や路線名がたくさん出てきたのも嬉しかった。

しか~し、どう考えてもラリッているとしか思えないストーリーのストラクチャーにはついていけなかった。

震災以降ろくに本を読んでいないにもかかわらず、松尾スズキ「クワイエットルームにようこそ」、梨木香歩「f植物園の巣穴」、絲山秋子「海の仙人」、そしてこの「末裔」と、若干、あちら側の世界に足を踏み入れてしまっているような小説に次々とぶちあたってしまっている。いずれも書評も読まず、予備知識無しに購入したり、借りたりした本なのに…なぜ…? もしかして、無意識の私の願望?

そろそろ読書正常化したいなぁ。ラリッていない、純粋に元気の出る本が読みたい!