おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

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「不思議な羅針盤」 梨木香歩

2011年07月26日 | な行の作家

「不思議な羅針盤」 梨木香歩著 文化出版局  

 

 基本的に女性ファッション誌は読まないのですが… 過日、友人が扱っているブランドの靴が文化出版局「ミセス」に取り上げられているのを見て心を打たれました。

 

 それは、素人目にも、手間と時間をかけて丁寧に撮影しているこことが一目でわかるような美しい写真でした。靴をフィーチャーするために、その靴がもっとも美しく見えるような服を選び、モデルさんにメイクを施し、靴の心地よさや、気持ちのよい靴を履いて過ごす休日のゆったりとした時間の流れまでも伝えようとしているのがわかる。作り込まれたカットなのに少しの過剰もない。ふと「簡にして要」という言葉が思い浮かんでくる。同時期に同じ靴を取り上げた他の雑誌と比べてみると、その美しさは群を抜いていました。読んだこともないくせに「さすが、老舗は違うなぁ」と感激したのでした。

 

 前置きが長くなったが、「不思議な羅針盤」は、「ミセス」に梨木香歩が連載していたエッセイを一冊に収録したもの。テーマは特になく、日々の生活雑感なのだが、読むことで、心のざわめきが静かに整っていくような文章。少しも押しつけがましいところがなく、でも、心にジワッと染み込んでいく。

 

「ネット社会で情報の取捨選択が出来ぬモノは生きるべきらず」的な、なんでもデジタル化、全てをスマートフォンに集約化というムードが強まる中で、草木の生命力に心し、愛犬を襲うどう猛なバカ犬に真剣に怒り、新聞の集金にきたおじいさんとのに何気ない会話を楽しむ―そんな、私が子どもだった頃には当たり前だった日常がなんとも愛おしく描き出されている。

 

でも、梨木香歩はデジタルを否定しているわけではない。エッセイの中でも、「ついつい便利だからメールで連絡を取り合うことが多くなり、ハガキを書いたり、季節に合わせた切手を選ぶ機会が減ってしまった」という趣旨のことを書いている。何かを否定したり、他人に「~すべきである」と強いたりせず、「私はこれが好き」「こうするのが気持ちいい」ことを力まずに、淡々と追求していく。その姿勢に素直に共感できる。

 

 それにしても、「ミセス」って、なんて贅沢な雑誌なんだろう。あんな美しい写真、こんな美しい文章。雑誌が売れないと言われている中で、これだけコストと手間暇かけて作っているのは大変だろうなぁ―と思うが、ぜひとも、頑張ってほしいな。一度も買ったことないけれど、ますます、私の中の「ミセス」好感度アップ。さすが老舗は違う! 

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「シティ・マラソンズ」 三浦しをん・あさのあつこ・近藤史恵

2011年07月25日 | Weblog

「シティ・マラソンズ」三浦しをん・あさのあつこ・近藤史恵 文藝春秋社

 

 「身も心も」(光文社刊 盛田隆二著)を読了後、とある推理小説を読み始めたものの、見開き2ページを読み切れないうちに猛烈な眠気が襲ってくるほど催眠効果が強烈。1週間以上かかっても50ページぐらいしか進まず、毎日持ち歩いているのに、だんだんカバンから取り出すのがユウウツになり、ついに断念。救いを求めるような気持ちで「シティ・マラソンズ」を開いたら、面白いほどにサクサク読めて快適でした。肩肘張らずに楽しめるページターナーです。

 

 もともとはアシックスのウェブサイト上の企画小説。

 

「風が強く風が吹いている」(三浦しをん)/「バッテリー」(あさのあつこ)/「サクリファイス」(近藤史恵) スポーツ小説をヒットさせた女性作家3人にマラソン小説を依頼したわけですね。三浦しをんがニューヨークマラソン、あさのあつこが東京マラソン、近藤史恵がパリマラソンを舞台にしたストーリーを作成。意図してか、偶然なのか、そもそもマラソンとはそういうものなのかはよくわかりませんが、共通テーマは「自分に向き合う」。

 

企画モノweb小説の功罪。「功」は、「自分に向き合う」という重いテーマにもかかわらず、過剰に重苦しくならずに気楽に読めるということ。「罪」は…その時、作家が本当に書きたかったことを書いているのだろうかということ。もちろん、プロの作家であれば編集者のオーダーに合わせた作品を製作することもそれほど珍しいことではないのかもしれないけれど、でも、企画のために設定されたテーマと、締め切りと、字数の制限があるなかで、本当に面白い作品を作るのは難しいことだと思う。

 

三浦しをんバージョンは、横浜ローカルの不動産会社に勤める男が、突然、社長命令で明日、ニューヨークに飛んでマラソンに出場せよと命じられる話。元陸上部の長距離経験者とはいえ…たまにジョギングするぐらいの実質10年ブランクでいきなりフルマラソンを走れるのだろうか―と疑問が湧いた。 ニューヨークマラソンの「楽しさ」みたいなものは伝わってきたけれど、ちょっと設定に無理がありすぎのような。三浦しをんが文楽にハマッて、書きたくて書きたくて仕方がなかった「仏果を得ず」の気迫に比べると、流して書いているような印象は否めず。

 

あさのあつこバージョンは、ランナーではなくて、ランニングシューズを作っている人を主人公に仕立てたもの。(あっ、発注したアシックスの心をくすぐる度合いでいけば、これがナンバーワン?) 実は、あさのあつこの小説を読むのはこれが初めてのような気がするので、過去の作品との出来は比較しようもありませんが…。小サッパリとまとまっているけれど、深く心を揺さぶられることもないという感じ。ま、単に、私好みではない設定であるというだけのことかもしれません。思い・思われる微妙な三角関係のうちの誰かが早世してしまうことで、残された二人の関係のバランスが崩れていく―という「タッチ」方式(すみません、「タッチ」読んでいませんが…)のストーリーって、3人の誰かしらに自分を投影して読めるから共感を誘いやすいけれど、でも、なんか、安っぽい印象。

 

で、私好みだったのは、近藤史恵バージョンでした。才能が無いことを自覚したバレーダンサーが、現実逃避のためにパリに語学留学。走ることの喜びに出会ったことで、アスリートとしての自分に再会する。最も、真正面から「自分に向き合う」というテーマに向き合っている印象だったし、何よりも、街を駆け抜けていく気持ち良さが伝わってくるという点でも秀逸でした。近藤史恵バージョンが最後だったことで、後味よく読み終われました♪

 

 

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「身も心も」 盛田隆二

2011年07月05日 | ま行の作家

「身も心も」 盛田隆二著 光文社 11/07/04読了  

 

 川崎ラゾーナの丸善にちょっと前から平積みになっていて、シンプルでビビッドな装幀が気になっていた。「死様(しにざま)」をテーマに6人の作家が競作するという斬新な試みのうちの一作。震災以降、重たいストーリーを読む元気はなくなっていたけれど、629日の日経夕刊の書評欄の評価が高かったことに背中を押されて購入。

 

 妻に先立たれた礼二郎。家業の酒屋は息子が引き継ぎ、コンビニに模様替えした。お金には困っていないが、趣味も生き甲斐もなく、ただ漫然とした日々を消化していくだけだった人生に再び色彩が戻ったのは、老人会で出会った幸子さんに恋をしたから。

 

 凜とした美しさをたたえ、セレブな雰囲気をまとう幸子さんは老人会の男性の憧れのまと。礼二郎にとっては近寄りがたい存在だったが、まるで高校生の淡い恋のごとく、2人はゆっくりゆっくりと距離を縮めていく。

 

 礼二郎と幸子さんの恋は切ない。なにしろ、2人には「命」という、避けて通ることのできない時間制限があるのだ。もちろん、若者だって永遠に生きられるわけではないけれど、20代、30代のうちは、現実味を持って時間制限のことを考えたりしないだろう。しかし60代後半、70代ともなれば、それは、明日やってきてもおかしくない。

 

 恋することの喜びと隣り合わせで、病気になって会えなくなる恐怖、記憶力が鈍って愛する人が誰だかわからなくなってしまう恐怖、そして、なによりも、自分が先に旅立たなければならない恐怖、相手が先に旅立って1人取り残されてしまう恐怖が常につきまとう。

 

 それでも、人生の最後のひととき、お互いを慈しみ合い、手を取り合って、穏やかな時間を過ごすパートナーに巡り会うことの意味を考え、電車の中で、はからずも涙がこぼれそうになった。

 

 正直なところ、幸子さんの不幸な過去(「幸子さんが不幸」ってことが、とってもベタ!)や、冷淡な嫁の描き方が、あまりにも昭和のドラマのお涙頂戴場面的な設定で安っぽい印象ではありました。

 

ただ、高齢化が進む中で、「老人同士の恋」というテーマを扱う小説が決してキワモノではなく、然るべきニーズのある安定的なジャンルになっていくのだろうな―と感じさせる真実味も十分にありました。恋に恋する小・中学生の頃、「コバルト文庫」の恋愛小説本を友だち同士で回し読みして盛り上がっていたけれど、これからは、かつてコバルト文庫で恋愛を学んだジジババが、人生最後の恋に燃え上がる時代になる。「大人のコバルト文庫」とか、「seventeen」ならぬ「seventy」が登場してもおかしくない。

 

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「漂砂のうたう」 木内昇

2011年07月04日 | か行の作家

「漂砂のうたう」 木内昇 集英社 11/07/03読了  

 

 物語の結末が近づくにつれ心が波立つ。というか、焦る。「そろそろ、面白くなってくるのかな」「ついに、次のページから盛り上がるのか???」 結局、高揚感無きまま読み終ええて「………もしかして、私、そんなに好きじゃないかも」と思う。

 

 第144回直木賞受賞作。根津遊郭の妓夫台に座る(今風に言えば、キャバクラの黒服のようなもの?)定九郎は、元は武士の身分にあった。無血革命と言われる明治維新を機に身分を失い、流れ流されていくうちに根津へとたどりつく。

 

 江戸幕府が終わり、開国した日本には西洋文化が流れ込み、「文明開化だ」「自由だ」と世の中は浮き足だっているけれど、底辺の世界に「文明」も「自由」もない。遊郭に囲われる花魁たちと同様、そこに携わる男衆たちも、澱んだぬかるみにもがき苦しんでいる。

 

 定九郎は「ここからは抜け出せない」という諦念を持って水底での生活を受け入れる一方で、「ここから逃げ出したい」という淡い期待、「逃げ出せるのではないか」というささやかな希望を胸の奥に温め続ける。しかし、その思いに付け入れられてドジを踏み、ますます泥沼へとハマッていく。

 

 直木賞の受賞会見か直後のインタビューで木内さんが「現代につながる時代小説を書いていきたい」と答えていたのが印象に残っている。そういう意味では「漂砂のうたう」は、そのまま現代に設定を置き換えても通じる普遍性がある。自分の意思とは関係なしに、ふとした出来事がきっかけで人間が没落するなんて簡単なことだ。しかし、一度、沈み始めたら、もう一度、浮上するのは簡単なことではない。もがき苦しみながら息絶えるまで水底での暮らしを強いられるのだ。

 

 普遍的であることと、陳腐であることは、隣り合わせなのかもしれない。冒頭から定九郎は「何か訳あり」な風情で描かれており、物語の途中で没落武士であることがしれる。その時点で、なんとなく物語の構造が透けてみえてくる。「でも、直木賞受賞するぐらいなんだから、意表をつく仕掛けがあるのではないか」「構造を見抜いた気になった読者を裏切ってくれるのではないか」というほのかな期待も虚しく、予定調和的に、水底に棲むものは水底から抜け出せないまま物語は結末を迎える。

 

 随所に「巧いなぁ」と思う表現や、書きぶりあり。恐らくは明治期の遊郭の様子を丁寧に研究し、再現されているであろうことはよくわかる。でも、期待していただけに、予定調和的すぎて拍子抜けってところでしょうか。まぁ、好みの問題だと思いますが、私にはあんまりしっくり来ませんでした。

 

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