おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「漂砂のうたう」 木内昇

2011年07月04日 | か行の作家

「漂砂のうたう」 木内昇 集英社 11/07/03読了  

 

 物語の結末が近づくにつれ心が波立つ。というか、焦る。「そろそろ、面白くなってくるのかな」「ついに、次のページから盛り上がるのか???」 結局、高揚感無きまま読み終ええて「………もしかして、私、そんなに好きじゃないかも」と思う。

 

 第144回直木賞受賞作。根津遊郭の妓夫台に座る(今風に言えば、キャバクラの黒服のようなもの?)定九郎は、元は武士の身分にあった。無血革命と言われる明治維新を機に身分を失い、流れ流されていくうちに根津へとたどりつく。

 

 江戸幕府が終わり、開国した日本には西洋文化が流れ込み、「文明開化だ」「自由だ」と世の中は浮き足だっているけれど、底辺の世界に「文明」も「自由」もない。遊郭に囲われる花魁たちと同様、そこに携わる男衆たちも、澱んだぬかるみにもがき苦しんでいる。

 

 定九郎は「ここからは抜け出せない」という諦念を持って水底での生活を受け入れる一方で、「ここから逃げ出したい」という淡い期待、「逃げ出せるのではないか」というささやかな希望を胸の奥に温め続ける。しかし、その思いに付け入れられてドジを踏み、ますます泥沼へとハマッていく。

 

 直木賞の受賞会見か直後のインタビューで木内さんが「現代につながる時代小説を書いていきたい」と答えていたのが印象に残っている。そういう意味では「漂砂のうたう」は、そのまま現代に設定を置き換えても通じる普遍性がある。自分の意思とは関係なしに、ふとした出来事がきっかけで人間が没落するなんて簡単なことだ。しかし、一度、沈み始めたら、もう一度、浮上するのは簡単なことではない。もがき苦しみながら息絶えるまで水底での暮らしを強いられるのだ。

 

 普遍的であることと、陳腐であることは、隣り合わせなのかもしれない。冒頭から定九郎は「何か訳あり」な風情で描かれており、物語の途中で没落武士であることがしれる。その時点で、なんとなく物語の構造が透けてみえてくる。「でも、直木賞受賞するぐらいなんだから、意表をつく仕掛けがあるのではないか」「構造を見抜いた気になった読者を裏切ってくれるのではないか」というほのかな期待も虚しく、予定調和的に、水底に棲むものは水底から抜け出せないまま物語は結末を迎える。

 

 随所に「巧いなぁ」と思う表現や、書きぶりあり。恐らくは明治期の遊郭の様子を丁寧に研究し、再現されているであろうことはよくわかる。でも、期待していただけに、予定調和的すぎて拍子抜けってところでしょうか。まぁ、好みの問題だと思いますが、私にはあんまりしっくり来ませんでした。

 



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