おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「放課後の音符」 山田詠美

2011年02月25日 | や行の作家
「放課後の音符」 山田詠美著 新潮社 2011/02/25読了 

 イマドキの高校生の生態はよく知らないが、私の世代からしてみると、ちょっと大人びた(というか、背伸びした)女子高生の恋物語短編集。高校生って、こんなに恋愛について悟りきっているものでしたっけ???  私なんて、この年齢になっても未だに悟っていないけどなぁ…。

と、思っていたのですが、最後のページで腑に落ちました。この短編集は1988~89年にマガジンハウスの「olive」に連載されていたもの。つまり、「セブンティーンなんて読んでいるお子ちゃまなんかには付き合っていられないわ」などと内心思っていたであろう当時のolive少女たちの選民思想を満たすべく、大人な恋のテキストとしてのストーリーだったわけですね。

それにしても「olive」懐かし~い、と思ってwikiで調べてみたら、いつの間にか休刊してました。こんな時、「ああ、年とったなぁ」と感じてしまいます。

年賀状に、時々、「気分は未だに18歳」などと書いている私ですが、さすがに、高校生主人公の小説はキツいなぁ。もちろん、読みながら、懐かしい気持ちが胸に広がり、すっかり忘れていた友だちの顔がフッと思い浮かんだりはしましたが、でも、登場人物に自分自身を投影するには、ちょっとオバサンになりすぎちゃったかな。

ちなみに、高校生の私は「月刊タイガース」は読んでいましたが、「セブンティーン」も「olive」 も読んでいませんでした。

「袋小路の男」 絲山秋子

2011年02月24日 | あ行の作家
「袋小路の男」 絲山秋子著 講談社文庫 2011/02/23 読了  

 すっかり絲山秋子にハマっています。 「袋小路の男」は川端康成文学賞受賞作で、各種読書ブログでも評判悪くないようですが…私としては、イマイチ輪郭がはっきりと見えない、つかみ所のない作品に思えました。

 表題作である「袋小路の男」は大谷日向子の小田切孝に対する12年間の片思いの物語小田切孝とは指1本触れることもなく、それって「パシリ?」と聞きたくなるような、都合のいい使われ方をしても、日向子は喜々として、小田切の近くにいる時間を愛おしむ。割り勘にしたお釣りを受け取った時に、十円玉がほの暖かい。そんなふうにしか小田切の体温を感じることができなくても、日向子は小田切を思い続ける。

 絲山秋子らしいのは、小田切への一途な純愛の裏で、日向子が別の男と浮気していること。小田切とは指さえ触れたことがないのに、投稿マニアの男と付き合って、セックスシーンを写真撮影してネット投稿したりしている。純愛とアブノーマルの両立?それでもなお、純愛は純愛であるという確信(開き直り)が面白い。

 それに続く「小田切孝の言い分」というストーリーは「袋小路の男」と対をなす作品。「袋小路の男」が日向子の視点から展開する物語で有るのに対して、「小田切孝の言い分」は第三者の視点から2人を俯瞰して見ているような書き方。なるほど、小田切には小田切なりに、日向子に指一本触れない理由(事情?)があり、そうした所与の条件の中で、小田切なりに日向子の気持ちを汲んでいたらしいことがわかってくる。なるほど、読者の視点をどこに持ってくるかによって、登場人物の誰に思い入れするように導くのか、誰を批判的な目で見るように仕向けるのかというのは、意外と簡単なのかもしれない。
 
 実験的な意味ではなかなか面白い作品はだと思います。でも、物語としての強烈な吸引力は感じなかった。

 その理由を私なりに考えてみて、結局のところ、「その土地の匂い、空気が伝わってこない」ということに尽きるのではないか―という結論に至りました。

 絲山作品には、彼女が現在・居住する高崎市やその周辺を舞台にしたものが多い。他にも、会社員時代の赴任先である福岡や、東京で住んでいた蒲田など。ただ、男と女がいて、純愛を貫いたり、友情を育んだりすれば物語になるわけではない。登場人物はどこかに住んでいて、その土地に愛着を持ち、或いは、何かの事情で離れられなくて、生活は土地と結びついている。そういう生活感があってこそ、純愛も友情もリアリティを帯びてくる。そして、そういう作品の方が、グッと読み手の心にも迫ってくる。

 それに対して「袋小路の男」「小田切孝の言い分」は、つかみどころのない東京の繁華街を舞台にしていて、空気感が伝わってこない。少なくとも、作者自身のその土地への思い入れは感じられない。だから、物語に引きずり込まれそびれたまま読み終わってしまった。直前に読んだ「ばかもの」の衝撃度合いに比べると、ソツはないが凡庸という印象。

 併録されている「アーリオ・オーリオ」は、叔父と姪の心の交流の物語。イマドキの女子中学生って、自分の叔父さんと文通するのを楽しんだりするのだろうか―という素朴な疑問で躓き、消化不良のまま読了。やはり、イマイチ。


「ばかもの」 絲山秋子

2011年02月24日 | あ行の作家
「ばかもの」 絲山秋子著 集英社文庫 2011/02/23読了  

 完全にノックアウトされた気分。 絲山秋子はスゴすぎる。

 フィギュアの高橋大輔選手のステップを見ていると、足がムズムズしてくる。スウェットを着て、毛布を被ってだらしない格好でテレビを見ているというのに、心は向こう側の世界に引きずり込まれ、一緒になってリズムを刻んでしまう。できることならば、踊り出したいような気分になる。私にとっては、絲山秋子の文章もそんな感じなのだ。複雑で、斬新で、最高に心地よいリズム。私の心も動き出す。いつまでも、いつまでも、鳴り止まないでほしい音楽。

 といっても、絲山秋子の文章は、いわゆる耽美主義的なものではない。なにしろ「ばかもの」の最初の一文は「やりゃーいーんだろー、やりゃー」という、全く、お上品とは言えないセリフだ。何をやるのかと思えば、かなりドギツイ、セックスシーン。自由奔放な額子が、年下の恋人・ヒデを言葉と態度でいたぶり、それでも、ヒデは額子に傅き、尽くそうとする。 

 物語の中に「ばかもの」というセリフが2回出てくる。1度は額子がヒデに対して、2度目はヒデが額子に対して発する言葉だ。確かに、ヒデも額子もとてつもない「ばかもの」だ。弱く、脆く、愚かだ。しかし、弱く、脆く、愚かなのは、額子とヒデだけではない。冒頭のセックスシーンは、人間の弱さ、脆さ、愚かさを象徴しているようだ。だから、ドギツイ描写のようでいて、全く、エロではない。結局、人間は、誰かと寄り添わずには生きていけないし、「永遠」なんてことは誰も保証してくれないけれど、やっぱり、永遠を信じずにはいられないのだ。

 その後、「結婚することにした」という額子に、ヒデは一方的に捨てられる。理不尽な別れを受け入れることができず、次第に酒に溺れていくヒデ。自らが選んだ結婚という選択に後ろめたさを抱き続け、不幸な事故を契機に、結婚に終止符を打った額子。

 その2人が地獄の苦しみを経て、再会する場面が美しい。もちろん、ここでも、嘆美主義的な美しさはない。絲山秋子は、決して、額子に甘い言葉を語らせることはない。額子は最後の最後まで、ちょっと乱暴で、ぶっきらぼうだ。それでも、愛する人に裏切られ、愛する人を裏切り、傷ついた2人が、やっぱり、寄り添わずには生きていけないことを悟り、「永遠」を信じようとする。弱く、脆い人間は、強く、逞しくもあるのだ。

 最後に、ヒデが額子に言う「ばかもの」という言葉の暖かさが、胸にジンワリと残る。美しい音楽の余韻を楽しむように、最後のページを閉じてしまうのがもったいないくらいに絲山秋子の文章の残響を楽しんだ。

 
  

「エバーグリーン」 豊島ミホ

2011年02月23日 | た行の作家
「エバーグリーン」 豊島ミホ著 双葉社 2011/02/22読了  

 初・豊島ミホ作品。

 アヤコとシン君の2人がそれぞれの視点で交互にストーリーを紡いでいく。

 中学生のアヤコはある日、シン君が好きだと気付く。ああ、そうだった。好きになるんじゃない。好きだって、気付くんだ。そこには、理屈も、理由も何もない。ただ、好きなだけ。―そんな、甘酸っぱい気持ちがよみがえってくるような幕開け。

 アヤコとシン君は恋人同士にはならなかった。でも、他の友だちには通じることのない特別な結びつきが2人にはあった。シン君の輝きを宝物のように愛おしむアヤコと、アヤコの応援を背に「自分は飛べる」と信じて疑わないシン君。卒業式の日に10年後の3月14日の再会を約束する。

 でも、現実は残酷だ。「何者にでもなれる」と勘違いしていた中学生も、18歳になり、20歳になり、「何者かになる」ことがどれほど難しいことかを知る。それぞれに心の葛藤をくぐり抜け、現実と折り合いを付けながら、25歳の3月14日に向けて、1歩1歩歩みを進めていく。

 少々まだらっこしく感じるほどに比喩表現がいっばい出てくるのが少々ハナにつきましたが、でも、甘く、酸っぱく、切なく、小ザッパリとまとまった感じで、心地よい読後感でした。

 若い主人公の小説を読むと、しばしば「オバサンはもう、15歳の頃のことも、25歳の頃のことも思い出せないよ」とちょっとだけお手上げ気分になったりします。でも、今回に関しては「25歳で人生折り合い付けたつもりになるのは早いよ。もっともっとツライことも、もっともっと面白いこともこれからあるのに~」と、逆優越気分。

 といっても、まだ若い作家さんです。これから、年齢を重ねていくにつれて、もっともっと魅力的な作品を書かれていくのを楽しみにしたいなぁと思いました。



「小森生活向上クラブ」 室積光

2011年02月22日 | ま行の作家
「小森生活向上クラブ」 室積光著 双葉文庫 2011/02/20読了  

 救いもなく、とりとめもない―なんか、そんな感じのストーリーでした。

以前、読んだ同じ作者の「ドスコイ警備保障」はユーモアがあって、元気が出てくる物語でした。文庫の表紙にはちょっと疲れたサラリーマン風の古田新太(事後的に知りましたが、この物語は古田新太を主演に映画化されています)が茫洋と立っている写真が載っていて、勝手に、ほんわか系又は脱力系をイメージして読んでいたら、とんでもない展開が待っていました。

疲れた中年サラリーマン小森課長は、ある日、電車の中で痴漢扱いされる。もちろん、触ったわけではなく、混雑した電車が揺れた拍子にちょっとぶつかった程度で、すぐにカラダをズラしたものの、「やだわ、そんなに若い女を触りたいのかしら」「信じられない」とネチネチと言われ、なぜか、反論できないまま逃げるように電車を降りてしまった。ちなみに、小森課長曰く、間違っても痴漢などしたくないほどに不細工で、つけたあだ名は「ロバ女」。

その後、ロバ女が痴漢でっちあげをしている場面を何度も目撃し、小森課長は「こいつは「毎日、少しずつみんなを不幸にしているこんな女は絶対に許せない」と考えるようになる。そして、ある日、ついに駅のホームでロバ女の膝の裏を蹴って電車入線間際のホームから突き落として殺してしまう。「俺はロバ女のせいでイヤな思いをするであろう人を救った」と自分の中で殺人を正当化すると、妙に、清清とした気分になり、退屈だった毎日が刺激的で、つかみどころの無かった部下との関係が好転し、家族関係も良好になる。

そこから、小森課長のとめどない暴走が始まる。

もちろん、人間誰だって、生きていく中では、「殺してやりたい」とまでは思わないにしても、「こいつ、いなくなりゃいいのに」ぐらいの気持ちになることは一度や二度、もしかしたら、十度ぐらいはあるかもしれない。でも、99.9%の人はそういう気持ちを上手く処理して、ちゃんと思いとどまって全うな人生を歩むわけです。

で、この小説は、もしかしたら99.9%の内なる願望を代行するつもりだったのかもしれない。でも、私には残念ながら、そういうブラック・ユーモアを解する心がありませんでした。人を殺すこと自体をエンタメにしちゃった結果、ただただ後味の悪さだけが残ったという感じ。できれば、最後に「な~んちゃって。以上、全て、小森課長の妄想でした」ぐらいの陳腐に終わり方のほうが、まだ救いがあったような気がします。

「風味絶佳」  山田詠美

2011年02月17日 | や行の作家
「風味絶佳」 山田詠美著 文藝春秋社 2011/02/16読了  
 
 男子諸君、この小説は大変、キケンです。家に帰ってゴハンを食べるのが怖くなります!―と、とりあえず警告を発したくなるぐらい、できれば、男性諸氏には読まないでもらいたい。

 表題作である「風味絶佳」を含む6篇からなる短編集。私は、2番目に収録されている「夕餉」に打ちのめされた。愛する男の帰りを待ちながら、料理をする女の一人語り形式の小説。ひれ伏したいぐらいの気持ちになった。それは、「敬意」故ではなく、「恐怖」故にです。

 なんで山田詠美は、私の心のうちをここまで見透かしているのだろうか、ページを1枚繰るごとに、1枚ずつ身ぐるみを剥がされていくような、薄ら寒い気持ちに支配されていく。本当は「お願いだから、もうそれ以上は言わないで」と懇願したい。でも、その一方で、あまりにも巧みな話術に載せられて、最後は、もう自分で脱いじゃえ~と開き直りたくもなる。

 「夕餉」は女が料理を媒介にして男を支配しようとする物語。冒頭に収録されている「間食」は、「夕餉」とは全く異なる登場人物・設定だが、男が女の支配から逃れて息抜きする快感を描いていて、ちょうど対になっているようだ。「誰かのために料理する」という行為はエロチックでエゴイスティックだ。でも、それを受け入れて、共に食事をするということが、家族になるということなのかもしれない。
 
 実は、これまでずっと食わずギライ(読まずギライ?)を通してきて、山田詠美を読むのはこれが初めて。でも、若い頃に出会っていても、その味わいを堪能することはできなかったかもしれないし、心が弱っている時に読んだら負けてしまっていたかもしれない。この年齢になったからこそ、その醍醐味がわかるような気がする。まさに、プロフェッショナルの仕事でした。

 表題作である「風味絶佳」。どこかで聞いたことあるなぁ~と思っていたら、2006年に映画化されていたのですね。主演は柳楽優弥と沢尻エリカ。今にして思えば、なかなか、キワドく、話題性たっぷり配役であります。大学進学を拒否してガソリンスタンドで働くことにした青年。「とりあえず、大学に行っておけ」という両親を説得してくれたのは、米軍基地の近くで軍人相手の小さなバーを営む祖母。孫に「グランマ」と呼ぶように強要するおばぁちゃん役の夏木マリは絶妙のキャストだけど、柳楽&沢尻で、一挙に、お子ちゃま映画化したのではないか(見てないけど…)と、いらぬ心配をしてしまいました。

 ちなみに「風味絶佳」は黄色い箱の森永ミルクキャラメルのキャッチコピーです。子どもの頃は箱の文字なんて気にしていなかったし、大人になってから森永キャラメルなんて買わなくなってしまったので、そんなステキなコピーが書かれているなんて、今まで、全く知りませんでした。めちゃめちゃカッコイイ言葉。怪しい英単語をダラダラと並べるよりも、簡にして要。そして美しい。「風味絶佳」という言葉そのものが、甘く味わい深い。


「義経千本桜」 @ 国立劇場・2月文楽公演

2011年02月16日 | 文楽のこと。
義経千本桜 @ 国立劇場・文楽2月公演

 「演目は義経千本桜」と聞いた瞬間から、勝手に「道行&河連法眼館」と思い込んでいました。「渡海屋大物浦&道行」であることに気付いたのは、ほんの1週間ぐらい前。「空飛ぶ勘十郎さまを見れる~♪」と信じ込んでウキウキしていたので、ちょっとシュンとしておりました。

 でも、「渡海屋大物浦」は、ストーリーがしっかりしていて、滅び行くものの哀れを感じさせる見応えのある段。派手なアクションで観客のハートを鷲掴みにする「河連法眼館」とは、また違った魅力いっぱいでなかなか楽しめました。

 壇ノ浦の戦いで死んだハズの平知盛が実は生きていて、船宿の亭主に身をやつして、義経がやってくるのを手ぐすねをひいて待ち構えている。天皇の乳母が船宿の女将、天皇は一人娘になりすましているというのだから、平家はなかなかの役者揃いということか。あっ、でも、結局は義経に全て見抜かれているのだから、やっぱり大した役者じゃないのかもしれないけれど。

 やっぱり、こういう正統派のイケてるお侍さんは、玉女さんのはまり役ですね。しかし、途中、海渡屋銀平(実は知盛)が、うだうだと独白をする場面があって、その場面は眠気には勝てずにしばし沈没。切場で、再び、覚醒。やっぱり、私は燕三さんの三味線が大好き。平家滅亡の場面に、燕三さんの三味線のどっしりと重た~い響きはベストマッチです。聴き惚れました。

 最後に知盛が碇を身体に結びつけて自害する場面で幕を閉じるのですが、ここが、まるでスローモーションで海に落ちていくような演出なのです。コレって、映像技術の影響ってことなのでしょうか? もしも、ムービーカメラが無い江戸時代からこうした演出をしていたのだとしたら、すごく斬新だったんだろうなぁ…などと考えました。

 そして、最後の「道行」。これは、もう、どんなに言葉を尽くしても足りません。艶やかで、楽しく、美しく。「渡海屋」を見終わった時点で、結構、エネルギーを使い果たした気分だったのですが…やっぱり、甘いものは別腹なんですね。

 簑師匠の静御前が登場したとたんに、ウットリした気分に。「菅原伝授」の桜丸もステキでしたが、でも、やっぱり、簑師匠の遣われる女の子って別格なんですよね。らぶな勘十郎さまが遣われている忠信の存在をしばし忘れてしまうほどに、静にクギ付けになってしまいました。もちろん、お楽しみの狐・忠信の早替わりは、何度見ても楽しいし、勘十郎さまの狐ちゃんは、本当に生きているよう。子どもだましに100回騙されたいぐらい、この演目が好き!

 1日の締めくくりが、こういう後味のよろしい演目だと、とっても幸せな気分で「明日からも頑張ろうっ」と思えてきます。
 

「菅原伝授手習鑑」 @国立劇場・文楽2月公演

2011年02月15日 | 文楽のこと。
菅原伝授手習鑑 @ 国立劇場・文楽2月公演

 おなじみの寺子屋ではなく、今回は車曳き&桜丸切腹の段を中心とする場面。以前、素浄瑠璃で住師匠の桜丸切腹の段を拝聴したことがあります。住師匠自身も、大変、お好きな場面とういうことで、魂のこもった大熱演でしたが、「やっぱり、私は人形浄瑠璃が好きなんだ」と今回、再認識しました。もちろん、床が良いことが大前提なのですが、でも、人形があってこそ心ときめくのです。

 この演目の私的MIPは「車曳き」で梅王の芳穂さん! 病気休演の始大夫さんのピンチヒッターとしてのご出演でしたが、ピンチヒッターとは思えぬ堂にいった語りでした。ふくよかで、伸びやかな声が、私を物語の世界に引きずり込んでくれるのです。以前から、芳穂さんが滑稽な場面を語られるのが、本当に、楽しくて、楽しくて大好きだったのですが、笑いの場面ではなくても、とってもステキでした。何よりも、芳穂さんご自身が、物語の世界にどっぷりと入り込んで語っていらっしゃるから、安心して身を任せていられる―そんな感じです。

 そして「私的ベストドレッサー賞は玉也さんで決まり!」と、途中まで思っていました。「車曳き」の場面、松王を遣われた玉也さんの袴は、さわやかなグリーンと白のチェック。白地に鮮やかな松の刺繍をほどこした松王の衣装とのマッチングを考えていらっしゃるのだと思います。さらには、暴れん坊・松王のエネルギーが伝わってくるようでもありました。以前から、玉也さんのおしゃれな袴には密かに注目し続けているのですが、今回も、相変わらずステキなセンスでした。もちろん、お衣装だけではなく、メリハリの効いた松王の動きが小気味よく、一気に、ワクワクウキウキとハイな気分が盛り上がってきます。

 でも、最後の場面で簑師匠の桜丸が登場した時のあまりの美しさに、松王へのトキメキもちょっとだけクールダウン。簑師匠のお衣装は、淡く、落ち着いた紫の色調で統一。親や妻を残して死にゆくものの悲しみを象徴する一方で、散りゆく花の最後の艶やかさもあり、桜丸がそこに立っているだけで切なく、人生の不条理を感じさせられる。住師匠の語りも、素浄瑠璃で聴いた時以上に、心に響いて来ました。住師匠&簑師匠で「桜丸切腹の段」とは、なんとも有り難く・贅沢な公演でした。

 親・白大夫の70歳の誕生日の場面も楽しかったです。3兄弟の妻たち千代、春、八重の嫁トークが見所・聴き所。末っ子・桜丸の嫁で何をやってもドンくさい八重は可愛らしい。でも、それ以上に、勘弥さんの春の横顔の美しさ、呼吸している生々しさにキュンとなってしまいました。

 でも、ここで気になったのは、八重は振り袖に、赤い髪飾りで、まるで生娘のような装いなのです。そもそも、松王・梅王・桜丸も三つ子なのに、なぜか、松王はどっしりとした長兄らしく、桜丸は初々しい末弟の風情がありました。三つ子の妻たちであれば、年齢はそれほど離れていないであろうに、嫁女たちも、松王の妻・千代が叔母さま風なのに対して、八重はおきゃんな娘のようで、妙に年齢差を感じさせる演出なのです。でも、そのココロがどこにあるのかは、よくわかりませんでした。

 と、全般的には大満足の菅原伝授手習鑑でしたが、冒頭の「道行」はイマイチでした。富助さん率いる華やかな三味線軍団と、呂勢さん、咲甫さんの伸びやかな声まではよかったのですが…そのお2人以下の大夫さんのあまりにバラバラとした不協和音で、少々、出鼻をくじかれたような気分でした。

「びんぼう自慢」 古今亭志ん生

2011年02月13日 | か行の作家
「びんぼう自慢」 古今亭志ん生 筑摩文庫

 1973年に没した落語の大名跡・志ん生の自伝。とてつもなくパンクな生き様である。関東大震災、世間の人たちが家財道具を持ち出し、肉親の安否を確かめようと必死になっている時に「余震で酒の甕が倒れて地面に吸い込まれてはもったいない」と酒屋に走る。酒屋からは「商売どころじゃないから好きにしてくれ」と言われて飲んだ酒が一升五合。太平洋戦争中に「上海に行けば酒はいくらでもある」の言葉に釣られて慰問団に加わり、現地では防寒のためにおかみさんが持たしてくれた股引きを売ってまで酒を飲む。中国で終戦を迎え、寒さと、飢えと、日本に帰れる見通しがつかない絶望感から自殺未遂―。それも、ウオッカのボトルを一気に6本を空けたというからタダモノではない。

 パンクでなければ芸人として大成しない、という訳ではないのでしょうが… 自己PRのためにこまめに「つぶやいて」いる最近の芸人さんとはスケールが違ってしょうがないのかもしれないなぁなどと思ってしまいました。
 
 時代が違うと言えばそれまでですが、飲む・打つ・買うの「三道楽免許皆伝」を自認し、そのせいでびんぼうを極めるほどに徹底してやったそうだ。廓遊びを知り尽くした芸人が演る廓話、びんぼうのどん底を見た芸人がやる長屋話に宿る迫真さは、今の芸人がどうあがいても手に入れることができないものだろう。

 時間は流れていくし、懐古主義にしがみついているだけでは新しいものは生まれない。そういう環境の中で、古典芸能を保存していくことの難しさを改めて考えさせられる。演者だけでなく、聴く側も郭や長屋など知らないのだから。志ん生には天賦の才能があり、他人には見せぬところで並外れた努力を重ねたのでしょうが…それでも、やっぱり「時代」というものがあったのだと思います。
 ところで、スーパー・バンクな生き様を通した志ん生師も、褒賞・勲章をもらって感激している。ここもまた、なんとなく、昭和だなぁという感じがしました。


「茗荷谷の猫」 木内昇

2011年02月09日 | か行の作家
「茗荷谷の猫」 木内昇  平凡社 11/02/08読了 

 つい先日「漂砂のうたう」で直木賞を受賞した木内昇の連作短編。 

遙か昔のことではありますが…大学生の頃、よくミニシアターで単館ものの映画を見ていました。ハリウッド映画なんてほとんどみなかったけれど、古いフランス映画のリバイバル上映なんかにもよく行きました。周りに映画好きの友人が多かった影響もあるのかもしれませんが、なんか、そういうのが、ちょっと、おしゃれでカッコよかったんですよね。

 で「茗荷谷の猫」は、まさに、単館上映ものの良質でツウ好みな映画―って感じの作品です。大学生の私は無理して背伸びしていましたが、でも、すっかりオバサンになった今では開き直って言えます。「私、別にツウじゃないし。私には、ちょっと、難しすぎてスカッとしませんでした」という感じです。

 表題作の「茗荷谷の猫」を含む連作短編9篇。幕末に武士の身分を捨て新種の桜を生むことに人生を賭けた男を描いた「染井の桜」を皮切りに、少しずつ、時代をずらしながら、最後の「スペインタイルの家」で昭和の高度経済成長期の胎動が聞こえるところにたどり着く。茗荷谷、品川、池袋など東京の町をめぐりつつ、江戸から昭和までの時空の旅をするような構成となっています。

 連作短編と言っても、一つ一つの物語は独立したものです。登場人物も違えば、時代もズレているのですが、ところどころで、緩やかにストーリーが繋がっていて、3つぐらい先の物語になって「ああ、そういうことだったのか」と、さっき読んで全く意味がわかずに胸のうちでもやもやしていたものが落ち着いてくるというような仕掛けになっています。

 といわけで、とってもツウっぽいの作りの本なのですが、一篇一篇の物語をとってみると、フィナーレらしい盛り上がりのないまま、唐突にプツリとストーリーが途切れてしまったり、登場人物の謎めいたところが謎めいたまま「おっしまい!」となっていて、「えっ!どういうこと!?」「それで、その後、この人はどうなったの???」と激しく突っ込みをいれたくなるようなものが多くて、スッキリしません。

 私は、連続ドラマで「続きは来週!」と1週間待たされることも苦手(だから、基本的に連続ドラマは見ません)。なので「おあずけ!系」の作品はあんまり好きになれないのかもしれません。
 
ちなみに、木内さん、直木賞受賞直後の朝日新聞のインタビューで「読者に自由に遊び、楽しんでもらえるような余白を残すことを常に意識している」と答えていました。その余白を楽しめなかった、ツウじゃない私です。

 でも、まだ、好きか・好きじゃないか結論を出すのはやめておきます。直木賞の「漂砂はうたう」はダメ男を描いた作品らしいので、いずれ読んでみたいと思います。