おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「海の仙人」 絲山秋子

2011年05月28日 | あ行の作家
「海の仙人」 絲山秋子著  新潮文庫  

 宝くじに当たり、会社を辞めて、都会を離れてのんびりと暮らす河野という男の物語。気ままな暮らしに、ふらりと居候がやってくる。「ファンタシジー」という名の神サマ。オッサンキャラで、願いを叶えてくれるでもなく、これといって役に立つでもない。

 正直なところ、神様とか、妖精とかが出てくる物語はあまり好きではない。「そんなものはこの世に存在するハズはない」と断言する気はないが、少なくとも、私は見たことがない。現実味が無いストーリーには入り込んでいけないから、高見から見下ろすような気分で読んでしまう。というわけで、中年向けふぁんたじ~ノベルのようなこの物語も、最初は「私にはついて行けんなぁ」という気分でいた。

 ところが、気がつけば、ぐいぐいと物語に引き寄せられていく。人をおちょくったようなファンタジーという名前の神サマは、実は、鏡に映った自分なのだ。ページをめくるたびに、どんどん気になってくる。

しばらく前に「14歳からの哲学」という本が流行ったことがあったが(読んでないけど…)、これは、さながら「40歳からの哲学」といった趣向なのかもしれない。河野は宝くじ当て、仕事を辞めて好きな海が見える街に引っ越した。お金には困っていない。新しい街で友だちもできた。河野に恋して、遠い街まで追いかけてくる女性も2人もいる。全く、何不自由もない生活なのに河野は満たされてはいない。

 お金があっても、会社員人生に終止符を打っても、煩わしい人付き合いから逃れても、人間は「自分自身」からだけは逃れることができない―自分に向き合うことなしには、先に進むことができないということを河野に思い出させるために、ファンタジーという怪しい神サマは存在している。でも、ファンタジーは河野自身の中に存在しているし、それは、まさに、ファンタジーのメタファーなのだ ― とファンタジーを読まない私もちょっとだけファンタジーの意味を理解する。

 大切な人と死別したり、重い病気に罹ったりするのが、決して非現実的ではない年齢になって、人はファンタジーを欲するのかもしれない。


「蔦燃」 高樹のぶ子

2011年05月14日 | た行の作家
「蔦燃」 高樹のぶ子著  講談社 

 こういう小説に対するニーズってあるんだろうか…と素朴な疑問が湧いてくるような作品でした。勝手なイメージで言うと、「昼ドラの原作?」的ストーリーなのです。「恵まれた家庭の幸福な主婦には、誰も知らないスゴイ過去が…」みたいな感じ。

 主婦は結婚間もない頃に、夫の腹違いの弟にストーカーされる。実家に帰省した時も、弟につけ回され、無理矢理ホテルに連れ込まれてコトに及んでしまう。しかし、そこで、真実の愛に目覚め(って展開が安っぽいけど)て、どんどん弟との不倫にのめり込んでいく。

 その弟は不倫の子として生まれた。「日陰者」としての生きづらさ、悲しみから逃れるために、長年、母親と近親相姦の関係に陥っていた。弟にとって、腹違いの兄の嫁と恋に落ちることは、母親との爛れた関係からの逃避であり、「正統」の家系に対する復讐でもあったのだ。そして、ある日、主婦は、夫の子どもなのか、不倫相手の子どもなのかわからない妊娠に気付く――。 う~ん、どう考えても昼ドラ。

 でも、小説の中では、不倫場面もそれほどエログロな描写とはいえないし、どういうわけか、夫(兄)は超鈍感で妻の不倫に微塵も気付くそぶりもないので、ハラハラドキドキ要素もほぼゼロ。とすると、昼ドラ好きの人にとっては、刺激が少なすぎてつまらないと思うし、活字好きの人には、いかにも昼ドラチックな安っぽさが鼻についてしまうというわけで、どちらも極めて中途半端。

 ま、真実の愛の物語というよりも、真実の愛に目覚めたけれど、それはそれ、これはこれとして、しっかりと経済的・社会的に安定した幸せを確保していくという女のしたたかさを描いた物語ってとこですかね。

「赤目四十八瀧心中未遂」 車谷長吉

2011年05月08日 | か行の作家
「赤目四十八瀧心中未遂」 車谷長吉著 文藝春秋社 2011/05/07読了 

 朝日新聞の土曜日の別刷りbeの中の人生相談はなかなか楽しい。人生せいぜい80年(まぁ、時々100歳ぐらいまで生きちゃったりすることもありますが…)、誰も彼も、燃やされれば灰と骨になってしまうのだから、肩の力を抜いて、開き直っちゃおうよ―。そんなコンセプトに読者は癒やされるのだ。4-5人の回答者がローテーションで登場するのだが、中でも、断トツに突き抜けてしまっているのが車谷長吉である。

 ある時、中学か高校の教師からの相談で「生徒のことを好きになってしまった。でも、家庭も大切だし、どうしたらいいのでしょう」というものがあった。それに対する車谷長吉氏の回答が「その生徒とデキてしまいなさい。落ちるところまで落ちないから悩むのです。落ちるところまで落ちれば、そこから何か見えてくるものがあるのです」って、朝日新聞紙上で生徒にお手つき・不倫推奨を堂々としてしまう大胆さが痛快。その後、教師氏が長吉っあんのアドバイスに従ったかどうか定かではないが…結局のところ、誰に相談したところで、人生、最後は自分で決めなければならないのだということを長吉っあんは伝えたかったのかもしれない。

 さて「赤目四十八瀧心中未遂」も、落ちるところまで落ちた男の物語である。東京でサラリーマンをしながら、小説を書いていた男が、ふとしたきっかけで会社を辞め、転落人生を歩み始める。健康で文化的な生活から、不健康で、貧しく、文化も教養も無用の世界に落ちていく。病気で死んだ豚の臓物をさばき、安い串焼き用にひたすら串に刺す仕事をしながら、人生の一日一日を漫然と消化するだけの毎日。そこで、濁った池に咲く蓮の花のような女性に巡り会う。

 「答え」は最初から分かっている。小説のタイトルは「心中未遂」なのだ。2人は狂おしく互いを求め、「死ぬしかない」と決断して、死の道行きに出る。「生きるも地獄」と分かっていても、結局、2人とも生きることを選ぶ。

 「死」の瀬戸際まで行って見えてくる、どうしようもないほどの「生」への渇望こそ人間の本能なのだろう。「死ぬ気になったら、どんなつらいことにも耐えられる」などというきれい事ではない。人生には耐えがたいほどの辛いできごとが待ち構えているし、生きながら地獄を見ている人もたくさんいるだろう。それでも、やっぱり人間は生きたいのだ。

5年掛かりでようやく読み終えました。

本を購入してからはまだ1カ月も経っていないし、読み始めてからはほんの数日で読了しましたが、友人にこの本を薦められたのは…多分5年以上前。当時の私にとっては「心中モノ」というだけで、なんとなく忌まわしく、ちょっと心理的なハードルが高かった。

 文楽を見るようになってからは、「心中モノ」に対するアレルギーはだいぶ治まったのですが、1年ほど前に電子書籍で「赤目四十八瀧」を購入し、再び、つまづきました。電子書籍、フォントもページ繰りも工夫されているのはすごくよくわかりましたが、私は、全然、集中して読めませんでした。ページをクリックした瞬間、「あれ、今のページって、何が書いてあったっけ?」という気分になり、まるで頭に残っていないのです。紙の本を買って、ようやく、落ち着いた気分で読むことができました。やっぱり私は、活字派みたいです。