おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「心星ひとつ」 高田郁

2011年09月30日 | た行の作家

「心星ひとつ」 高田郁著 2011/09/29 読了  

 

「料理こそが仕合わせの道」と心に決めた上方出身の女料理人・澪の江戸での奮闘ぶりを描いた「みをつくし料理帖シリーズ」最新刊。このシリーズ、三歩進んで二歩下がるどころか、三歩進んで三歩下がってしまうぐらいの遅々とした展開で「最近、なんかマンネリ化しているかも」と思っていたのですが、久々に物語に動きアリ。主人公の澪が決断を迫られる出来事がいくつかあって、「それで、それで、どうなっちゃうの???」というページをめくる楽しみがありました。

 

 とはいえ、予想通り、それぞれの決断の場面では、読者が「澪なら、こうするハズだ」「きっと、それが澪の生き方なんだ」と思う通りの選択を澪はするわけです。そして真っ正直で、料理一筋の澪が、いかにも澪らしい決断をすることにホッとする半面、なんでそんな不器用なの? もうちょっと自分がトクするように、もっと自分の幸せを優先させてもいいじゃない…と、もどかしい思いになる。

 

タイトルの「心星ひとつ」の心星とは北極星のこと。澪がただひたすらに自分の信じる道を行くということを暗示している。10年前の私なら澪の心意気に拍手を送るけれど、でも、今は頑張り過ぎる澪がちょっと切ない。

 

 ストーリーの中に出てきた「大根の油焼き」、お手軽なのに美味しそう。マネして作ってみたくなる一品。


「県庁おもてなし課」 有川浩

2011年09月29日 | あ行の作家

「県庁おもてなし課」 有川浩著 角川書店11/09/27読了 

 

これは…もしや…有川浩の新境地ではないか!? 「軍事オタク系」「ベタ甘純愛系」に加えて、「政策小説」が有川浩の3本目の柱になるかも…と感じさせる思い入れと気合いが伝わってくる1冊。サクサク読めるページターナーなのに、しっかりとした読み応えもあり。そして、読み終わると、ちょっと元気になれます。

 

舞台は高知県庁。「観光立県目指して、おもてなしの心で、県外からの観光客をお迎えしよう」― というかけ声のもとに作られた「おもてなし課」。しかし、いったいどうすれば観光客が来てくれるのか。それが思いつけないから、全国の史跡や温泉は観光客の減少に打つ手もなく苦しんでいるのだ。

 

で、「おもてなし課」が最初に取り組んだのが、高知県ゆかりの有名人を「観光特使」に任命して、知り合いに名刺を配って、高知県の存在を宣伝してもらうこと。おもてなし課の掛水史貴クンは、高知県出身の売れっ子作家・吉門喬介に「観光特使」への就任依頼の電話を掛けて、いきなり「他の自治体もみんなやっていることのマネだよね」「特使になってもいいけど、そんなことして、いったいどういう効果があるの?」と厳しいツッコミを入れられる。 

 

確かにね。効果ないです。私も「愛媛いよかん大使」とか「弐千円札大使」とかの名刺見せてもらったことあります。名刺交換の時の「実は、私こんなこともやっておりまして…」というちょっとした世間話の糸口になったり、飲み会の席の小ネタにはなるけれど、でも、そんな名刺もらってもしょうがないし…もらったところで愛媛に行こう、沖縄に行こう(弐千円札は沖縄県の首里城守礼門がモチーフ)とは思わないよなぁ。

 

 しかし、吉門喬介の厳しいツッコミは、出身地への熱い熱い思い入れがあってこそ。掛水クンは吉門喬介の導き(というか、仕掛け?)によって、元県庁職員の観光コンサルタント・清遠と出会い、吉門喬介が「おもてなし課」の奮闘ぶりを小説に仕立てるというサイドストーリーと絡み合いながら、高知県まるごとレジャーランド化に向けて少しずつ前進していくという物語。

 

 「おもてなし課」のお役所仕事っぷりは、「さもありなん」という感じで、かなり笑えます。吉門喬介に観光特使就任を依頼しておきながら、特使の名刺が吉門の手に届いたのは1カ月後。その間、「おもてなし課」なりにああでもない、こうでもないの検討や折衝を重ねていたわけだが、吉門からは「あのね、民間では、1カ月も放置されると、あの話は流れちゃったのかな―と思うわけ」などと嫌みを言われ、ようやく「役所の常識は世間の非常識」であることに気付く。

 

 ちなみに、高知県庁・おもてなし課は実在する。掛水貴史くんは架空の人物だが、有川浩に観光特使就任を依頼し、名刺を1カ月待たせた担当者は実在する。つまり、高知県出身の有川浩が特使就任依頼されたものの、「名刺なんか配るよりも、作家の自分にできることは、高知を舞台にした小説を書くこと」と思い至って書いた小説が「県庁おもてなし課」なわけで、読者にとってはノンフィクションの面白さ(お役所仕事のトホホっぷり)と、フィクションの面白さ(無駄にベタ甘純愛の有川ワールドはここでも健在です!)が二重に味わえてお得。

 

 それにしても、全編にわたり土佐弁満載。高知の隠れた観光スポットや旨いモンてんこ盛り。高知県おもてなし課の最大の功績は、有川浩にこの小説を書かせたことに尽きる。高知県観光特使の名刺500枚配っても、「高知県に行こう」と思う人は1人もいないかもしれないのに、この小説を読んで高知に行ってみたくなる人はたくさんいるだろう。

 

 楽しくって、軽く読めるけれど、地方自治体の仕組みや、政策がどうやって企画立案されて実現していくのかというステップや、なぜお役所がお役所仕事に陥らざるを得ないかという裏側の事情がキチンと押さえられていて、単なるエンタメ小説で終っていないところに、有川浩のパワーを感じました。

 

 なので、次は有川浩に「国政小説」を書いてもらいたい! 「政治小説」と言われるものは以前からあるし、それを専門とするオヤジ作家もいます。でも、基本的には、政局小説というか… 政治家のドロドロバトルなんですよね。そうじゃなくて、「国の政策」がいかに実現していくのか、又は、実現を阻害されているのか―そこに一番のスポットを当てた小説です。レベルの低い予算委員会の論戦見てても、国民には政策決定過程って解りづらいと思うのです。ここは、有川浩の出番!

 


「吉原十二月」 松井今朝子

2011年09月25日 | ま行の作家

「吉原十二月」 松井今朝子著 幻冬舎  

 

 「物語を読む」楽しみって、こういうことなんだよね―と思う一冊でした。

 

作者の仕掛けたトリックを見破った達成感とか、深い人生の教訓が得られるとか、「そう、その気持ち解る~」という共感とかも、本を読むことの楽しさの1つだと思う。でも、達成感とか、教訓とか、共感とかいうフックがなくても、面白い物語は面白いんだってことを改めて感じました。物語の世界に引き込まれて、ただひととき未知の世界に迷い込む、それこそが、至福なのです。

 

 おっとりしているように見えて、したたかで、しっかりものの「あかね」。愛嬌があって、はしっこく、直情径行型の「みどり」。その2人が、互いに意識しあい、張り合いながら成長し、やがては二枚看板の花魁 小夜衣(さよぎぬ)と胡蝶(こちょう)となり、年季を迎えて、苦界から抜け出すまでの日々を、舞屋の主人・庄右衛門が語り手となって、物語は展開していく。タイトルの通り、11つのエピソードは、睦月から師走まで季節折々の郭の情景と重なりあい、華やかで、もの悲しく、どことなく湿度感のある吉原の世界を浮かび上がらせる。

 

 物語の始まりに、庄右衛門が「二人は、果たして女子(おなご)の果報に恵まれたか。それとも運拙くして、哀れな最期を遂げたのか」と問いかけてくるので、物語を読み進みながら、どうしても、二人の運命が気になってならない。時に小夜衣に肩入れしながら読み、時に胡蝶の魅力が勝っているように思えたりする。そして、結末に、深く深く納得する。今井今朝子らしい、清々しいフィナーレ。

 

吉原は完全にanother worldだけど、「女子の果報」とは何か―このテーマは、現代にも通じることなのかもしれない。

 


「潜入捜査」 今野敏

2011年09月22日 | か行の作家

「潜入捜査」  今野敏著 実業之日本社文庫   

 

 マル暴刑事の佐伯は、暴力団組織を憎むあまり、度を超した逮捕劇を何度も何度も展開し、ついに「環境犯罪研究所」へ出向を命じられる。 刑事の身分を剥奪されて気落ちする佐伯だが… 実は、この研究所は、暴力団の資金源となっている不法投棄・産廃ビジネスを根絶やしにすることを目指して、警察以上にアグレッシブに暴力団と戦う組織だった。

 

 久々の今野敏。期待と共に読み始めたものの、「文章もこなれていないし、そもそも、やくざ業界の産廃ビジネスって、なんか古典的なテーマだなぁ」と思いながら読了。そして、著者あとがきを読んで、ようやく納得。なんと、1991年、20年も前の作品だったのでした。つまり、今野敏超初期作品だったのですね。こういう作品を経て、「隠蔽捜査」という傑作が生まれたのかと思うと、それはそれで味わい深い作品ではあります。

 

 ちなみに、佐伯は蘇我入鹿暗殺で功を立てた佐伯子麻呂の末裔。佐伯一族は、古代より宮廷警護などにあたった軍事氏族で独自の武術を継承しているという設定。私は警察小説しか読んだことがないけれど、武術小説は今野敏のもう一つの柱。正直なところ、佐伯の武術があまりに凄すぎて、リアリティが無くなってしまっている。拳銃を持って、4人、5人でかかってくる敵を相手に、パチンコ玉と手製の手裏剣で戦うって…なんとなく、ジャッキー・チェンの香港映画みたいだな。格闘技フリークの心には響くのかもしれないけれど、警察モノはリアリティを追求した方が面白いと思います。

 


「アヒルと鴨のコインロッカー」 伊坂幸太郎

2011年09月17日 | あ行の作家

「アヒルと鴨のコインロッカー」 伊坂幸太郎著 創元推理文庫   

 

25回吉川英治文学新人賞受賞作。直木賞候補常連、本屋大賞候補常連(「ゴールデンスランバー」では大賞受賞)。若手実力派としては常に名前が上がる人だし、力があるんだろうなと思う。

 

でも、私のシュミじゃないな。ノーテンキで、面白おかしければ良い物語だなんて思っていないけれど、でも、こんな救いもなく、吐き気を催すようなストーリーを読んで、私は何を感じればいいのだろう?

 

ブータンからの留学生ドルジが2年前に遭遇した事件。そして、その落とし前をつけることに巻き込まれた、大学に入学ばかりの椎名。2年前の物語と、現在の物語とが縦糸と横糸となって、物語が進んでいく。

 

椎名は大学入学が決まり、下宿先のマンションに引っ越したとたんに身の回り不条理なことが相次ぐ。同じマンションの住人に、本屋強盗に誘われる。たまたま乗ったバスで痴漢を目撃してしまう。買ったばかりの大学の教科書が盗まれる。その全てが、2年前の出来事、2年前の物語の登場人物とリンクしている―ということは終盤になってわかることなのだが… 私には、そのトリックが「はぁ~? そんなこと???」と言いたくなるぐらい陳腐に思えた。 「そんなの、読んでいて十分に推理できたよ」ってわけではない。全然、分からなかったけれど、でも、やっぱり、陳腐だと思う。

 

新聞やテレビを見ていると、確かに「なんで、そんな簡単に自殺しちゃうの?」「そんな理由で人を殺して、人生、棒に振っちゃうなんて…」というようなニュースはいっぱいある。でも、実際に「自殺を選ぶ」「人を殺す」という決断の背景にはそれなりに重いものがあるだろし、衝動であるにしても、そこに駆り立てる何かというのは、複雑で、重層的なのではないかと思う。

 

そして、その「どうしようもない」「逃れることができない」ことこそが、物語の核になるはずなのに、肝心の部分があまりにもアッサリしている。深い懊悩もなく(もしかして懊悩していたのかもしれないが、少なくともそこは描かれていなかった)、私刑を実行しようなどという物語には、どうしても共感できない。

 

伊坂幸太郎に好感持つのは、次回に持ち越しと致します。

 


「闇の守り人」 上橋菜穂子

2011年09月14日 | あ行の作家

「闇の守り人」 上橋菜穂子著 新潮文庫  

 

「精霊の守り人」の続編。苦戦の末、半月以上かかって読了。

 

苦戦の理由は、登場人物がみなカタカナ名であること。しかも、架空の国の物語なので、そのカタカナが英語っぽくもないし、フランス語っぽくもない。私にとっては、手がかりの掴みようのない文字の羅列に見えてしまう。その上、登場人物が多い!!!3ページ読むたびに「これって、誰だっけ?」とページを逆戻り。なかなかスムーズに読み進めませんでした。

 

普段、私は、名前の響きや字面の印象から登場人物のキャラクターを頭の中で構築しながら読んでいるのだと思う。だから、カタカナ登場人物のストーリーはかなり苦手。主役は古代進/森雪とすると、たとえアニメ作品を見ていなくても、この2人の名前を見ただけで、キャラクターのイメージが湧いてくるし、作家がこの2人にどんなキャラ付けをしたいかも想像したくなる。でも、バルサ/カルナ/ジグロという名前から、主人公がどんな役割を担っているのかイメージを結べない。 

 

ただ、ストーリー自体は嫌いではない。「ナウシカ」「もののけ姫」のような、勇敢で、聡明なヒロインの冒険と戦い。ただし、この物語の主人公バルサは少女ではない。アラサーのヒロインという設定は、なかなか、渋くて好きだ。「ファンタジー」に分類されるのだろうけれど、フワフワとした夢物語というよりも、生きること、孤独に向き合うこと、権力欲とは何か、支配するとは何か、生まれもって与えられた運命をいかに受け入れるか―根源的なテーマに迫ろうとしている。どこか、哲学的でもある。「カタカナの名前が覚えられない」という壁さえ越えられれば、もうちょっとハマれそうなのだけど…。

 

ところで、女子サッカー五輪予選の時に、ツイッターのTLを眺めていたら「澤を見ていると、上橋菜穂子の“守り人”シリーズのバルサを思い出す」という書き込みがあり、妙に納得しました。

 


杉本文楽 @ 神奈川芸術劇場

2011年09月13日 | 文楽のこと。

杉本文楽@神奈川芸術劇場 2011/8/14 (もう、一カ月以上も前!

 

杉本博司氏演出による文楽・曽根崎心中を、今年オープンした神奈川芸術劇場で見た。もともとは3月に上演される予定だったものが、震災の影響で延期。そう、あの頃は、計画停電があったりして、首都圏も混乱のさなかにあったんですよね。延期になってチケットの値段が上がりました。芸術劇場のこけら落とし公演として補助金が出る予定だったのが、年度が替わってしまったので出なくなったとか…。興行主の都合で延期したわけではないんだし…ホント、お役所って融通効かないなぁ。

 

劇場の中はとっても今っぽくてステキでしたが、自分の席にたどりつくまでの動線がイマイチ。大ホールは建物の510階部分で、5階まで遅くて狭いエスカレーターで上がらなくてはいけない(一応、エレベーターもありましたが…)。劇場のキャパに対して入場口が狭いし、チケット切ってもらったあとにそれぞれの席に近いドアに向かうための動線もしっくりこなかった。「建物そのものがアート」という発想で、キレイに作られているのですが、利用者の快適さもアートの一要因に加えてほしいな…という感じ。

 

国立劇場・国立文楽劇場での定期公演とは違って、演出家・杉本氏とのつながりで見に来ている方も多かったようです。定期公演の時よりも、なにか、華やいだ雰囲気…というか、おしゃれな人が多かったし、いい匂いがした。 

 

さて、肝心の公演は…。杉本氏が新しい試みとして文楽の演出をする以上、定期公演と同じ曾根崎をやっても意味がないわけで、色々と、斬新な試みがありました。観音めぐりでお初の横顔や、寺の名前が映像で映し出されたり…。

 

「面白い!」と思ったのは、舞台の奥行きを使っていたところ。通常の公演での登場人物の動きは、圧倒的に上手(かみて)と下手(しもて)を結ぶ線にそったものが大半を占めていて、わりと平面的な印象なのですが、杉本文楽は三次元。舞台奥からお初が歩いてくると、だんだん顔の輪郭がはっきりして、表情が見えてくる。見るモノに「近づいてくる」という感覚は新鮮でした。ただ、私はたまたま前の方の席だったから臨場感を味わえましたが、あの大きなホールの後方の席の人には、近づいてくる実感も湧きづらいし、そもそも、人形の表情が見えなかったかもしれないなと思います。

 

天満屋の段の暖簾の美しさが際だっていた。通常の文楽公演でも暖簾はしばしば出てきますが、所詮小道具は小道具という程度の存在。しかし、杉本文楽では有無をいわさぬ存在感。鮮やかな緋色が「郭」という別世界を象徴しているようでもあり、こういう斬新な表現の仕方もあるのだな―と思いました。

 

手すりなしで、人形遣いの足元までオールスルーで見せていたのも新鮮。主遣いも高下駄を履かずに草履だったので、その分、足遣いさんはいつも以上にキツかったのではないでしょうか。さらに、小道具を出す人も、なるべく観客の目に触れないようにいつもとは違う動きを強いられたと思います。定期公演でこういう演出を取り入れることはないだろうし、その必要もありませんが、でも、普段は見えないところが見えるというのは、面白い趣向でした。ただ、それが、心中の物語の演出として必要な要素ではなかったと思います。

 

 他にも、「パーツ」としては興味深いことはいっぱいありました。でも、正直なところ、1つの物語として、作品として、心に迫るものがあったか―というと、そうでもなかったなという印象なのです。

 

 例えば、嶋さんと清治さんという、本公演ではありえない組み合わせの床―始まる前は「いったい、どんな物語を紡ぎ出してくれるのだろうか」というワクワク感がありました。清治さんのナイフのように鋭い三味線の音色に、嶋さんの情感たっぷりの語り、共に、独自の世界を持った二人がどのようにぶつかり合い、高めあうのだろうか―。でも、実際のところは、激しいぶつかり合いもなく、譲らない二人(私の勝手な想像ですが…)が、ほどほどに大人の妥協をしていて、切なさも悲しさも響いてこない。

 

 そもそも、清治さんが三味線を弾くのにメガネをかけているというのが、なんとも違和感でした。今回は、新しい作曲をした部分もあり、慣れ親しんでいる曾根崎とは違うので譜面を見ながらの演奏。清治さんだけではありません、みんな譜面を見ているから、観客からは三味線さんの頭頂部ばかりが見えてしまう。個人的なシュミですが、やはり、床の上にいる人は、シャキッと背筋が伸びて、キリリとした表情でいらっしゃるのがカッコエエのです。

 

 そして、これは言っても詮無きことですが、やっぱり、ナマ音の文楽をやるには天井が高く、会場が広すぎ。大夫の声も、三味線の音もなんとなく拡散して迫力がなかった。

 

 細かい部分は、いちいち挙げていても切りが無いし、あまりにも個人的なシュミの問題ではありますが… 「最初」と「最後」だけはメモしておこう。

 

本公演、地方公演で何度も曾根崎を観ているけれど、何度観ても、私は「はすめし」屋の窓辺にお初の横顔が見える登場シーンが大好きなのです。中盤以降、2人が心中へと追い込まれていく展開の中では、お初は「度胸の据わった姐さんキャラ」として描かれていますが、「はすめし」屋のシーンだけは、徳兵衛が好きで好きで仕方ない恋するカワイイ女。恋するお初を見て、一緒に、胸がキュンとしてしまいます。でも、今回の舞台では、お初の「カワイイ」面はほとんどなかったなぁ。ずっとクールなままなのが物足りなかった。

 

私の中のbest of 曾根崎は、20102月公演。天神森でいよいよ心中しようとする場面。2人の身体を結びつけるための長い紐を作ろうとしていて指を切ってしまったお初を気遣う徳兵衛。これから死ぬ2人が指先の血におろおろし、最後の「生」を確認するのが痛々しくも、エロチックだった。そして、お初を固く抱きしめて、自らの首に刃を当てる徳兵衛。2人が息絶えた瞬間、会場は無音となる。大夫の声も、三味線もない。観客も、拍手をすることすら忘れて、あまりの美しさと切なさに息を呑む。

 

今回は、2人が死んだ後も、鳴り物が続いていた。個人的には、全編を通して、そこが一番、興ざめだった。「無音」、それこそが、死を象徴するのに…。それに、お初が指を切る場面、あったっけ? 思い出せない。少なくとも、エロチックには描かれていなかったと思う。2人の死をせかすような寺の鐘の音もなかったな。

 

「結局、文楽ファンって、コンサバなんじゃん!」と言われれば、「おっしゃる通りです」と言うしかありません。でも、杉本文楽を見たことで、「いつもの本公演でやっている曾根崎って、めちゃめちゃ完成度が高いんだっ!」てことがすごくよくわかりました。他者として、客観的に、美しい装置、美しい舞台を見ているのではなく、いつの間にか、物語に引きずり込まれ、感情移入せずにはいられないように、長い年月かかって作り込まれてきているのだと思います。お初の横顔にしても、鐘の音にしても、その全てが、観客を物語に引きずり込むためのフックなのです。

 

その「良さ」が当たり前になってしまうところを、杉本文楽という新しい刺激を得たことで、「良さ」を再認識できた意味は大きいと思います。今後の本公演の曾根崎がさらに磨き込まれていけば、文楽ファンにとっては嬉しいことです。そして、杉本文楽で文楽デビューした人が、本公演の面白さを知ってくれれば、なお、素晴らし!

 

 最後のカーテンコールで、簑師匠が登場した時、黒衣の裾の部分に、小さな赤い飾りが付いているのが見えた。お茶目っ! 最後にそれが見れたのが嬉しい気分で、会場を後にしました。