もんく [とある南端港街の住人になった人]

死の恐怖

Hotel Rwanda を見て思った。
「死の恐怖」って実際はどんなものなのだろう。


バスタブの中に隠れていると足音が聞こえて来る。
手には誰かの血で染まった大きな包丁を持ち、乱暴にドアを開けて殺すべき人間を探している様子。
だんだんとその音が近くなって、遂にこの部屋のドアを開ける音がする。
絨毯を踏む音がひたひたと近づいてきて......

殺される瞬間を潜んで待つ、その時間の恐怖とは。


侍(さむらい)が刀を持った数人の暴漢に囲まれた。
逃げ道は無い。いつ振り下ろしても良いのだぞと言わぬばかりのその刀は異様なほどの白光を放ち、軽く触れただけでも血が滲みそうだ。
「うっ」と力み声が聞こえたと思った瞬間に刀の1本がびゅうと空を舞う。反射的に身体を左に反らしてかわす。身体の動きに遅れて残る着物の袖が刀の切っ先に絡む。次の1本が振り下ろされたのが視線の端に見えた気がした。
もう終わりか.....



昔「木枯らし紋次郎」と言うテレビ番組があった。
それまでの時代劇と違って殺陣(たて)が格好悪かった。
今でも時代劇の殺陣と言えば絵に描いたような格好良さが売りである。しかし紋次郎はその反対だった。

刀で切られて死ぬかもしれない恐怖を感じながら戦わねばならぬ時、そんなに格好良くしていられるものだろうか。多分、ほとんどの場合無理だ。想像以上に無様(ぶざま)な戦いになるのではなかろうか。腰は砕けて力が入らず、手は震えてまともに刀を支える事だってできないかもしれない。たとえ振り下ろせたとしても思った軌道を通ってくれはしないだろう。勝負どころでなく、すぐに逃げ出したと思うかもしれない。相手の刀が少し擦っただけで血が出るだろう。切れるだろう。痛いだろう。運が悪ければ手が身体から飛んで離れていくかもしれない。そうなったらもう多分死ぬしか無い。そこで終わりだ。

と言っても想像するしか無い。

もし練習であれば真剣を使っていた場合でも相手は自分を殺さない。刀でなく拳でも良いが、まさかあのカンフー映画のように奇麗には戦えないはずだ。あれは死なないから安心して楽しめるだけで何の意味も無い。(いやいやスターであるジャッキーを目立たせる効果だけはある。)



我々が普通にここで生活している中でそんな死の恐怖に襲われる場面は稀だ。
だから本当に殺されるか殺すかの場面がどんなものなのかが分からない。もう刀は持っていない、アメリカのように銃も無いしあのルワンダのような紛争も無いのだから。


死の恐怖って実際、どんな感じなのだろう。
ダメダメ、カッターナイフが指先に触れる事すら怖くて想像できないのだから。
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