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もんく [とある南端港街の住人になった人]

人は羽蟻のように地面に降りて羽根を捨てる

買い物に出てスーパーの駐車場に停めようとした時、キャサリンさんが言った。
「私のことおかしいと思ってるでしょ?精神科で診てもらった方が良いと思ってるでしょう?」

病院に行った方が良いとも思わないが、もし第三者に話を聞いてもらってヒントが掴めるのであれば悪い選択ではない気がする。もっとも病院の医者をそんなことに利用して問題ないのかどうかはわからないが。

なぜキャサリンさんがそんなことを言うのかというと、自分でも感じているようだが、あまりにも近くにいる人のちょっとした事が気になり過ぎるのだ。そのことが頭から離れず、四六時中その人の悪いところばかりを気にして批判してしまう。

世の中のほとんどの人は神様でも聖人でもないのでちょっとした間違いはする。それに加えて高齢になるとある部分の判断力が鈍るようなことはある。後者は明確に医学的な脳の障害が出てきた場合もあるのでその人が性悪というのとは違う。

そういう他人の所作に関して多くの人はどうにか上手く対処している。なぜなら高齢だろうとそうでなかろうと「自分の側から見て」おかしな人は山ほどいるのにあまり問題にはなっていない。普通に仕事している中でもかなりいるし、そのおかしなところを特徴として自分なりの成果を得ている人もいる。その特性が良く見える時もあるしその逆の場合もある。

だから問題の本質がどこにあるかというと、それは自分の側だし、その結果のダメージを受けるのも自分の側だ。自分が歩き回れる世界をどんどん狭めていってしまい、何もできずに萎縮して生きることになってしまう。

人間というのは生来、自由であるべきものだ。これは現代社会において認められた権利なのだけれど、それが本質的に何であるかとか使い方は教えてもらえない。特に日本では。難しいから。その代わりに義務はきちんと教えられる。説明が簡単だから。

自分を鳥だと考えてみる。もちろん羽根がないので空気中を飛べはしないが、心は自由に飛び回ることができる。鳥は3次元空間を移動できるので滅多に誰かとぶつかってしまうことはない。けれども、鳥は上から地面を眺めている。だから鳥は地面で起きていることが気になって仕方ない。地面で誰かが変わった動きをすると横に広く広げていた羽根を縮めて急降下して地面に降りる。地面に降りてしまえば羽根はもう無いも同然で、地面を這いずる動物や虫と一緒だ。平らな面にいると当然変わった動きをしていた相手とぶつかってしまう。気になって気になってもう飛ぶことを忘れてじっと相手を見続ける。目が離せない。自分に羽根があって飛べることを忘れた鳥は自らその相手に捕らえられたのと同じ。

でも、人間の多くはそんな生き方をし続けている。snsで目立つ何かを見つけるとそこへすっ飛んで行って口を挟む。それを見るまで興味も知識も何なかったところへ思いついた一言を投じる。その自分の一言が自分をその地面に縛りつけることになり、そこの住人となる。地面に落ちた羽蟻の羽根がポロリと落ちてもうどこへも行くことはできない。

そんな生き方は快適なのか?


空中を飛んでいれば、地面で起きている事を地面にある定義だけでなくいろいろな定義で説明できる。ある定義はその悪い面を説明するが、別の定義はそうならざるを得なかった理由を説明し、別の定義は良い面を説明、そして別の定義はその事にあまり意味がないことを説明するだろう。けれど、飛んでいなければ定義は平面にあるただ一つに限られる。

たった一つの定義にこだわるのは人生にとって時間の無駄だ。なぜなら永久に何も改善しないやり方だから。しかもそれは自分が解決しなければならない自分の問題でもないのだから。
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