もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

引っ張る人に

昨日のワリバシ料理を教えてくれたチャイニーズの男性(T氏)によると、マレーシアの人は日本人を自分たちより一段上に見ていると言う。そう言えばそう見られいてるふしはあるな、と思う。今の仕事場に限らず、ある国々では日本人に対してそう見ると聞くこともある。

ただ、逆に実際の日本人と仕事をいっしょにすることになって幻滅してしまった、と言うことも実際に聞いたことがある。まあ、日本人の自分にそう言ってくれたのだからその人にとっては軽傷で済んだのかも知れない。日本人の代表でもない自分がこう感じるのも変なのであるが、ちょっと残念だ。

そこまでいかない場合でも、例えば同じ職場など近くにいても日本人とあまり機能的な話し以外はしない事が多いそうだ。上出のT氏も何年も日本人がいる日系の会社で仕事をしているが、人生、社会やプライベートな話を日本人としたのは自分が始めてなのだそうだ。かれは隔離された部屋でコツコツ仕事だけしているような職種でもなかったので、これには正直言ってびっくりさせられた。

自分から見れば、マレーシアの人は穏やかで人懐こい人がほとんどだと思う。話をする時の距離も日本人どうしよりずっと近いし、電車やバスで隣り合わせになった人もよく話しかけてくれるのだから同じ職場に毎日いて仕事以外についてしか話さないなんて本当に信じられないことだ。相手が一段上と思う人と、体面を重んじる日本人の間のコミュニケーションは相当に難しい事なのだろうか。


話を戻すが、一段上に見られているだけあって、日本人の発言力はバイアスがかかってちょと大きい。

それは変な方向へも行くのじゃないかと思うこともある。あの人が言っているのだからその通りにしようとなってしまうのはちょっと危険な感じがする。それが間違っているかどうかと言う問題以上に、相手を思考停止にさせてしまうのではないかと思うのだ。日本的には、仕事をする上ではそれは達成への早道になるし、従順な部下が好きな日本人にとってはやりやすくもある。

言葉の問題がある程度クリアできて、ダメなところを良くすると言うことで即効性のある成果は得られるだろう。

けれども、(実は無くとも)一段上に見てもらっているこちらとして考えると、それで良いのかなとも感じる。製品が良くなるとかそうしたオブジェクト上のことは実はそれほど難しいことではない。けれども、外国人である日本人がそこに居なくなったとき、それと同等かそれ以上の事ができるようになっているかと、その意味ではなかなか難しい。

バリバリ仕事を片付けて成果を上げても周りの人が思考停止のままそれをしている事も考慮すれば、バリバリやりながらそれと同じ程度に誰かを成功させることに気を遣わなければならないのではないだろうか。もっとも、日本人は誰かを良い方向へ引っ張ると言う作業が不得意だ。学校などでも自分の成績を上げたいとがんばる人は多いけれども、周囲の人も一緒にと言う発想はあまり経験しない。


「現代ビジネス」のサイトに「美人は美人から生まれる?!」と言うちょっと題名だけで読みたくなるような遺伝について考察した記事が出ていた。別のサイト(忘れた)には幼児期の教育がその後の人生へ大きく影響すると言う趣旨の記事があった。そう言う記事を読むと、ああ自分は遺伝的にも環境的にも恵まれずにここまで来てしまったのだなあ、とちょっと落胆してしまいそうになる。

けれども、視点を変えて、自分自身がどうこうより、周りの人をどれだけ引っ張れるかに関してはきっと今からでも遅くはないだろう。そうしたスキルは身に着けてはいないにしても、いつでも学べば良いことであるし、日本人がまだ一段上に見てもらえると言う、(先輩たちの努力による)偶然の幸運が残っているうちにそうすべきなのかな。



実は私は、キャサリンさんが私より一段上の存在だ、と、見ている。

体重が。
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