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もんく [とある南端港街の住人になった人]

論理にはヒゲがある

前回の文章のつづき

何か目新しいものを見せられて「すごい!」と思うことがある。

そのときに「すごい!」で言葉が終わってしまうのはそれが本当にすごい場合もあるけれども、その裏に見ている自分がそれを解釈できないと言う事も否定できない。どちらかと言うとその場合の方が多いだろうと思う。

解釈できないとそれを人は「芸術的」と言い換えてしまう。
「芸術的」と言うのは芸術家個人の頭のどこかからなぜかよくは分からないけれども沸いてきたアイデアを形にしたものをその言葉を使って表現するもので、それは解釈を超えた個人的なものであったり神憑りのようなものを指す。

降って沸くことも神憑りも無いとは言えないのだけれども、どちらかと言うとそれを見る方の不勉強だと考える方が間違いないだろうと思われる。ピカソだって空中にポッカリと現れた人ならぬ人と言うわけではなくて、やはり時代と独立には存在する事のない普通の人間の仲間であるし、ザッハ・ハディドがあの造形を超人的な発想で作り続けていると思うならそれは単に知らないからである。(知っていれば同じことができると言うことではないにしても。)


(話はかなり飛ぶ)
ところで、幾何学のように組み合わされた論理にはヒゲがある。

論理は時間時代とともにどんどん積み重なっていくのであるけれども、そうなればかならず端面にあたる部分が存在する。それは現在と言う端面であって、その端面にはまだ解決されていない言わば「成り切らぬ部分、成り余る部分」が出来ている。

偉い人の書物を読むとそれらがもう全て解決されて表面がツルツルで完全な状態であるかのような印象を受ける場合があるけれども、よくよく見ればその表面には小さなヒゲ状の未解決がたくさん生えている。書物やら作品やらを使って世に何かを出すほどの人は自分の作品の一部に未解決があるとは言わないのだ。そして批評家であってもあまりに現在の端面についてはそれが未解決であるとは断言しない性質があるので傍から見ている素人は結局「すごい!」の部分しかわからないことになる。

そのヒゲと言うのが次の時代の人、つまり今勉強中の人、今巨匠で無い人、今専門家でもない人にはとても重要で、世の中はまだまだ完璧でなくてまだまだすべき事があると言うことを知るきっかけであったり、次のアイデアを掴む取っ手でもある。


そう言うわけで、ヒゲを掴みましょう。



何バカなこと書いてるんだろうね。
そんな事ほとんど誰にも関係ないし感心も無いのにね。芸術をしたい人間は自分自身の中にしか存在しないはずの芸術性なり個性なりヒラメキなりそうしたものを信じたいと思っているわけで、つまり「すごい!」が「すごい!」以上のものである必要なんて何も無いのだから。芸術に限らず多くの事はだいたいそんなものだと認識されているか、適当なスキルの産物だと考えられているに違いないのだから。
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