<京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(1)>
古都は難読な駅名がけっこう多くて、切符購入や駅員にものを尋ねる時など、旅人はそれなりに苦労する。
JR奈良線「黄檗(おうばく)」駅の簡素な改札口を出て、目の前の宇治街道(府道7号線)を伏見桃山方向に少し戻り、右側の住宅街のなかの細い路地をくねくねと抜けると、そこに突然といった感じで「萬福寺」があった。
ホームページのアクセス案内に「駅から徒歩5分」とあったが、まさにその通りだった。

「山門か?」
異国の匂い(雰囲気)がぷんぷん漂う門で、山門にしては思ったより小さい。
あとで分かったが、この門は「総門」だった。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした、中国門の<牌楼(ぱいろう)式>を用いており「漢門」とも呼ばれたそうだ。
「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら参道をクランク状に進むと、巨大な「三門」が見えてきた。
(こっちこそがこの寺の山門だな!)

「萬福寺」は、日本からの度重なる招請を受けて中国福建省から渡来した「隠元禅師」が、「後水尾法皇」や徳川四代将軍「家綱」公の尊崇を得て、寛文元年(1661年)に開創した明朝伽藍の寺院である。
寺の正式名称は「黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)」で、中国福建省の「黄檗山萬福寺(古黄檗)」にちなんで名付けられた。

三間三戸の重層楼門造りの「三門」は、延宝6年(1678年)の建立で、 正面上部に掲げられている<山号額(扁額)>には「黄檗山」と書かれているが、これは開創した「隠元禅師」の筆である。

初層中央にも「萬福寺」とあり、こちらも隠元禅師の筆による<寺額(扁額)>だ。隠元禅師すなわち「隠元隆琦(いんげんりゅうき)」は、「木庵性瑫(もくあんしょうとう)」、「即非如一(そくひにょいつ)」とともに<黄檗の三筆>と称される能書家として知られている。
三門を入ると、明式に並んだ諸堂がある。「天王殿」、「大雄宝殿」、「法堂」とまっすぐ一直線に続き、左右に方丈や鐘楼が展開される。
三門から正面の天王殿まで、参道の菱型に整然と並べられた石を拾い歩きしたのだが、萬福寺の特殊な形式の参道は龍の背の鱗をモチーフ化したもので、菱型の石の上に立てるのは<住持>のみだそうだ。(いまさら遅いが、ご容赦のほどを)

玄関に相当する「天王殿」は中に須弥山が作られ、正面にはでっぷりとした木像の「弥勒菩薩(布袋尊)」坐像が鎮座していた。

「昨日は山科で“毘沙門天”で、今日は宇治で“布袋様”かよ!」
昨日から、どうやら七福神に縁があるようだ。
ところで“七福神”の七柱だが、出身地はジツに多国籍である。
唯一「恵比寿」の一柱だけが日本、「毘沙門天」と「弁財天」と「大黒天」はインド、「寿老人」と「福禄寿」は中国だ。
そして残る一柱「布袋尊」は、中国・唐の時代に、実在した南宋の高僧で<定応大師>と号した「契此(けいし)」がルーツとされていて、中国では「弥勒菩薩」の化身として信仰されている。
― 続く ―
古都は難読な駅名がけっこう多くて、切符購入や駅員にものを尋ねる時など、旅人はそれなりに苦労する。
JR奈良線「黄檗(おうばく)」駅の簡素な改札口を出て、目の前の宇治街道(府道7号線)を伏見桃山方向に少し戻り、右側の住宅街のなかの細い路地をくねくねと抜けると、そこに突然といった感じで「萬福寺」があった。
ホームページのアクセス案内に「駅から徒歩5分」とあったが、まさにその通りだった。

「山門か?」
異国の匂い(雰囲気)がぷんぷん漂う門で、山門にしては思ったより小さい。
あとで分かったが、この門は「総門」だった。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした、中国門の<牌楼(ぱいろう)式>を用いており「漢門」とも呼ばれたそうだ。
「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら参道をクランク状に進むと、巨大な「三門」が見えてきた。
(こっちこそがこの寺の山門だな!)

「萬福寺」は、日本からの度重なる招請を受けて中国福建省から渡来した「隠元禅師」が、「後水尾法皇」や徳川四代将軍「家綱」公の尊崇を得て、寛文元年(1661年)に開創した明朝伽藍の寺院である。
寺の正式名称は「黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)」で、中国福建省の「黄檗山萬福寺(古黄檗)」にちなんで名付けられた。

三間三戸の重層楼門造りの「三門」は、延宝6年(1678年)の建立で、 正面上部に掲げられている<山号額(扁額)>には「黄檗山」と書かれているが、これは開創した「隠元禅師」の筆である。

初層中央にも「萬福寺」とあり、こちらも隠元禅師の筆による<寺額(扁額)>だ。隠元禅師すなわち「隠元隆琦(いんげんりゅうき)」は、「木庵性瑫(もくあんしょうとう)」、「即非如一(そくひにょいつ)」とともに<黄檗の三筆>と称される能書家として知られている。
三門を入ると、明式に並んだ諸堂がある。「天王殿」、「大雄宝殿」、「法堂」とまっすぐ一直線に続き、左右に方丈や鐘楼が展開される。
三門から正面の天王殿まで、参道の菱型に整然と並べられた石を拾い歩きしたのだが、萬福寺の特殊な形式の参道は龍の背の鱗をモチーフ化したもので、菱型の石の上に立てるのは<住持>のみだそうだ。(いまさら遅いが、ご容赦のほどを)

玄関に相当する「天王殿」は中に須弥山が作られ、正面にはでっぷりとした木像の「弥勒菩薩(布袋尊)」坐像が鎮座していた。

「昨日は山科で“毘沙門天”で、今日は宇治で“布袋様”かよ!」
昨日から、どうやら七福神に縁があるようだ。
ところで“七福神”の七柱だが、出身地はジツに多国籍である。
唯一「恵比寿」の一柱だけが日本、「毘沙門天」と「弁財天」と「大黒天」はインド、「寿老人」と「福禄寿」は中国だ。
そして残る一柱「布袋尊」は、中国・唐の時代に、実在した南宋の高僧で<定応大師>と号した「契此(けいし)」がルーツとされていて、中国では「弥勒菩薩」の化身として信仰されている。
― 続く ―
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