<京都・八幡、石清水八幡宮(1)>
平安京の裏鬼門を守護し、また厄除開運の神として信仰を集めてきた「石清水(いわしみず)八幡宮」である。

「やわたのはちまんさん」として親しまれている「石清水八幡宮」は、大分の「宇佐八幡宮」、福岡の「筥崎(はこざき)八幡宮」とともに「日本三大八幡宮」のひとつに数えられている。
三つ目の筥崎宮に代わりに、神奈川・鎌倉の鶴岡八幡宮を三社のひとつに数えることもあるそうだ。
(は、はーん、それって朝市とかと根っこは同じかも・・・)
日本三大ナントカにはたまにあることだ。前に「呼子(2)」の記事で三大朝市についてこう書いた。
『ところで「三大朝市」といえば能登輪島、房総勝浦、飛騨高山である。わたしの個人的な好みから並べると高山、輪島、勝浦の順になる。
ところが、いつからか佐賀県は唐津、「呼子」が三大朝市にこっそりと乱入してきたのである。

これはどういうわけだろう。
歴史的にいって輪島は平安時代、勝浦は安土桃山時代、高山は江戸時代からと由緒正しい朝市だ。
呼子は大正からというのだから歴史ははるかに浅い。
(略)
三大朝市に呼子がはいると押し出されるのは現実的にはアソコ(書けないな)あたりであろうか。輪島・勝浦・高山は、それぞれが「オレんとこだけは安泰間違いなし」と思っているせいか抗議の声もないようだ。なにしろ遠いしね。』

表参道入口の「一ノ鳥居」は、高さ約9m、幅約11mの石造の鳥居である。当初は木製だったが、1636年(寛永13年)、「松花堂昭乗」の発案によって花崗岩製のものに造り替えられた。

掲げられている「八幡宮」の額は、一条天皇の勅により「藤原行成」が書いたものを「松花堂昭乗」が行成の筆跡のとおりに書写したものだという。
行成は、小野道風・藤原佐理とともに「三蹟」と呼ばれた書道の大御所で、松花堂昭乗は、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた、こちらも大御所だ。
具象化された「八」の字は、向かい合った二羽の鳩が顔を外に向けている独特のものである。
八幡信仰では「鳩」は神の使いで、石清水八幡宮に、「行教」和尚が八幡様の総本宮である<宇佐八幡宮>を勧請するときも鳩が案内してくれたといわれている。余談だが、鎌倉の銘菓「鳩サブレ」の由来にもなっている。
(この『八幡宮』の文字だが、鎌倉にある鶴岡八幡宮の本宮楼門に掲げられた額にそっくりだなあ!)

わたしの自宅の近場にある「鶴岡八幡宮」だが、1063年 (康平6年) に、「源頼義(頼朝の祖父)」が奥州を平定して鎌倉に帰り、出陣に際しご加護を祈願した先祖ゆかりの京都「石清水八幡宮」を勧請して由比ヶ浜辺に創建したそうであるから、きっと藤原行成の字も写されたもので似て当然なのかもしれない。
なお、鶴岡八幡宮は、1180年(治承4年)に「源頼朝」が現在の場所に遷した。
一ノ鳥居をくぐって、右手には<放生池>があり、夏には睡蓮や蓮、河から移植した“あさざ”が可憐な黄色い花を咲かせる。“あさざ”は絶滅危惧種なので、夏に訪れたのなら必見だ。

しばし放生池を眺めたところで、“参道ケーブル”を利用するため、駅方面に引き返すことにした。参拝する本殿があるのは、男山の山上なのである。
― 続く ―
平安京の裏鬼門を守護し、また厄除開運の神として信仰を集めてきた「石清水(いわしみず)八幡宮」である。

「やわたのはちまんさん」として親しまれている「石清水八幡宮」は、大分の「宇佐八幡宮」、福岡の「筥崎(はこざき)八幡宮」とともに「日本三大八幡宮」のひとつに数えられている。
三つ目の筥崎宮に代わりに、神奈川・鎌倉の鶴岡八幡宮を三社のひとつに数えることもあるそうだ。
(は、はーん、それって朝市とかと根っこは同じかも・・・)
日本三大ナントカにはたまにあることだ。前に「呼子(2)」の記事で三大朝市についてこう書いた。
『ところで「三大朝市」といえば能登輪島、房総勝浦、飛騨高山である。わたしの個人的な好みから並べると高山、輪島、勝浦の順になる。
ところが、いつからか佐賀県は唐津、「呼子」が三大朝市にこっそりと乱入してきたのである。

これはどういうわけだろう。
歴史的にいって輪島は平安時代、勝浦は安土桃山時代、高山は江戸時代からと由緒正しい朝市だ。
呼子は大正からというのだから歴史ははるかに浅い。
(略)
三大朝市に呼子がはいると押し出されるのは現実的にはアソコ(書けないな)あたりであろうか。輪島・勝浦・高山は、それぞれが「オレんとこだけは安泰間違いなし」と思っているせいか抗議の声もないようだ。なにしろ遠いしね。』

表参道入口の「一ノ鳥居」は、高さ約9m、幅約11mの石造の鳥居である。当初は木製だったが、1636年(寛永13年)、「松花堂昭乗」の発案によって花崗岩製のものに造り替えられた。

掲げられている「八幡宮」の額は、一条天皇の勅により「藤原行成」が書いたものを「松花堂昭乗」が行成の筆跡のとおりに書写したものだという。
行成は、小野道風・藤原佐理とともに「三蹟」と呼ばれた書道の大御所で、松花堂昭乗は、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた、こちらも大御所だ。
具象化された「八」の字は、向かい合った二羽の鳩が顔を外に向けている独特のものである。
八幡信仰では「鳩」は神の使いで、石清水八幡宮に、「行教」和尚が八幡様の総本宮である<宇佐八幡宮>を勧請するときも鳩が案内してくれたといわれている。余談だが、鎌倉の銘菓「鳩サブレ」の由来にもなっている。
(この『八幡宮』の文字だが、鎌倉にある鶴岡八幡宮の本宮楼門に掲げられた額にそっくりだなあ!)

わたしの自宅の近場にある「鶴岡八幡宮」だが、1063年 (康平6年) に、「源頼義(頼朝の祖父)」が奥州を平定して鎌倉に帰り、出陣に際しご加護を祈願した先祖ゆかりの京都「石清水八幡宮」を勧請して由比ヶ浜辺に創建したそうであるから、きっと藤原行成の字も写されたもので似て当然なのかもしれない。
なお、鶴岡八幡宮は、1180年(治承4年)に「源頼朝」が現在の場所に遷した。
一ノ鳥居をくぐって、右手には<放生池>があり、夏には睡蓮や蓮、河から移植した“あさざ”が可憐な黄色い花を咲かせる。“あさざ”は絶滅危惧種なので、夏に訪れたのなら必見だ。

しばし放生池を眺めたところで、“参道ケーブル”を利用するため、駅方面に引き返すことにした。参拝する本殿があるのは、男山の山上なのである。
― 続く ―
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