<黒川温泉(1)>
「いま熊本の市内をそちらに向かって走っていますので、到着は七時ごろになり
そうです」
今日のスケジュールがきつすぎて、黒川温泉の宿への到着が大幅に遅れそうなの
でわたしは信号待ちを利用して電話をいれた。
なにしろ、鹿児島の指宿温泉を出発して知覧武家屋敷、磯庭園、霧島神宮を廻っ
て、一番近い宮崎県のインターから高速道路にのって黒川温泉に向かったのであ
る。
「そうですか、わかりました。ただ申し訳ありませんが、到着したらすぐの夕食に
なりますがよろしいでしょうか」
「それでけっこうです」
「気をつけてお越しください。お待ち申しております」
あともう少しで黒川温泉だな、と思ったところで「大観峰(だいかんぼう)」の
道路表示をみて懐かしくなり、ハンドルを切って寄り道をしてしまう。
時間が遅すぎたのだろう、突端の前でゲートがしまっていたので、その前で車を
とめて景色を眺めることにした。
視界が薄ぼんやりしているが、それでも外輪山の最高所から一望する阿蘇の雄大
な景色である。
宿にはぎりぎり七時前に着いた。
(いよいよ、黒川温泉に泊まるのだな・・・)
黒川温泉に来たのは三度目か四度目だ。
近くの南黒川温泉の高そうな宿には泊まったことがあるのだが、黒川にはいつも
日帰り入浴だけで泊まるのはこれが初めてなのだ。
わたしには宿代の基準があって、黒川温泉とはなかなか折り合えなかった。もち
ろん人気のせいで予約がとりにくいのもある。今回の宿は平日なので基準以内に
おさまったのだ。南黒川温泉の高そうな宿に泊まったのは、オープン特別価格で
あったからである。
石段を降りきったところが宿の玄関で、その前に足湯の小屋があった。
部屋に案内されると、仲居からおきまりの説明を受ける。長々と注意事項をいう
のはいいのだが、語尾の「・・・ませ」だけが強調され繰り返すのが気になって、
話しの中味が残らず妙に耳障りだった。
窓の外をみると、夕暮れがもうそこまできていた。
ひと風呂も着替える間もなく夕食となった。とりあえず冷蔵庫からビールをとり
だし、ひと息で飲み干した。
料理が全部並んだところを見計らって、やっと着替えることができた。やはり、
浴衣でないとくつろげない。
料理では、馬刺しがおいしかった。
実は生まれて初めて、馬刺しを「美味しい」と思ったのである。いつもまったく
食べずに残していたのだが、新鮮で旨そうな刺身であったので箸が勝手に向かって
しまったのだ。
鹿もうまいが、馬もけっこううまい。これで、ようやく馬刺しが食べられるよう
になった。嬉しいことだ。
あと、ステーキも美味しかった。
あわただしい夕食が終わると、その旨フロントに電話をいれていよいよ温泉に
向かう。
廊下と階段の端が、かなりの幅をとって健康サンダルのような細工が施されて
いる。不健康なわたしはそこを踏まないようにして歩いた。
フロントの前を通り、もうひとつ階段をおりたところに温泉があった。男女別の
大浴場と貸切りの家族風呂がいくつかあるそうだ。
まずは大浴場である。
顔蒸し温泉は珍しい。
蓋を開いて顔を押しつけると、目の前を高温の源泉が流れていて、その蒸気で
顔を蒸す仕組みである。女性にはすこぶる好評だそうだ。やってみたが、息が苦し
くなってあっという間にギブアップしてしまう。
内風呂は石造りで、新鮮な硫黄泉であふれていた。
手早く掛け湯をして、湯に身を沈めていく。
ああ、気持ちいい・・・だれもいないので思わず声を洩らしてしまう。硫黄だけ
でなくひとすじ金属が混じったような匂いがするいい温泉である。
露天風呂のほうは、どちらかというと半露天風呂だ。
スロープのようにだんだんに深くなっていく。途中で温泉成分の溜りを踏んで
ひっくりかえりそうになって、ちょっと慌てた。
めぐらせた柵の向こう、夕暮れの底のほうには黒川温泉の宿の屋根の群れが静か
にならんでいた。
― 続く ―
→「知覧武家屋敷(1)」の記事はこちら
→「両棒餅」の記事はこちら
「いま熊本の市内をそちらに向かって走っていますので、到着は七時ごろになり
そうです」
今日のスケジュールがきつすぎて、黒川温泉の宿への到着が大幅に遅れそうなの
でわたしは信号待ちを利用して電話をいれた。
なにしろ、鹿児島の指宿温泉を出発して知覧武家屋敷、磯庭園、霧島神宮を廻っ
て、一番近い宮崎県のインターから高速道路にのって黒川温泉に向かったのであ
る。
「そうですか、わかりました。ただ申し訳ありませんが、到着したらすぐの夕食に
なりますがよろしいでしょうか」
「それでけっこうです」
「気をつけてお越しください。お待ち申しております」
あともう少しで黒川温泉だな、と思ったところで「大観峰(だいかんぼう)」の
道路表示をみて懐かしくなり、ハンドルを切って寄り道をしてしまう。
時間が遅すぎたのだろう、突端の前でゲートがしまっていたので、その前で車を
とめて景色を眺めることにした。
視界が薄ぼんやりしているが、それでも外輪山の最高所から一望する阿蘇の雄大
な景色である。
宿にはぎりぎり七時前に着いた。
(いよいよ、黒川温泉に泊まるのだな・・・)
黒川温泉に来たのは三度目か四度目だ。
近くの南黒川温泉の高そうな宿には泊まったことがあるのだが、黒川にはいつも
日帰り入浴だけで泊まるのはこれが初めてなのだ。
わたしには宿代の基準があって、黒川温泉とはなかなか折り合えなかった。もち
ろん人気のせいで予約がとりにくいのもある。今回の宿は平日なので基準以内に
おさまったのだ。南黒川温泉の高そうな宿に泊まったのは、オープン特別価格で
あったからである。
石段を降りきったところが宿の玄関で、その前に足湯の小屋があった。
部屋に案内されると、仲居からおきまりの説明を受ける。長々と注意事項をいう
のはいいのだが、語尾の「・・・ませ」だけが強調され繰り返すのが気になって、
話しの中味が残らず妙に耳障りだった。
窓の外をみると、夕暮れがもうそこまできていた。
ひと風呂も着替える間もなく夕食となった。とりあえず冷蔵庫からビールをとり
だし、ひと息で飲み干した。
料理が全部並んだところを見計らって、やっと着替えることができた。やはり、
浴衣でないとくつろげない。
料理では、馬刺しがおいしかった。
実は生まれて初めて、馬刺しを「美味しい」と思ったのである。いつもまったく
食べずに残していたのだが、新鮮で旨そうな刺身であったので箸が勝手に向かって
しまったのだ。
鹿もうまいが、馬もけっこううまい。これで、ようやく馬刺しが食べられるよう
になった。嬉しいことだ。
あと、ステーキも美味しかった。
あわただしい夕食が終わると、その旨フロントに電話をいれていよいよ温泉に
向かう。
廊下と階段の端が、かなりの幅をとって健康サンダルのような細工が施されて
いる。不健康なわたしはそこを踏まないようにして歩いた。
フロントの前を通り、もうひとつ階段をおりたところに温泉があった。男女別の
大浴場と貸切りの家族風呂がいくつかあるそうだ。
まずは大浴場である。
顔蒸し温泉は珍しい。
蓋を開いて顔を押しつけると、目の前を高温の源泉が流れていて、その蒸気で
顔を蒸す仕組みである。女性にはすこぶる好評だそうだ。やってみたが、息が苦し
くなってあっという間にギブアップしてしまう。
内風呂は石造りで、新鮮な硫黄泉であふれていた。
手早く掛け湯をして、湯に身を沈めていく。
ああ、気持ちいい・・・だれもいないので思わず声を洩らしてしまう。硫黄だけ
でなくひとすじ金属が混じったような匂いがするいい温泉である。
露天風呂のほうは、どちらかというと半露天風呂だ。
スロープのようにだんだんに深くなっていく。途中で温泉成分の溜りを踏んで
ひっくりかえりそうになって、ちょっと慌てた。
めぐらせた柵の向こう、夕暮れの底のほうには黒川温泉の宿の屋根の群れが静か
にならんでいた。
― 続く ―
→「知覧武家屋敷(1)」の記事はこちら
→「両棒餅」の記事はこちら
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