ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

記念詩 「生まれ故郷―碇ケ関」を訪ねて (2011年7月)

2020-09-22 15:03:56 | 詩・コラム
2011年7月、生まれ故郷である青森県平川市碇ケ関を初めて訪ねました。碇ケ関支所長であられた花岡様、職員であった黒滝様には生涯返すことのできない大きな恩を受けました。



記念詩 「生れ故郷―碇ヶ関を訪ねて」


 1.キャッスル号に乗って



東北のウリハッキョでの慰問公演を終え
弘前行きの キャッスル号に乗り込んだ

ついに 行くのだ 碇ヶ関に
夢にまで見た 生まれ故郷に

62年もの 長い間
心のどこかで いつも気がかりだった

何処で どんな所で生れたのだろう 私は
いつかは いつかは 探しに行かねば…

果てしなく続く田園風景 青さが目に染みる
トンネルを何度も潜りぬけ 高速バスは行く

「碇ヶ関まで27キロ」 掲示板の文字に
ドックン ドックン 鼓動が高鳴りはじめた 

左下に集落が見える 赤茶っぽい屋根の建物に
はっきりと書かれた 「碇ヶ関温泉郷にようこそ」

一瞬に通りすぎてしまった だが まぎれもなく
私は向かっているのだ 人生の出発点に!



記念詩2.碇ヶ関駅にて

           
弘前から奥羽本線のワンマンカーに乗り
4つ目の駅で降りた 碇ヶ関だ

小高い山に囲まれた 静かな佇まい
見渡す限り 青々とした田畑 リンゴ畑

大正の頃から変わりが無いという
碇ヶ関駅のホームに 立ち尽す

上野発青森行きの 蒸気機関車に乗って
オモニも降りたんだね このホームに

激しい 陣痛に耐えかねて
姉と次兄を連れ やむなく降り立った駅

どんなに心細かっただろうか
頼る人も知る人もいない この駅で

階段を一段一段上り渡り廊下を歩く
階段を一段一段下り出口に向かう

駅員も見当たらない小さな駅
切符を受け取る人もいない駅

62年の歳月を経て 今 ここに立つ
オモニのお腹にいた私が ここに立つ





記念詩3.日曜日の碇ヶ関支所


          
丁度1ヶ月ほど前 FAXを送った
インターネットで捜した 碇ヶ関総合支所に

「私の 生まれた場所を 探してください。
 碇ヶ関の小さな自炊旅館だったそうです。」

手がかりは ただ それだけ 
雲を掴むような おはなし

なのに 総合支所の皆さんは
自分事のように涙し 探し続けて下さった

仙台へ出発する二日前 ついにきた 嬉しい便り
「見つかりました!着いたら支所に来てください」

日曜なのに と 心配する 私に
何時でも良いから と 仰る 黒滝さん

こんな偶然があるだろうか
予約した宿が 総合支所の 隣だったなんて

宿に着くなり向かった 総合支所で
支所長さんと黒滝さんが 暖かく迎えてくれた

沢山の資料、地図、特産物、リンゴ、生ジュース
碇ヶ関の ネーム入Tシャツまで 着こんで

70匹もの 蛍まで 準備してくれていた
碇ヶ関の夜を 蛍と共に 過ごすようにと…





 記念詩4.星空に抱かれるように 

          

高さ15CMほどの ガラス瓶の中に 
田んぼで取ったと言う 70匹の平家ホタル
蓋には 「ホタルのホテル」と 刻まれていた

昨日の夜 田んぼの近くまで 車を寄せ
ウインカーを チカチカ 点滅させて
集まってきた 蛍を 一気に 詰めたそうな 

夜中の12時 全ての電気を消し
布団に横たわったまま じっと 見つめる
蛍たちが踊りだした 右に左に ぐるぐると

真っ暗闇の中 ホタルが放つ光が
ガラス戸や鏡に反射して作った 幻想的な空間
夢を見ているような 嬉しい錯覚

視力の弱い事が こんなに 効を奏するなんて
まるで 霧の中 湖の傍に 佇んでいるよう
満天の星空に 抱かれているよう

遠い昔 星降る夜 オモニが作ってくれた浴衣を着て 
近所の綾ちゃんと 盆踊りに出かけた日の事が
なぜだか 浮かんでは消え 消えては浮かんだ

花岡支所長さんの 優しい 思いやりが
生涯忘れる事の無い 幸せな夜を くれた
生れ故郷での初めての夜を 心に刻んでくれた




記念詩5.白沢の水場  

   
          
「こちらです」 朝 支所長さんの声
碇ヶ関支所から車で5分ほどのところ
私が生まれたという 木賃宿の跡地

雑草が茂る空き地だ 思ったより小さい
左横はすぐ山のふもとだ 線路跡がある
汽車が通るたび 家が揺れたそうだ

入り口に 白沢の水場 生命の水場     
山から管を通して 引っ張ってきた水 
江戸時代から 流れ続ける 白沢の水

水道のなかった 昔も今も 共同の水場 
木賃宿の客人も ここで顔を洗い洗濯をし
井戸端会議に花を咲かせた 貴重な場所

オモニもこの水で 炊事洗濯をしたのか
私のオシメを洗い 時には沐浴もさせてくれ
6ヶ月間 触らぬ日がなかった 白沢の水

手を伸ばし触って見た 冷たい!
初めて実感する 生れ故郷の感触
脳裏に浮かぶ セピア色の オモニの顔写真

何度も何度も触ってみる
手のひらで水を受け 口に含んでみる
おいしい! 涙と一緒にごくっと飲み込んだ




記念詩6.花岡チエさんとの対面



「外崎さんの おばちゃんはね
それはそれは 優しい人でしたよ」

捜していた木賃宿の隣で生れ育ち 今も住む
花岡チエさん 3代続いた教員の家に生れた方
私よりも一回り年上の ほっそりした上品な方

旅館代の払えない貧しい人々が 通りすがら
この木賃宿に泊まったそうだ 部屋は4つだけ
子供さん二人抱えて 宿を営んでいた外崎さん

チエさんの話を聞きながら オモニの話を思い出す
駅を降り 大きなお腹抱え当ても無く歩いていた時
1人のお婆さんが うちにおいでと言ってくれたと

部屋に入って間もなく 産婆を待つ時間も無く
私が生まれ へその緒を自分の歯で噛み切ったと
この方に会っていなかったら オモニは?私の命は?

「間違いないわ。この辺で木賃宿はここだけだし
 外崎のおばちゃんなら 必ず 助けたはず!」

有難うございます 花岡さん 生きていてくれて
あなたのおかげで やっと 見つけました
紛れも無い 私のルーツ 生れ故郷の住所を!

「青森県平川市碇ヶ関160番地の5」
命の恩人 外崎さん 証人の 花岡チエさん
手を握り 涙しながら喜び合った 感動の瞬間!





記念詩7.碇ヶ関支所での朗読会


         
花岡チエさんとの感激の対面のあと
興奮覚めやらぬまま 支所に戻った
支所の皆さまが開いて下さった朗読会

「朝鮮学校無償化除外反対」を訴える為
生れて初めて日本語で書いた 詩 <ふるさと>
広島、東京、京都、奈良、大阪の朗読会で、集会で
幾度と無く朗読しつづけてきた 詩 <ふるさと>

その詩を 今 <ふるさと>で 朗読するのだ
足も声も震える こんなこと初めてだ
夫の優しいフルートがそっと励ましてくれる

「生まれ育ったところが故郷だと
 誰が言ったのだろう
 私には故郷なんてなかった
 ふるさとがなかった… 」

誰が想像したであろうか
生れ故郷の 碇ヶ関で 
この詩を朗読する日が来るなんて

この詩を詠むたび 思ってた
誰に 私の悔しさがわかるものかと
誰に 私の悲しみがわかるものかと

だが今 私の胸に迫るものは 感謝の気持だけ 
こんなに 素晴らしい村で生れただなんて
こんなに 素晴らしい人々がいただなんて…







記念詩8.三笠山に登って


            
青々としたアカシヤ あちこちに見える天然杉
白く可憐なリンゴの花に囲まれて
少年期をここで過ごした 葛西善蔵の文学碑

到る処にあじさいの花が 明るく咲いている
支所長さんらが 学生の頃 植えた苗が
ブルー、ピンク、薄紫の花を 毎年咲かせる

三笠山の山頂から 碇ヶ関村の全容が見える
バスの中から見えた「碇ヶ関温泉郷にようこそ」が
総合支所の裏壁だったなんて 嘘みたい

赤、青の屋根が目に付く 全てトタンだそうだ
寒い冬に雪が滑り落ちるよう 工夫されている
碇ヶ関は二つの山脈に囲まれた盆地だったんだ

室町時代から 関所のある宿場町として栄え
村を流れる平川の清水、果てしなく広がるりんご園
豊かな自然といで湯に恵まれた 閑静な里

人口2、800人にまで減ったけど
村に対する誇りは誰にも負けない
黒滝さんも支所長さんも碇ヶ関の人だ

「おまえはリンゴ畑で拾ってきたんだよ。」
言われるたび 青森に帰るから電車賃をくれと
駄々をこねた 昔がほんに懐かしい

「おーい 碇が関ー 私はついに来たよー」
叫びたい気持ちを抑え リンゴ畑を歩き続けた













記念詩9.三笠食堂で



「この村で一番古い三笠食堂で
 お昼をいただきましょう。」

支所長さんにつづいて食堂に入る
昭和の雰囲気が漂う 古いお店
アルバムや雑誌なんかも置いてある

壁に貼られた大きなポスター
<自然薯ラーメン> 美味しそうな響き
「私これにします」 結局 皆このラーメン

ラーメンを待っている間 話が行き交う
今日の朝訪ねた 花岡さんのお父様に
ここのご主人も 習ったそうな

アルバムを見ていると分かる 大正時代の様子
昭和の時代の平川や橋、馬車まで走っている
大阪から生れ故郷を探しにきたと紹介される

「木賃宿の名前がわからんのです」
「あぁ、白沢の水場の木賃宿かね、大黒屋さんや
出前頼まれて よう行ったから間違いないわ」

大黒屋?大黒屋?! 役場でいくら調べても
最後までわからず 諦めかけていた屋号が
こんなにも簡単にわかるなんて 奇跡?偶然?

碇ヶ関に来てビックリすることだらけ
ひとつの 大家族のような村 
血の通い合う 暖かい 私の生れ故郷!



記念詩10.碇ヶ関の名所を巡る


           
三笠食堂の2代目店主 阿部さんから
貴重な証言を頂いた後 たけのこの里に向かう

樹齢200年の大杉の前に佇み 仰ぎ見る
しばし時を忘れ 森林の心地よい香りに酔った

春は山桜が咲き乱れ 夏は楽しい渓流釣り
秋は紅葉、バーベキュー、温泉も楽しむ贅沢さ

コテージが素敵 中に入るとまるで我が家のよう
「来年の秋 姉や兄と 必ず泊まりに来ます」

つい口から出た言葉 でも嘘じゃない 本当だ
何回でも来たい処 小川のせせらぎが心地よい
 
帰って報告すればどんなに喜ぶことだろう
家族みんなで行こうと 言うかも知れない

再び 碇ヶ関駅に戻り写真を撮る 心に刻む
駅隣の 屋内村民プール遊泳館にも立ち寄る 

かけ流しの温泉がある 道の駅いかりがせき
移築した関所の面番所で 江戸時代にタイムトラベル

たけのこの瓶詰め,自然薯そばに青森りんごきらら 
お土産もどっさり 大満足 ポッカリ雲が笑ってる

碇ヶ関の全てを持って帰りたい 大阪に
7色の温泉が 又おいでと 湯煙を立てている







最終章。果てしなく続く旅


          
大阪に向かう飛行機の中で ずっと考えた
私はなぜ 碇ヶ関を 捜し続けたのだろうか
私はなぜ 生地に こだわり続けたのだろうか

人は皆 生地を持つ しかし 選ぶ事は出来ない
ましてや 私は異邦人 流れ流れて 着いた村
昨日今日の話では無い 遡れば 100年も前だ

国を奪われ やむなく祖父が日本に渡り 
祖父を頼って日本に来た父は 母と出会った
職も無く 転々と彷徨う中で 生まれた 私

外国人登録証なるものを初めて見た中学生の時
両指10本の指紋をとられながら 私は思った
私は罪人か? 一生 これに縛られるのかと

心のどこかでいつも 怨んでいた
国を奪ったもの達を 離散家族を作ったもの達を
チマチョゴリも自由に着て歩けない この国を

60年もの間 かたくなに心を閉ざし
決して許す事はなかった 祖父の足を奪った輩
出生地も 知らぬまま 生まれ育った 悔しさを  

がむしゃらに勉強をした ウリマルの勉強を
誰よりも自分の国の言葉を上手に喋りたいと 
異国生れを 下手な口実にはしたくなかった

定年を迎え ふと 我に返ったとき 思った
生れた場所も知らないまま 死んで行くのかと
子供たちに伝えねばならぬものは なんなのかと

心優しい人々が住む 碇ヶ関で 命を授けられ
今もなお 心豊かな この村の人々の お陰で
ルーツを探せた感激、喜び、深まる感謝の気持ち

その想いが強いほどに 私は思うのだ
私の祖父、父、母が生まれ育った誠の故郷を
一度も見ないまま ただ年を重ねるべきなのかと

植民地に継ぐ 南北の分断はあまりにも長すぎた
個々の悲しみに背を向け 頑張り続けた半世紀
背中の丸くなった長兄は 未だ1人で済州島に

必ず捜しにいかねば 堂々と 胸を張って
民族の誇りを守って生きてきた 60年を
決して無駄には出来ない 決してしまい

果てしなく旅は続く でも私の足取りは軽い
必ずや 統一を迎えた故郷で 家族が集い
碇ヶ関でのことを 笑いながら話せる日は来る!

碇ヶ関の人々がそうであったように
私も民族や国籍に拘らず 困った人を助け 
日朝の架け橋になろうと 静かに誓った


          終



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月15日、397回目の「火曜日行動」です。

2020-09-15 17:23:00 | お知らせ
爽やかな秋晴れの下、397回目の「火曜日行動」が行われました。



今日のレポーターはハルモニ会の陶山さんです。



写真撮影は松尾さんです。今日も元気に発信してまいりましよう。



長崎由美子さんの第一声始まりました。

長崎さん

今日は秋晴れの、厳しい残暑が続いた後の、風がさわやかな一日となりました。397回目の火曜日行動です。

朝鮮学校で学ぶ子どもたちの笑顔と夢を大人が奪わないでほしい。大阪府が全国に先駆けて支給してきた朝鮮学校への補助金を打ち切ってもう10年が経とうとしています。

私たちがこの場で、大阪府の補助金の復活、高校の無償化の適用、そして昨年からはすべての幼い子どもたちの育ちを応援する幼・保無償化、これからも朝鮮学校の幼稚園が排除されていることに対して、一日も早く当たり前の権利として取り戻していきたいという思いで、今日もたくさんの人たちが集まって、声をあげています

いつもご苦労様です。いろんな方々が参加しておられます。自分の子どもさんお孫さんをハッキョに送り、民族教育を支えてきた朝鮮学校の皆さん、そして多くの日本人の皆さん。朝鮮学校の問題は私たち日本社会が、私たち日本人が、差別を認め、差別のある社会をつくることで日本人自身が傷ついていく、そんな思いでいろんな立場の人が参加しています。教会の関係の方々もたくさん参加されています。平和の問題、障がい者との共生、沖縄の辺野古の問題、そんな日本社会の中で人間が誇りを持って生きていきたい。そんな運動にかかわってきた方々がたくさん参加されています。

コロナの中で貧困と格差の問題が浮き彫りになってきました。今回菅首相が、自助という言葉を真っ先に出しましたけれども、今までできる限り自分の力で成し得ることはしてきた。仕事がない、家がない、そんな中でどうやって自助だけでやっていけばいいのかと、そんな思いを抱えた人たちが、この大阪府・大阪市のコロナ対策の在り方にも、きちんとみんなと一緒に声をあげよう、一緒に生きていこう、そんな葛藤をされる方々も、ここに来ています。


昨日大阪高裁で下された判決で、京都にある朝鮮学校に在特会がやってきて、朝鮮学校の子どもたちに対して、スパイの養成学校であるとか激しいヘイトスピーチを浴びせました。これに対しては一度判決が下り1200万円を超える損害賠償が最高裁でも確定しています。今回の名誉棄損の裁判は、京都地裁の1審で名誉棄損、ヘイトスピーチは認めたものの、拉致問題を語ったことが公益性があると判断されたのが大きな怒りをかいました。

傍聴に入られた方から報告を受けます。




火曜バンドは不滅です。今はコロナ感染を予防してチラシの配布をしていないので、皆さんこぞって火曜バンドに参加されています。今日は13人です。



中山さんが昨日傍聴された裁判について報告されました。

中山さん

私は東成区にある中大阪朝鮮初級学校を支援している日本人です。私は大阪府民・大阪市民としてそして人間として、朝鮮学校を差別する行政の理不尽さに抗議して、8年前からここに立っています。

もうすぐ70才になります。70才になってもこのように府庁の前で民族差別に抗議するのは本当に残念です。このような大阪府の情勢そして日本政府の理不尽な朝鮮学校への差別を絶対に許しません。

昨日の京都朝鮮学校のヘイト裁判を傍聴しました。その裁判は在特会というヘイト集団が京都朝鮮第1初級学校の跡地の前で、朝鮮学校への誹謗中傷のマイク宣伝を行いました。これが朝鮮学校の名誉棄損に当たると起訴されて、高裁判決が昨日あって、その暴言を吐いた人物に対して名誉棄損罪が適用され、有罪判決が下されました。名誉棄損罪というのは大変重い刑罰です。

今までこのような差別問題で起訴された場合、多くが侮辱罪で、名誉棄損罪よりも低い量刑の判決でした。名誉棄損罪は最高懲役3年という重い罰です。これは意義ある判決だと思います。しかし京都地裁の判決では、拉致問題の解決に寄与する公益性を持っているという被告側の主張を全面的に認めたものでした。

このようにヘイト宣伝、朝鮮学校に対する差別、朝鮮人に対する差別的な言動を裁判所が容認しました。これは非常に重たいものです。

これからこの差別者集団はこの判決を錦の御旗にしてどんどん活動をエスカレートするかもしれません。そのことを日本の司法は謙虚に受け止めて、九州と広島の無償化裁判が闘われていますが、このような日本の朝鮮差別、朝鮮人への差別を許さない風土、政治状況を作っていかなければならないと思います。

先日アメリカでは大坂なおみさんは全米テニス大会で優勝しました。この時7枚のマスクを持って参加されたそうです。決勝まで7回。アメリカで黒人の人たちが人種差別で殺された、その7人の名前を記したマスクを着用して参加し優勝しました。彼女は1テニスプレーヤーである前に黒人の女性であると言いました。これが今のアメリカの現状であり、世界の常識だと思います。

しかし日本では、大阪さんの行動に、スポーツに政治を持ち込むなとか非難する論調がマスコミでありました。非常に悲しく残念でなりません。このような日本のマスコミ・司法・行政、なぜ朝鮮学校を差別するのか在日朝鮮人を差別するのか、それは元大阪市長であった橋下さんが、以前、暴力団と同じ民族団体と関係を持つ朝鮮学校には補助金を出さないと言ったことに発端があると思います。

このように朝鮮学校、朝鮮の民族団体を違法な無法な団体と行政が規定してよいのでしょうか。このような思想を断じて許しません。

私は日本に住む1市民として人間として、このような差別的な構造を打ち破っていく活動を続けていく決意です。

*いい忘れたこと。(FBから転載)

「1968年のメキシコオリンピックの時、200メートルで金、銅メダルを獲得したアメリカの黒人選手が、黒い革の手袋をはめて、拳を突き上げて表彰台に立ちました。顔はうつむいたままです。二人はアメリカの国歌斉唱の時にこの抗議の意思を表明しました。銀メダルの欧州の白人選手も二人と同じ人種差別に反対のメダルを付けたといいます。その後、アメリカの黒人選手はメダルを没収され、アメリカの陸上競技から永久追放されました。52年前のアメリカはこのような状況でした。しかし、現在は大坂選手の行動が競技団体からも支持されるとこまで前進しています」

「報告会で京都の弁護士が、ヘイトの宣伝活動の警備で来ていた年配の警察官が、”子供に拉致の事を言ってもわからんし、関係ないやろ”と言っていたことを紹介されました。普通は、そう思うのが常識です。どうして、裁判官は朝鮮学校へのヘイトの街宣が公益を目的としか活動などと言えるのでしょうか」





大村さんも続いて昨日の裁判についてお話しされました。

大村さん

公的差別が続いています。昨日のヘイトスピーチの裁判、傍聴しました。

その前の結審の時も傍聴しましたが、被告の男性はずかずかと入ってきてバンと座って、弁護士が言うのには、京都朝鮮学校に向かって言ったのではなく朝鮮学校一般を指しているのだというわけです。

朝鮮学校一般をさしていたら何を言ってもいいのでしょうか。名誉棄損ということでそのことについては判決が出ました。罰金刑が科せられました。

彼は2009年12月4日、学校の門の前でたくさんの在特会と称する人たちと一緒にすごい発言を繰り返したわけです。その言葉を聞いたときに体が震えるような発言です。その時聞いた子どもたち、今10年経って、その時の初級学校の子どもたちは大人になってるし、大学生になっていますが、今もその時のことを思い出すとトラウマ状態に陥っているそうです。夜も時々思い出すと眠れない。

最初の件に対しては2014年に、保護者や先生方、支援者で裁判をおこし勝訴しました。罰金刑です。それ以後、有罪判決を受けていた男性が、学校の跡地に来て、学校の校長は拉致問題に加わって拉致をしていったんだ、そんな発言をして、それを動画にしてみんなに発信したわけです。そのことについての裁判でしたが、拉致問題を取り上げたことについては公益性があるということで認められるのです。本当におかしな話です。

今大阪の朝鮮学校に対して補助金が不支給になっていますが、この発端は、前前知事の橋下知事が、ヘイトスピーチを行ったのです。北朝鮮は不法国家だ。北朝鮮は暴力団だ。そしてその国と結びついている朝鮮総連に対するヘイトスピーチ、それとつながって朝鮮学校に対する差別発言が続き、そして朝鮮学校への補助金を不支給としたわけです。このように行政のトップに立つ人間がヘイトスピーチを平然と行っている。だから拉致問題を取り上げれば公益性がある。

報告集会で女性の弁護士さんが、本当に公益性が認められたということについて非常に怖い、日本の中で生きていくのが怖い、自分の子どもは朝鮮学校に今行っているけど、そういうことを表に向かって言えないとおっしゃっていました。

また、2009年当時のオモニ会会長さんが、その時のことがずーっと連続的に続いている、この問題を思うと本当に日本社会がもっともっと変わってほしいという思いでいっぱいだと涙ながらにおっしゃいました。

日本人は何気なく言っている言葉が、それは何気なくじゃなく差別を誘引して、日本に住む在日の人たち、在日外国人に対して、痛みを覚えさせているのではないでしょうか。これをちゃんと後押しするのが昨日の裁判結果だと思います。

名誉棄損でこの男性は50万円の罰金刑となりましたが、片方でそういった発言について公益性があると司法が判断を下した、こういう社会は変えていかなければいけない、そういう思いで報告集会でいろいろ話を聞かせてもらいました。公的差別を無くしてほしい、これが私たちがここに立って訴えていることです。




「あんたら気つけやー」のアギさんのアピールです。

オモニ アギさん

今日もしっかり聞いていただきたいです。今9月、運動会のシーズンです。今年はコロナで時間が短くなったり、見に行ける人数が制限されたりと限られた中ですが、子どもたちは青空の下で、練習、精一杯頑張っています。

下の子は年中なんですが小さい体で大きなフラフープを50回回せるんだと得意げに家で見せてくれました。ほんとにそんな姿がかわいくて、朝鮮学校の幼稚園でのびのびと育っているのだと実感する毎日です。

補助金のこと、無償化のこと、もう一度考えてみました。私がまだ母親になっていないころ、高校無償化が適用されたとき、ある高校で貼ってあった、「社会があなたの学びを支えます」 そのあなたの中に朝鮮学校の子どもたちが入っていないことに対して、本当につらい思いをしました。それは今もずーっと続いています。

つらい思いのまま卒業していった子どもたちがたくさんいます。子どもたちのつらい姿を見て傷ついている保護者がたくさんいます。そして今、幼稚園です。3歳の子が社会からのけ者にされたという事実を、まだ理解できない3歳の子どもがされています。その子どもを持つ親として、どれだけ悔しくてどれだけ悲しくてどれだけやるせないか、社会の中で透明人間扱いされているということ。でも私たちはこの国で生まれ、育ち生活して大阪の、大好きな大阪っ子として生活しています。

社会は子どもたちを未来の宝として一生懸命育てていると思います。その子どもたちの中に私たちの朝鮮学校に通う子どもたちもいます。ハングルの言葉で歌う歌や日本語で歌う童謡の歌や、どちらをうたっていても私の子どもはとてもかわいいです。でもこの日本社会の中で朝鮮人、在日朝鮮人としての自分をありのままに受け止めてくれ、それを肯定する心を養ってくれる場所は、今、朝鮮学校が一番大事な場所として私はそう感じています。なので、朝鮮学校で朝鮮の子どもたちが朝鮮人としての心を育む場所としての大事な場所、それを社会の豊かさの一つとしてしっかりと大きな器で政治が行政が受け止めてくださることを強く強く求めます。

10年前15年前まで続けていた補助金、もう一度復活を見直してもいいころではないでしょうか。今からでも3才の子どもたちに、大阪でもちゃんと支えてあげるよという姿勢を見せていただけたら、もっと大阪を大好きになり、もっとこの世の中のためにできることは何かなと、そういう気持ちでいっぱいになります。その中で一緒に豊かで幸せな楽しい大阪を、一緒に造っていきたいです。なので、私たちを透明人間扱いせずに、しっかりとみてください。文化祭や公開授業があるときはぜひ見に来てください。どうぞよろしくお願いします。

長崎さん

生野朝鮮初級学校は11月28日に公開授業できることになりました。今までのように、残っての食事会や、たくさんの交流はできませんけども、ぜひ子どもたちのありのままの姿を見て、ありのままの自分を認めて輝いている姿を見てください。

そして今行われている差別が理不尽化ということを知っていただけたらと思います。





大阪中高に娘さん二人を送っていらっしゃる金さんもマイクを持たれました。

オモニ

大阪福島地域から来ました。大阪朝鮮中高級学校に子ども二人を通わせているオモニです。

先ほどから出ている公益性について考えてみたのですが、最近、大坂なおみさんが黒人の方で射殺された方の名前を書いたマスクをしながら、命を背負って全米オープンに参加しておられました。

その姿を見ていろいろ批判もあったそうです。政治的なことにテニスプレーヤーが参加すべきではないという批判もあったそうですが、大坂なおみさんは、これは人権問題だ政治問題ではないと言っていました。

朝鮮学校に対する問題は政治問題でしょうか。子どもたちが朝鮮民族に生まれて朝鮮語を学ぶという基本的な人権の問題ではないかと思います。朝鮮学校に対しての差別が公益性があるということに関しては、極端に言うとアメリカの黒人差別と共通性があると思います。公益性の公とは何でしょうか。その時の権力者の公ではないでしょうか。公益性が拡大解釈されることは無いでしょうか。そのように感じています。

私たちの訴えることはただただ人権問題です。子どもたちが朝鮮人として朝鮮語を学び文化や歴史を学ぶ、そのことによってプライドを持ち、生きていくという基本的な問題です。それを政治的な問題にしないでいただきたいです。公益性を政治に利用しないでいただきたいです。それを切に願いつつ、いつかは必ず届くと思い、声が届くと思って日本の方々と続けていきたいと思います。





全員でのシャプレヒコールと合唱「声よ集まれ 歌となれ」です。

シュプレヒコール

・子どもたちの学ぶ権利を保障せよ
・朝鮮学校の子どもたちを差別するな
・朝鮮学校に高校無償化を適用せよ
・朝鮮幼稚園に幼・保無償化を適用せよ
・行政が差別するな





最後の歌は歌舞団のカンさんの音頭で「勝利のその日まで」

❗️❗️


駐輪場での申し送りです。



府庁内ロビー活動の報告をカンさんが行い、皆さんがいろんなイベントの紹介をされました。チラシを見てくださね。



来週は府庁もお休みなので火曜行動も休みます。



今日はいつもと違う道から大阪城公園内を自転車で走って帰りました。百日紅(サルスベリ)が綺麗に咲いていました。

再来週お会いしましょう❗️


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩 「ふるさと」バイリンガル

2020-09-13 18:57:52 | 詩・コラム
10年前、朝鮮学校無償化除外を反対して生まれて初めて日本語で詩を書きました。




 「 ふるさと 」  

            ニョニョ

生まれ育ったところが故郷だと
誰が言ったのだろう
私には故郷なんてなかった
ふるさとがなかった

60年が過ぎた今も
両足首に残ったゴム紐の痕を見ると 
知らぬ間に涙が出る
優しかったオモニを思い出す 

北海道にいるという父を訪ねて
身重の母は姉と次兄の手を引き
幾度も幾度も列車を乗り継いだ
風呂敷包みひとつ頭に載せ

突然津波のようにやって来た陣痛
青森の小さな旅館の布団部屋で 
私をこの世に生み出してくれたオモニ 
自分の歯でへその緒を切ってくれた母

6ヶ月後に北海道に渡り
馬小屋で寝起きした日々 
函館の海でいか裂きしながら 
私達を育ててくれたオモニ

零下20度の凍て付くような浜風
私をおぶって浜で働いたオモニは
私の靴下が脱げない様
ゴム紐をきつくきつくまきつけた

青森から北海道へ
北海道から東京へ
東京からやっと京都に戻ったとき
私は5歳になっていた

生まれて初めて会ったハラボジ
空襲で1本足になったハラボジ
ハラボジのリヤカーに毎日乗って   
声張り上げた《ボロおまへんか》と
 
あの路地この路地、一緒に回った日々
いつも聞かせてくれた故郷のはなし
ハラボジが出してくれた出生届
出生地はいつの間にか京都市になっていた

家族そろって大阪に移り
りっぱな朝鮮人になれと
父、母が送ってくれたウリハッキョ
満員電車に押し込められて通った学校

初めて通ったウリハッキョは
藻川に沿った小さな小さな学校
体育の時間は広い川原でころげまわり
図工はのどかな川辺でいつも写生

麦飯とキムチだけの弁当
雨の日あちこちにバケツが並んでも
暖かい先生や友達に囲まれて
ちっともイヤじゃなかった、楽しかった

ア、ヤ、オ、ヨ…
歌う様にハングルを習い
子ども心に誓った
将来は故郷のアナウンサーになるんだと
    
ウリハッキョで学んだ日々
恋もし、喧嘩もし、悩みもしながら
進路について話し合った懐かしい日々
一度もなかった。孤独な時なんて

同胞のために頑張ろうと仕事を選び
済州島に住む長兄に会う日を夢見ながら
集会にも、デモにも参加した日々
夢は近づいては遠のいたり

疲れを知らなかった青春時代
休むことを忘れてた中年時代
突然悪夢の様に悲しみが押し寄せた日

それでも踏ん張れよと諭してくれた
それがウリハッキョ
オモニの様に温かかったウリハッキョ

生まれ落ちた場所さえ知らない私に
思い出と友と夢と勇気をくれ
愛する心を育ててくれたウリハッキョ

私にも祖国が在る事を教えてくれた
ウリハッキョはゆるぎない心の柱
私のふるさとは ウリハッキョ

決して誰も奪えない
私が通い、子供達が学び、孫達が通う
ウリハッキョ 心のふるさとを!

     2010.7

*ウリハッキョ 私達の学校〔朝鮮学校〕
*ウリマル朝鮮語 *ハラボジ祖父 *オモニ母





 「 내 고향 」
             

나서 자란 곳이 고향이라고
그 누가 말했던가
내게 고향 따위는 없었다
내 고향이 없었다

60년이 지난 지금도
두 발목에 남은 고무줄 자국을 보면
나도 모르게 눈물이 난다
자상하시던 어머니가 생각난다

홋카이도(北海道)에 계시다는 아버지를 찾아
홀몸이 아닌 어머니는 언니와 둘째 오빠 손을 끌고
몇 번 또 몇 번을 열차를 갈아타셨다
봇짐 하나 머리에 이고서

돌연 쓰나미처럼 엄습해온 진통
아오모리(青森)의 작은 여관 이불 수납실에서
날 세상에 낳아주신 어머니
당신의 이로 탯줄을 끊어주신 어머니

여섯 달 후에 홋카이도로 넘어가
마구간에서 기거하던 날들
하코다테(函館) 바다에서 오징어를 손질하며
우리를 키워주신 어머니

영하 20도의 얼어붙을 것만 같던 갯바람
나를 업고 바닷가에서 일하신 어머니는
내 양말이 벗겨지지 않도록
고무줄을 단단히 감곤 하셨다

아오모리에서 홋카이도로
홋카이도에서 도쿄로
도쿄에서 어렵사리 교토(京都)로 돌아왔을 때
나는 다섯 살이 돼있었다

태어나서 처음으로 만나 뵌 할아버지
공습으로 한 쪽 다리를 잃으신 할아버지
할아버지의 손수레에 매일같이 몸을 싣고
큰 소리로 외쳤다 “넝마 없나요?”

이 골목 저 골목을 함께 누빈 나날
언제나 들려주신 고향 이야기
할아버지가 제출해주신 나의 출생신고
출생지는 교토시 시모교(下京)구로 돼있었다

가족 모두가 오사카로 이사한 후
훌륭한 조선사람이 되라며
부모님이 보내주신 우리학교
만원전차에 실려 통학한 학교

처음 다녔던 우리학교는
모가와(藻川) 옆의 작디작은 학교
체육시간엔 강가의 넓은 모래밭을 뒹굴고
미술시간엔 화창한 강변에서 언제나 스케치

보리밥과 김치뿐인 도시락
비 오는 날이면 여기저기 양동이가 늘어섰어도
다정한 선생님과 친구들에게 둘러싸여
조금도 싫지 않았다, 즐겁기만 했다

아, 야, 어, 여……
노래하듯 한글을 익히며
어린 마음에 결심을 했다
나중에 크면 고향의 아나운서가 돼야지, 하고

우리학교에서 공부한 나날들
사랑도 하고 싸움도 하고 고민도 해가면서
진로에 대해 이야기 나눈 그리운 날들
단 한 번도 없었다, 외로울 때라고는

동포를 위해 힘써보자는 마음으로 일을 선택하고
제주도에 사는 큰 오빠와 상봉할 날을 꿈꾸면서
집회와 시위에도 참가한 나날
꿈은 다가왔다가는 다시 멀어지고

지칠 줄 몰랐던 청춘 시절
쉬는 것도 잊고 지낸 중년 시절
돌연 악몽처럼 슬픔이 밀려왔던 날

그래도 버텨내야 한다고
꼭 껴안아준
그것이 우리학교
어머니처럼 포근했던 우리학교

태어난 곳조차 모르는 나에게
추억과 벗과 꿈과 용기를 주고
사랑하는 마음을 자라게 해준 우리학교

나에게도 조국이 있음을 깨우쳐준
우리학교는 흔들리지 않는 마음의 기둥
나의 고향은 우리학교

결코 누구도 빼앗지 못하리라
내가 다니고 자식들이 공부하고 손자들이 다니는
우리학교, 마음의 고향을!

   (2010.7)

 









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再掲 手記 「祖国と共に」

2020-09-11 20:36:47 | 詩・コラム



   「祖国と共に」


 65年という歳月が夢のように過ぎ去った。

 母なる祖国が創建された年に生まれた私は、祖国の愛と息吹が沁み込んだウリハッキョで、ウリマルとハングルを習いながら民族の心を育くんだ。祖国から送られてきた初めての教育援助費と奨学金を手にした感激の日も、祖国への帰国の航路が開かれた瞬間も、自分の目で見ながら育った。

 中高級時代、祖国が歩んできた受難の歴史を深く知り、分断の痛みを全身で感じた私は、18歳の若さで専従になった。

 共和国創建20周年を迎えた年、歌舞団で働いていた私は、5つの鉄筋校舎建設に起ちあがった大阪の同胞たちの祖国愛と情熱に心打たれ、生まれて初めて詩を書いた。そのときから書きためた300余編の作品は、つらい時も楽しい時も祖国の空を仰ぎ、力いっぱい生きてきた同胞たちに学びながら書いた大切な記録であった。





 30年前、生まれて初めて祖国を訪問し、夢にまで登りたかった白頭山で、涙しながら「夜が明ける」を朗読したときの感動、学校の仕事がいくら忙しくてもウリマルをもっと深く学びたくて、文芸同文学部と演劇部に足しげく通い修業をした日々、そして6・15共同宣言が発表された後、「韓国演劇祭」に初めて招待され、故国の舞台の上で「ウリハッキョは最高です!」と高らかに叫んだ時、どれほど感無量であったことか。

 しかしやがて祖国に試練の日々が始まった。心無い人々が祖国を冒涜し、私たちの組織を潰そうとする中で、いつも祖国を信じ一筋の道を歩んでこれたのは、異国で生まれた私にも、人間らしく生きる道を開いてくれたのは母なる祖国だという思いがあったからだ。






 歳月はまさに、流水の如くながれた。おかっぱ頭を揺らしウリハッキョに通っていた私が、すでに5人の孫を持つおばぁさんである。しかし年老いたから自分の任務が終わったとは到底考えられない。分断されたままの祖国の痛みは癒えることがない。内外の心無い人々の差別や暴言が日増しにひどくなっていく。それなのにどうしてじっと座っていることが出来ようか。













 定年退職後、私は初級学校で放課後の3時間、低学年の児童たちの生活指導をしながら一緒に歌を歌い昔話もし、意義深い日々を送っている。そのかたわら時間が出来ればウリマル運動を活性化させねばという一心で、居住地域はもちろんのこと、北陸や東北にも自ら足を運び、講演や話術指導もしている。先代たちが私たちを導いてくれたように、2世のわたしたちがその精神を引き継がなければならないと思うからだ。








 
 毎朝スクールバスの停留所まで孫たちを送りながら、孫たちが学校で習ったばかりのウリマルで喋っているのを聴くと、知らぬ間に目頭が熱くなる。

 だが、情勢が悪化するたびに子供たちの将来が心配になる。受けて当然の権利を奪われてなるものかという思いが、1年が過ぎても毎週「火曜日」に大阪府庁前に私を立たせている。誰かに指示されたわけではなく、ウリハッキョを守り、ウリマルを守ってこそ私たちが異国に住んでも永遠に朝鮮人として生きることが出来ると信じているし、その道こそが、辛い時いつも力と勇気をくれた祖国と共に永久に生きていく道だと信じているからである。






 絶対に奪われてはならない物、一度失えば二度と取り戻すことのできない祖国と、子供たちの輝かしい未来のために、私は今日も自ら忙しい日々を過ごす。

                         2013・9・9

9月11日新報4面ハングル版に手記が掲載されました。






                                       


 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月8日、396回目の「火曜日行動」です。

2020-09-08 17:23:00 | 火曜日
暑いけれど時折風も吹く真夏日最後?の8日、396回目の「火曜日行動」が行われました。



今日のレポーターはハルモニ会の木村さんです。



写真撮影は、たたかいのある場所どこにでも現れる松尾さんです。



今日も力を合わせ発信してまいりましょう。



長崎由美子さんの第一声始まりました。

☆長崎さん

9月に入っても残暑の厳しい火曜日行動となりました。台風の被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
私たちは足かけ8年この場に立ち続け、このプラカードの写真に写っている生野初級の幼稚班だった子が今はもう小学5年生、当時の初級学校の生徒さんは高校生となってしまいました。

残念ながらこの8年間ずっと、国、行政ぐるみの差別が続いています。その一方で人と人との絆も強まり、広がっています。
昨年、朝鮮学校の幼稚班が幼保無償化から除外された時、これを知った韓国の支援団体が半年の期限で支援金を出してくれました。その期限が終わる時、幼稚班や学校のオモニ達が感謝の手紙を出したところ、韓国から支援金は継続するとのうれしい知らせをもらいました。支援団体の一つ「モンダン・ヨンピル」の人たちは毎週金曜日に韓国各地で呼びかけをおこなっています。

今日は朝鮮学校で育った若い人たちが来てくれています。本来この場に若者が来るのは心苦しいことですが、順番にアピールしていただきます。



今日も朝大生が先頭を切ります。2年生の林君が早速マイクを握りました。

☆若者

府庁にお勤めの方々、こんにちは。今日、私は火曜行動に参加しました。それは目の前に差別があるからです。

私たちが闘うのは憎み合うのではなく、笑い合える社会を作るためです。目の前に差別がある限り問題は続いています。町中でしゃべるのは慣れていませんが、こうした声があることを日本の皆さんに届けたいと思いました。



朝鮮大学を卒業して、今年から西大阪地域で専従として活躍している池さんがリレートークを繋ぎます。

☆若者

アンニョンハシムニカ。私は今年朝鮮大学を卒業し、今、在日本朝鮮青年同盟(チョチョン)で活動しています。

第二次安倍内閣が7年8ヶ月続きましたが、この間彼らは私たちに困難と苦痛を与えてきました。それで私たちが七転八倒すると思ったかもしれませんが、私たちは七転び八起きだと考えています。

火曜日行動は小さな行動かもしれませんが、大きなことに続いています。たとえば、先ほど述べられたような韓国からの支援金が継続されたこととか。

これからもがんばりましょう。



若者に負けるものかと平石さんもマイクを持たれました。

☆平石さん

大阪府で働く皆さん、私は1ヶ月ぶりでこの場に立ちます。ポビドン知事と雨ガッパ市長が大阪をめちゃくちゃにしてしまいました、都構想の住民投票が11月1日に決まりましたが、「勝つまでじゃんけん」だと言われています。

在日には、大きな関係があるにもかかわらず、選挙権と同様、住民投票の投票権もありません。まさにやらずぶったくりです。
都構想の問題点はたくさんありますが、まずは、なぜ一度否決されたのにもう一度するのかということです。公明党を抱き込んだから今度は勝てると踏んだのでしょうか。

しかし、都構想が成立してしまえば大阪はむちゃくちゃになります。二重行政の無駄と言いますが、他の地方ではそんなことは問題になっていません。橋下がこじつけたへりくつに過ぎないのです。

安倍が二度目の辞職をしました。後を継ぐ菅義偉は「安倍政治を引き継ぐ」と言っておりますが、ヘイトと悪行を続けてきた安倍政治を引き継ぐのですか。「安倍批判は反日」との言説がはびこっています、ヘイトをする者は政権が自分たちの味方だとわかっているのです。
そもそも総理を選ぶのに密室で決まることに諸外国のマスコミも驚いています。まさに密室・談合政治、すでに安倍と同じやり方を引き継いでいます。

私たちは断固としてこれを打ち砕かなければなりません。
火曜日行動も残念ながらまだまだ続けなければなりません。勝利の日まで闘い続けます!



火曜バンドは不滅です❗️




朝鮮大学の金太華さんが久しぶりにマイクを握りました。

☆キムさん(朝鮮大学生)

学生は国の宝です。それは日本も外国も同じです。自分のルーツを学ぶことは国連憲章でも決められた大切な権利です。

1940年代にここ大手前で大きな教育闘争がありました。これ以上歴史を繰り返さないでください。

行政はなぜ学生の学ぶ権利を奪うのでしょうか。無償化裁判で、愛知は最高裁で棄却されました。大阪では一度は勝利しました。
子どもたちの学ぶ権利のため、勝利するまで闘い続けます。





東谷さんも続いてアピールです。

☆東谷さん

昔から多くの在日の友人がいます。私や友人達の子や孫も学校に通っています。子どもたちへの教育は大切なことです。そこから未来が見えてくるのです

子どもたちをかわいがってくれる社会は大切です。

無償化を実現してください。差別はよくありません。民族教育を受けられる社会を実現してください。私たちの声を聞いてください。強く、強く思います。





長崎さんが繋ぎます。

☆長崎さん

泉佐野でこんな話を聞いたことがあります。日本の小学生が転校することになったのですが、自分の元の学校で卒業式を迎えたいと希望したところ、朝鮮学校に通っていた近所のお姉さんが手をつないで送ってくれた、その時のお姉さんの颯爽としたチマチョゴリ姿が忘れられない。ところが、チマチョゴリが切られたという報道に胸が痛んだと。

対立や憎しみをあおるのではなく共に生きることを目指す、そんな歴史もあるのです。




南大阪の劉先生もアピールです。

☆朝鮮学校の校長先生

私の子どもは、一番上は社会人で、朝鮮学校で働いています。

高校無償化から始まり、幼保無償化、大学の支援金まで、差別が広がっているのを悲しく思います。

大阪府はいったいどこに行くのでしょうか。コロナ対策では国と異なる独自の判断をしたと言っていますが、それなら朝鮮学校に対しても独自の判断で補助金を認めてほしいものです。ぜひ朝鮮学校に来てください。

コロナ対策で大変ですが、私たちは府民/市民としてできることをします。大阪府の職員の皆さんも朝鮮学校のために行動してほしいと思います。



オモニの皆さんのシュプレヒコールと合唱が始まろうとしています。

☆オモニ

火曜日行動ももうすぐ400回を迎えます。今、いろんな人からメッセージを集めているのですが、その中で最も多いのが悔しさや怒りを表明したものです。その一方で、日本人と築いた絆が財産になっているという意見も多く見られました。

私たちはまっとうな権利を訴えています。橋下に始まり、松井、吉村の知事たちはこのことを恥だと思わないのでしょうか。高校無償化、幼保無償化、補助金支給をしっかりやってほしいものです。民族教育は国際法でも定められており、憲法でも教育を受ける権利が定められています。

私は朝鮮学校に通いました。子も孫も通ってきました。道で出会う日本人とは仲良くしています。国が高校無償化、幼保無償化をしないなら、大阪府が独自にしてほしいと思います。



キャンディおばさん復活です。半年近くの間、火曜行動には参加しても愛のキャンディの配布の自粛をされていたチョグッスンさんがついに愛のキャンディを配り始めました。



☆歌とシュプレヒコール
 
『声よ集まれ、歌となれ』

・子どもたちに学ぶ権利を保障せよ!

・朝鮮学校の子どもたちを差別するな!

・朝鮮学校に「高校無償化」を適用せよ!

・朝鮮学校に補助金支給を復活せよ!

・行政は朝鮮学校を差別するな!

・子どもたちに学ぶ権利を保障せよ!


合唱「声よ集まれ 歌となれ」を引っ張ってくれる朝鮮大学の学生たち❗️



シュプレヒコールの先頭に立ちました❗️



大村さんもマイクを握りました。

☆大村さん

今日で396回目の火曜日行動です。

外で警備している方々は暑い中でお疲れ様ですが、「いつも暑いから今日もがんばりや」と声をかけてくださり、ありがとうございます。

愛知の無償化裁判は最高裁で敗訴となりました。これで無償化裁判5カ所のうち3カ所、愛知、大阪、東京で敗訴が確定しましたが、大阪地裁での民族教育の意義は消えることはありません。愛知の判決ではまたしても「朝鮮学校が朝鮮総連に不当な支配をされている」という理由を持ち出しました。行政とマスコミが一体となってヘイトスピーチ、ヘイトクライムをはびこらせているのです。

今、長い安倍政権の時代を振り返るという企画をよく目にします。

先日亡くなられた横田滋さんは、2012年頃から、朝鮮学校の子どもたちは日本に住んでいて、でたらめな教育をしているわけではない学校に通っている。高校無償化から朝鮮学校を排除するのはおかしいと発言していました。しかし、そんなことはマスメディアは放送しません。

安倍は幼保無償化を行い、教育予算も増加させたと言われていますが、その中に朝鮮学校の予算は一切組まれていません。
幼保無償化で、ある幼稚園の校長先生が「本当にうれしい」とおっしゃってましたが、その裏で朝鮮学校が排除されているのです。そのことは一切書かれていません。ヘイトを助長することばかりです。

先日、あるトイレに、朝鮮人に対するひどい落書きがありました。

日本は一体どこへ向かっていくのでしょうか。

朝日歌壇にこんな在日の方の句が、載っていました。

「新聞にヘイトスピーチの文字あれば痛みを覚悟して読み進む」

在日の方がこんなことを書いているのです。




最後の歌は歌舞団の舞姫ー劉チェヒャンさんの音頭で「勝利のその日まで」
❗️❗️



駐輪場での申し送りです。



今日大活躍した朝鮮大学生と卒業生に大きな拍手が送られました。



申順子さんの元気なお姿を見て安心しました。



府庁内ロビー活動に参加されたオモニが貴重な体験をしたと感想を述べられました。



ハルモニ会の平田さんが田舎から送ってきたと言ってスダチを全員に下さいました。私もありがたくいただきました。



一人分ずつ袋に入れて準備してくださいました。コマッスムニダ


家に帰り早速一品作りスダチを使わせていただきました。さわやか!(今身体に良いと評判のむね肉を使い調理しました。)



来週も頑張れそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする