ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

再掲 手記 「祖国と共に」

2020-09-11 20:36:47 | 詩・コラム



   「祖国と共に」


 65年という歳月が夢のように過ぎ去った。

 母なる祖国が創建された年に生まれた私は、祖国の愛と息吹が沁み込んだウリハッキョで、ウリマルとハングルを習いながら民族の心を育くんだ。祖国から送られてきた初めての教育援助費と奨学金を手にした感激の日も、祖国への帰国の航路が開かれた瞬間も、自分の目で見ながら育った。

 中高級時代、祖国が歩んできた受難の歴史を深く知り、分断の痛みを全身で感じた私は、18歳の若さで専従になった。

 共和国創建20周年を迎えた年、歌舞団で働いていた私は、5つの鉄筋校舎建設に起ちあがった大阪の同胞たちの祖国愛と情熱に心打たれ、生まれて初めて詩を書いた。そのときから書きためた300余編の作品は、つらい時も楽しい時も祖国の空を仰ぎ、力いっぱい生きてきた同胞たちに学びながら書いた大切な記録であった。





 30年前、生まれて初めて祖国を訪問し、夢にまで登りたかった白頭山で、涙しながら「夜が明ける」を朗読したときの感動、学校の仕事がいくら忙しくてもウリマルをもっと深く学びたくて、文芸同文学部と演劇部に足しげく通い修業をした日々、そして6・15共同宣言が発表された後、「韓国演劇祭」に初めて招待され、故国の舞台の上で「ウリハッキョは最高です!」と高らかに叫んだ時、どれほど感無量であったことか。

 しかしやがて祖国に試練の日々が始まった。心無い人々が祖国を冒涜し、私たちの組織を潰そうとする中で、いつも祖国を信じ一筋の道を歩んでこれたのは、異国で生まれた私にも、人間らしく生きる道を開いてくれたのは母なる祖国だという思いがあったからだ。






 歳月はまさに、流水の如くながれた。おかっぱ頭を揺らしウリハッキョに通っていた私が、すでに5人の孫を持つおばぁさんである。しかし年老いたから自分の任務が終わったとは到底考えられない。分断されたままの祖国の痛みは癒えることがない。内外の心無い人々の差別や暴言が日増しにひどくなっていく。それなのにどうしてじっと座っていることが出来ようか。













 定年退職後、私は初級学校で放課後の3時間、低学年の児童たちの生活指導をしながら一緒に歌を歌い昔話もし、意義深い日々を送っている。そのかたわら時間が出来ればウリマル運動を活性化させねばという一心で、居住地域はもちろんのこと、北陸や東北にも自ら足を運び、講演や話術指導もしている。先代たちが私たちを導いてくれたように、2世のわたしたちがその精神を引き継がなければならないと思うからだ。








 
 毎朝スクールバスの停留所まで孫たちを送りながら、孫たちが学校で習ったばかりのウリマルで喋っているのを聴くと、知らぬ間に目頭が熱くなる。

 だが、情勢が悪化するたびに子供たちの将来が心配になる。受けて当然の権利を奪われてなるものかという思いが、1年が過ぎても毎週「火曜日」に大阪府庁前に私を立たせている。誰かに指示されたわけではなく、ウリハッキョを守り、ウリマルを守ってこそ私たちが異国に住んでも永遠に朝鮮人として生きることが出来ると信じているし、その道こそが、辛い時いつも力と勇気をくれた祖国と共に永久に生きていく道だと信じているからである。






 絶対に奪われてはならない物、一度失えば二度と取り戻すことのできない祖国と、子供たちの輝かしい未来のために、私は今日も自ら忙しい日々を過ごす。

                         2013・9・9

9月11日新報4面ハングル版に手記が掲載されました。






                                       


 
 
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