横浜に滞在中、NHKから突然の電話。『博多における歌舞伎の歴史や大博劇場について、話が聞きたい』とのこと。5月末まで滞在予定だったし、歌舞伎は好きだけど専門家ではないので、知人の演劇史などが専門分野のI教授を紹介。それで終わった…と思っていたら、数日後再度の℡。(画像はMY歌舞伎部屋より)

『いつ横浜からお戻りになりますか?やはり大博劇場のことは直接お聞きしたいので』
実は横浜滞在中、体調に気がかりなことがあって、娘夫婦も心配して即翌日の飛行機で帰宅していたのである。(当日空席があればシニア料金、羽田→福岡間は1万円也。を利用した)
折角婿が往復飛行機代をマイル使用で用意していたのに、直前キャンセルで帰路の分が無駄になったことは申し訳ないことだった。
プロデューサーが家まで来てあれこれの話の結果、出演引き受けることに。2日間の収録だったが、今博多座で上演中の【四代目猿之助襲名披露公演】に合わせての放映という感じで、役者さんたちの船乗り込みにはじまり、舞台の様子などの後に【博多歌舞伎今昔】として映し出されていた。
今大博劇場の後はマンションになり、その脇の電柱に「ここは・・・」と劇場のことが書いてある。博多歴史ツアーの中にも盛り込まれているのかもしれない。その劇場跡を私が案内して、すぐ近くに6代か7代住んでいる(つまり戦災を免れたということ)母の実家へ。今は従弟夫婦が跡を継いでいる。疎開などでの間に随分なくなってしまったが、それでも役者たちの色紙を貼って作った屏風や、通称【葛の葉】というお芝居で、舞台上で役者さんが口に筆をくわえたり、左手で鏡文字で書いた和歌【恋ひしくば、たづね来てみよ・・・・】大きな三つ折りの屏風も残っている。そういうアレコレの品を写したり。従弟や私に劇場のことなどをインタビュー。2日目は私が実際に博多座で観劇している様子を写す…そういうコンセプトで。短時間だがさすがに上手に編集されていた。
TVは実物より大きく映る、とてもじゃないが恥ずかしいし、インタビューはする側に回ると面白いがされる側というのは・・・ど素人ゆえ、やっぱりあがってしまったし。殆ど誰にも知らせてもいなかったが、TVの反応って案外あるものだ。夕方の主婦や勤めの方にとっては、忙しい時間帯でもあるのに、想いもかけない人達からの℡などが相次いだ。
大正9年に母の実家方の祖父を代表者としてその縁者、それに松竹から二人参加という形で、博多の町に【大博劇場】が誕生した。今の博多座規模の大劇場であった。あの大道具の並んだ埃っぽい匂のする舞台裏は、私の幼いころの原風景かもしれない。”おっしょい”の掛け声で、駆け抜けて行く”やま”を担ぐ男たちの肌から、”勢い水”が湯気となって立ち上る様子も。劇場の小窓から真下に眺めたものだった。祖母たちと桟敷席で観た芝居の数々、意味は解らなくても、調子の良いセリフはいつの間にか覚えたし、色彩鮮やかな舞台、悲しみや喜びは伝わってきた。子供の頃は流れ込むようにいろんなものが入ってくる。それはたとえ朧であっても、今も記憶にある。劇場の中はまるで夢の詰まった場所で、秘密っぽいワクワクするものがあったし、お茶子さん達は優しいお姉さんだった。私にとっては良き時代だったといえよう。自分の家と母の実家と行ったり来たり。近くの聖福寺などは格好の遊び場だった。懐かしい想い出が蘇る。

昭和30年代の川端と天神(Tさん撮影)ともうすぐ7月”山笠だぁ!”(以前の画像から)
もうこの頃は大博劇場は閉鎖。今の博多座は上の写真の川端にできた。
もともと曽 祖父が仕事の関係などで大阪への行き来から、歌舞伎に親しみ『鴈治郎(初代)の舞台を博多にも』と偶々持っていた土地などをつぎ込んだりして、素人ながら芝居興行に足を踏み入れたのが始まりである。以来関西は勿論東京からの大物役者さんたちの芝居や、新派、新国劇、曾我廼家五郎・十郎の喜劇、手妻などなどいろんなものが劇場の板(舞台)に乗った。
面白いところでは、あのアインシュタインの講演会も(劇場鈴なりの写真が残っている)。当時の世界的バレリーナ【アンナ・パブロワ】のバレー公演も。要するに娯楽が今のように多種多様でない時代なので、劇場は一種のテーマパークのような市民の楽しみの場であった。
戦前は升席にお茶子さん(女性従業員。もちろん和服姿)がお弁当やお菓子を運んできて、お世話をしてくれる、一家揃っての【芝居見物】は博多っ子にとってまさに【ハレの日】だったろう。お見合いなどにも利用されていたようだ。
ほんの僅かな時間ではあったが、初孫の私を可愛がってくれた祖父やその仕事を手伝って、企画や劇評などを書いていた実家の母、のちに実質的な経営者になった叔母へのオマージュとなったようで、そのことは大変嬉しかった。(私をNHKに紹介下さったA様、びっくりしましたが、良い記念となりました。有難うございました)
400年余続いてきた歌舞伎という古典芸能、その伝統を守り育てるのは演じる役者だけでなく、興行を計画する側にも、観客側にもその責任はあると思う。私が個人で【たまには歌舞伎を観よう会】というささやかな会を続けているのは、その気持ちの表れに他ならない。若い人たちにも理解され、受け入れられてこそ、次の世代へと継承されるのだから。歌舞伎を観るその裾野が広がる手伝いが出来れば本望である。
収録の日、芝居がはねた(終ること)後、近くの席で観ていた学生さんたちと、偶然お喋りが出来た。面白さと感動を覚えた人たちもいた。質問に答えたりして「学校に話に来て下さい」なんて言われて、そんなおこがましいことは出来る筈もないのだが、内心嬉しかった。
母が嫁いでそのあと劇場を祖父と一緒にやっていた叔母が、後に教師となったころに、書き残した原稿が入念に調べた資料とともに残されていて、それがK教授の目に留まり、歌舞伎は専門のI教授らの手により、本として刊行される予定である。従弟が中心、私はほんの少しではあるが、作り上げる過程での手伝いをした。原稿をPCでおこすことも、内容検討、読み合わせ、いろんなことがたまらなく楽しい時間となった。


題名は叔母の原稿のままの【芝居小屋から】
【西日本文化】という雑誌にK教授の出版を前に・・・という記事が掲載された。博多における近代演劇史の一端を担った劇場のありさまや、上演された演劇の詳細な内容が、叔母の手により原稿となり、二人の教授の手で陽の目をみる。博多演劇近代史はなかなか克明なものがなく、それに寄与できたことは亡き叔母にとっても嬉しいことだろう。仏前に供える日が待ち遠しい。
<ショート・博多での芝居・劇場の一口歴史>
博多と歌舞伎の歴史は黒田のお殿様時代に始まる。役者を招いて城内で上演。その後も筥崎宮の放生会にも。その頃は専用の芝居小屋ではなく、興行の都度尽きられる”掛け小屋”スタイルであった。以来時を経て明治時代の博多教楽社・永楽社・・・から明治座、寿座、大正に入って九州劇場が開場。祖父の関係した大博劇場はその後に建ち、昭和30年代には映画全盛の時代となり姿を消した。以来博多には花道のある大劇場のない年月が半世紀続き、平成11年今の博多座誕生となったのである。
TV放映後、面白かったのは、珍しい人たちからの反響もそうだが、
ある同窓生からの℡。随分随分以前に会った人である。偶然TVに登場した私の姿に『あ、この人おじいちゃんの同窓生だ』と傍にいた小学生のお孫さんが【えっ、ほんと?この人とお話ししたい】と。
電話の向こうで可愛い声で『教えていただけますか』きちんとした敬語で。歌舞伎のことは漫画『ぴんとこな』で興味を持ったらしい。何がきっかけであっても興味を持つということは素敵なことだ。いろんな疑問に思うことを尋ねる。
『おじいちゃんにねだって、歌舞伎見に行きます。前から二番目の席です』『今度おじいちゃんと遊びにいらっしゃい、歌舞伎の本もいろいろあるし…』何だか楽しくなった。
また、『祖母がその劇場で働いていて、小さいころから観に行っていました』という話も。
一生に一度のちゃんとした(短時間でも)TV出演?だろう。私が出来れば歌舞伎などの勉強をちゃんと学んでそういう世界での雑誌編集者などのような仕事をしたかったことを、知っている長女は(彼女もインターネットさきがけの頃、まだHPなどが珍しい時に歌舞伎の部屋を持っていて、日経新聞に掲載されたことがある。今から20数年前のことだ。今度の出来事を『お母さん、良かったね』と喜んでくれるに違いない。
富十郎・芝翫・勘三郎・團十郎さんと相次いだ訃報に、へこんでしまって、歌舞伎のブログもお休み状態だが、次代を担う30代、40代の役者たち、勘九郎・七之助・染五郎・海老蔵・菊之助・愛之助はじめ若手が中堅となり、頑張っている。これからの舞台と精進を見守って行きたいと思う。