goo blog サービス終了のお知らせ 

ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

来てんしゃい、見てんしゃい、歩いてんしゃい(博多神社情緒めぐり)

2013-11-30 14:18:00 | 日々の中で

大宰府ルミナスでの講座【博多に学ぶ日本の歴史】から、秋の一日【博多情緒めぐり】へ出かけた。博多の町は先祖の代からの我が故郷なのだが、知っているようで知らないことも多く、楽しみにしていた。博多は日本の西の護り【大宰府政庁】のあった太宰府とも勿論大きな繋がりがある。

福岡市観光案内ボランティア主催のコースが【寺社めぐり・博多下町の小話・軍師官兵衛(如水公)・博多町筋とベイサイドの香り・・・】など7つのコースがある。

今回は【寺社めぐり(博多の歴史と文化の伝来を知ろう)】コース。10時に櫛田神社出発の2時間コース。上田講師とボランティア2人、3つの班に分かれて。天気も上々、秋の空は明るく、陽射しも暖かい。「博多の町はほんなこと(本当に)面白かですたい!」と歴史の楽しい挿話も交えて説明してくれるボランティアのYさんと一緒に神社や博多の路地を歩いた。

出発点の博多の守り櫛田神社(757年神託により建立)町中の小さな神社だが山笠のお宮として全国的に有名だ。博多っ子が燃える祇園山笠の時は、お櫛田さんの境内は、人・人で溢れんばかりとなる。博多の街を【おっしょい、おっしょい】と駆け抜ける男たち、湯気となって立ち上る勢い水、幼い私の心に強く焼き付いている想い出の祭りだ。

  

   櫛田神社の向かいに昔ながらの博多町屋を移転した【博多町家ふるさと館】があり、伝統工芸の博多人形。博多織・曲げ物などなどの実演も含めて、博多のアレコレを見ることが出来る。

博多の路地を歩きながら【子供の頃、路地の家の前にバンコ(長い腰掛)があって、夏の夕方などおじいさんたちが足元に蚊取り線香を置きながら、しょうぎなどしていたねぇ」周りの皆さんも同年代。「そんな光景があったね」と昔話に花を咲かせながら、ボランティアさんの後に 続く。

  秀吉が戦火のあと、がれきなどを使って作らせた博多の街の【博多塀】今は実際にはもうないものだが。博多町屋の裏手に保存してある。                                

 <鹿島本館>国登録有形文化財の和風旅館。大正ロマンを感じる宿。

   <竜宮寺>    

<竜宮寺>袖の湊とよばれた海の直ぐ近くにあった浮御堂で、人魚が網にかかり時の天子に奏聞すると、それは吉兆だと公家冷泉中納言をつかわした。今も人魚の骨(真実は別として)や姿を描いた絵が秘蔵されている。人形塚も建っている。」

 <東長寺>東長寺は空海(弘法大師)が開いたお寺。千手観音・不動明王など。また、織田信長が本能寺居間に掲げていた【弘法大師筆千字文】は、丁度居合わせた博多の大商人 島井宗室が持ち出したと言われる。半分の5百字が現存している。

    ここには黒田藩主代々の墓所があるが、先日の新聞によると、福岡市に寄贈されたそうだ。

福岡大仏(木造では日本一)の台座の下に【地獄・極楽めぐり】がある。小さな入口を入ると細い細い通路に色々な地獄絵が。そこを抜けると真っ黒。とにかく真っ暗。真の闇とはこういうものだったのか・・・と最近の薄闇しか知らぬ現代人には、オモシロイ体験だった。闇を抜けると明かりがさして来て、極楽へと。さあ、現世への出口だ。

<承天寺>(1242年、大宰少弐武藤資頼が寺地として数万坪を寄進、聖一国師により開かれた)聖一国師にまつわる楽しいエピソードもある。

   

うどん、蕎麦発祥の地(聖一国師が宋代の中国から製粉技術を学んで伝えたのが始まり。

・聖一国師が博多を托鉢中、栗波吉左衛門の親切に対し、お礼に【甘酒饅頭】の手法を教え【虎屋】の屋号を与え、自ら筆を取って【御饅頭所】の書を与えた。

この看板を昭和初期、栗波家から東京の    虎屋が買い取ったので、羊羹で有名な東京赤坂の【虎屋黒川家】に現存している。

博多山笠発祥之地の碑・・・1241年(仁治2年)に博多で 疫病が流行した際、承天寺の開祖の聖一国師が町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り 水を撒きながら町を清めてまわり、疫病退散を祈祷したことを発祥として、今も山笠の時はこの寺に挨拶に来る。

 聖福寺

超有名なお寺。天台宗、栄西が源頼朝の建立許可を得て建てたお寺。先手観音や壱八羅漢など。栄西は栄から【お茶の実】を持ち帰り、福岡と佐賀の県境脊振山に植えた。

お茶輸入の元祖でもあり【茶祖】とも呼ばれている。現代の白峰老師で第133代となる。このお寺は子供の頃、境内でよく遊んだ覚えがあって懐かしい。傍にある幻住庵は洒脱な書画で有名な仙崖和尚が住まわれていたところだ。

<妙楽寺>1316年建立。博多の北の浜にあったため、元・明・朝鮮との交流が深く、博多商人とも関連が多く、貿易の一大拠点となったお寺。1586年鹿児島島津藩が博多に火を放ち消失した。1600年 筑前藩主 黒田長政によって場所を現在の地に移し再建された。

      

 ういろう(薬)発祥の地。元の順宗に仕えていた儒医が元滅亡後、日本に亡命。妙楽寺に居住し、彼が調合した【透頂香(とうちんこう)】を室町幕府、足利義満に献上。絶賛され他ものが代々子孫に伝わり【外郎(ういろう)】となり、京都・小田原で売り出され有名になった。子の時の接待用に使っていたお菓子がの名が、いつのまにか【ういろう】と呼ばれるようになった 。江戸歌舞伎の【外郎売】はこの薬の効能などを、早口言葉で立て板に水と喋るのが有名である。

また、このお寺には、秀吉に一歩も譲らなかったという豪商、神屋宗湛や伊藤小左衛門一家の墓がある(伊藤小左衛門は長崎で大きな貿易をしていて、密貿易と密告され、一族30数名が斬首にあったという。)なんと!悲しい話だろう。

近松門左衛門の歌舞伎【博多小女郎波枕】は、博多の街を舞台に大海賊が出るが、これは伊藤小左衛門をモデルにしたと言われる…なんてことは、歌舞伎好きなととろサンにとっては、【あ、知っている」という歴史上のエピソードであった。

寺社巡りは2時間をオーバーしたが、それでもまだまだこのあたりには沢山のお寺があり、それぞれの歴史がある。

知らなかったなあ・・・と驚いたのは、

日本で一番お寺が多いのは何処?と案内のボランティアさんに聞かれて「京都」までは解ったが、「2位は?」京都?・・・いや福岡だそうだ。そういえば福博って、やたらお寺が多い。黒田長政は河の傍に沢山のお寺を建立した。これはいざという時、墓石が弾除けになるから~~との考えからだったそうだ。

博多のお寺は・・・純粋な仏教だけでなく、博多の豪商たちとのつながりが大きく、貿易などにも関係していたというのが、他の土地と違った面白さがある。

私の母の実家の前なども通ったし、思い出深い町並みだったので、楽しい時間を過ごすことが出来たが今度はもっとゆっくり回ってみたいし、他のコースも体験してみたいと思う。太宰府も史跡の多いところだが、博多はまたちょっと違った城下町と博多商人の町と・・・魅力のある町と言えよう。戦災があったから、すべてが昔の面影を残しているわけではないので、戦後近代的に作られた町と旧い町が微妙なコントラストで、そのあたりが面白いのかもしれない。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近場の紅葉も良からずや。光明禅寺の庭。

2013-11-24 15:09:49 | 日々の中で

 

 晩秋の候、京都や東北をはじめ紅葉の名所がTV画面を飾る。遠出は無理なので、近場の散歩兼ねての紅葉狩り、光明禅寺の庭へ。来週友人が来宅するので、紅葉の様子はどんなかしら~と。

     

          

ちょっとした苔寺なみの風情を醸し出している。秋がゆき冬が訪れても、雪景色などは得も言われぬ美しさである。拝観料200円。太宰府に住み始めた頃は、このお寺に良く通ったものだ。早朝誰もいないきざはしに座って、いつまでも眺めていた。今は住職が変わり、大晦日のかがり火に照らされながらの除夜の鐘もつけなくなり、朝早く門戸があいていることもなくなった。寂しいなと思う。光明禅寺については昨秋も書いたので、今回は省略。興味のある方は

http://commons.wikimedia.org/wiki/Special:UploadWizard?uselang=ja をご覧ください。(光明寺の前の細道を150Mも行くと太宰府天満宮)

 今年は菅原道真公ご神忌千百十一年(亡くなられてから)に当たる。正面鳥居をくぐると、菊の花で飾られた【1111年】の文字があった。境内では菊花展、それに七五三などで賑わいを見せていた。

        

(これも朝の散歩の時、綺麗な菊を独り占め、ゆっくり愛でた)

宝満山登山口にある竈神社も、紅葉や桜の名所。今は紅葉の真っ盛り、

ライトアップされているようだ。http://www.dazaifutenmangu.or.jp/kamado/

コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

"観ました!”映像と物語で見る福岡・天神の150年【福岡・天神時間旅行】

2013-11-15 06:17:22 | 映画・観劇・コンサートなど

親しい友人の息子さんが制作メンバーの一人とのことで【福岡・天神 時間旅行】(九州朝日放送創立60周年記念映像映画)を,友人を誘って見に行った(あ、XX君の名前出てたわ)

福岡市は東中洲大橋を境に、城下町福岡(黒田長政に始まる舞鶴城)と商人の町博多(時の権力者秀吉に一歩も譲らなかったという豪商神屋宗湛などに代表される経済・文化を担う商人の町)に大きく二分されて栄えて来た。分かれていたとはいえ、殿様は政治を商人は経済文化を、うまく融合させながら福博の街は大いに栄えていた。【博多どんたく松囃子】は博多の町人たちが、年に一度黒田の殿様の城内へご挨拶兼ねて鳴り物入りで行列を連ねていったのが今の【どんたく】のはじまりという。

私の両親のルーツは、父は川端、母は上呉服町という博多部にあるが、生まれ育ったのは今の天神西通り(戦前は住宅地)であった。福岡大空襲で福博の街は一面の焼野原と化した。B29から落とされる焼夷弾、夜空を染める眩しい光、舞い落ちる火の粉。防空頭巾をかぶり、服の上から水を被り、中風で身体の不自由な祖父と祖母と弟を背負った母とで、逃げ惑ったあの夜、翌朝の黒い煙があちこちに残る広大な焼野原・・・あの光景は幼かった私の脳裏に、何十年経った今も鮮明に残っている。(父は町内の消火で出ており、最後には平尾の山に逃げ込んで助かったそうだ)

戦前のまあ豊か(親たちのことは解らないが)で恵まれていた私の生活も、疎開という現実の中で一変した。疎開させていた少ない衣類を、お百姓さんにお芋や野菜と交換してもらいながら、毎食お芋(それもとっても水っぽくまずい物だった)のこともあるような戦後の数年を過ごした。俗に筍生活と世に言う。

江戸時代は住宅街、明治維新で天神界隈は崩壊、のちに官庁街・ビジネス街として発展。戦後は商業文化の中心地となる。その150年の歩みを、映像を繋ぎ、物語を紡ぎながら1時間にまとめた映画であった。案内と語りは牧瀬理穂(福岡出身の女優さん)。

福岡大空襲で当然天神界隈も焦土と化し、貴重な資料もなくなっただけに、この映画を作るための資料集めなどは大変だったことだろう。

天神発展に寄与した大物財界人達。

松永安左ェ門(博多と縁の深い壱岐の豪商の長男、福沢諭吉に傾倒し慶応義塾に入り、諭吉の娘婿である福澤桃介と出会い、生涯の盟友となる。福岡県下初の電灯業や電車施設などに寄与。脊振山系の電源開発を【九州電気】とし、のちに【東邦電力】(戦前の日本の五大電力の一つ)に発展させた。

渡邉輿八郎(博多の豪商”紙与”三代目。家業を継ぎながら福岡の発展に繋がる事業に莫大な私費を投じ、苦学生に無償で奨学金を援助、九大医学部誘致など、財力のみならず剣道小野派一刀流の指南役でもあり、その人柄は大いに慕われた。様々な事業に関わったが、脚光を浴びることを嫌った。40代にして流行病で逝去。彼の名は天神を挟んで南北に貫く【渡辺通り】に今も残っている。

中牟田喜平衛(長く続いていた岩田屋呉服店を、天神交差点に創立。当時はまだ天神界隈は商業にはふさわしくないと周囲からは猛反対を受けたという。先見の明があったのだろう。西日本初のデパートとして評判を呼び、大変な賑わいを見せたようだ。天神が商業の都として発展していく基礎となった。うちに情熱を秘めた謙虚な人柄だったという。

他にもいろんな先達が天神という町を、歴史の中で作り上げてきたのだろうが、150年のその移り変わる様子をCGを駆使しながら、語りやドラマも入れて上手く作られていた。昭和15年代の天神交差点をCGで再現したのも興味深かった。

、私にとっては懐かしい映像も沢山あった。幼い頃岩田屋デパート庭大食堂や屋上には観覧車などの遊具があり、デパートの屋上で遊んで大食堂で食事を・・・は子供にとって嬉しい豪華な【晴れの日】だった。そんな当時の映像も懐かしかった。特に戦後一面のがれきの中に初めて作られた【新天町】(今も老舗の商店街、同級生の店などが多かったが・・・今は老舗として当時から残っているのは、僅かとなった。時の流れを感じる。

大相撲やスケート場や三本立て洋画映画館のあった【スポーツセンター】学生時代にまた勤め先も天神だったので、おおいに通ったものである。結婚して福岡を離れるまでの私の青春時代は、ご隠居とのデイトコースも含めて博多や天神にあった。

何よりも今岩田屋新館となったところは、私の通った中学校があったところだった。その傍の今は市民の憩いの場であり、クリスマスイルミネーションで有名な【警固公園】は第二グランドで、運動会をやった場所だった。

やはり母校の大名小学校は戦災を免れ100余年の歴史があるが、これも時代の推移、小中一貫校として、場所を替え来年には新しいスタートを切る。時代の流れを感じながらも、めくるめくように私自身の半生が胸の中を駆け抜けていった。

今天神には若い人たちが溢れている。そんな世代の人にも福岡の中心地となった天神の生まれた所以、戦災に遭いながらも復興して来たその力強さを、この映像を通して味わって欲しいなと思う。

映画のあと【懐かしかったね、良かったね】と友人と少し高揚した気持ちに突き動かされながら、天神ブラを楽しんだ。私がトシを重ねたように、天神ももうあのころの面影から今風に変化。私には少々賑やかすぎる雰囲気の街となったが…・それでもやはり随所に懐かしい場所がある。幸いに空は青く高く、暖かな晩秋の陽射しの中、過去と現在の交差する良い一日となった。

興味のある方は【九州朝日放送創立60年記念映像、福岡天神 時間旅行】で検索下さい。

上映館。KBCシネマ。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

博多の”きれいどころ”と老舗料亭で(博多検番と老舗料亭)

2013-11-08 06:42:44 | 日々の中で

 受講している【博多学講座】(太宰府市ルミナス)の上田啓蔵講師の紹介で、サークル仲間(希望者)と【博多情緒めぐり】、【博多検番と老舗料亭】の企画に参加する機会に恵まれた。秋に二日限りで、行われているそうだ。

上田さんは100年続いた博多の蒲鉾店【西門蒲鉾】の三代目店主で、こよなく博多を愛する1人。(私達はフォークグループ【チューリップ】の結成時のメンバー上田さんのお兄さんとして親しみを感じる)現在博多部ランド協議会議長・博多町人文化連名事務局長、博多情緒めぐり実行委員会会長…などなど、博多を愛するゆえの肩書も多い。楽しいあたたかいお人柄で博多弁での講座は、博多を愛するあまり時として脱線したり(それが楽しい)受講生を気楽な気持ちにさせてくれる。縄文・弥生の頃に始まる博多の歴史や史跡などなど、博多を愛しその文化や歴史を遺して行こうとする気持ちに溢れている。今の博多の街が魅力的なのは、こういう方達がいて、伝統を守っていくことに尽力して下さっているからだろう。

勿論、太宰府と博多のつながりも深いものがある。博多学を講座に入れてくれたルミナスの企画に感謝!

http://hakatanomiryoku.com/akihaku/1090.html 博多町めぐり。

http://www.saimon-kamaboko.com/    西門蒲鉾本店

私は両親とも博多がルーツ。幼いころには【お櫛田さん(山笠で有名な博多の神社)】や【聖福寺】などで遊んだものだが、さて、その歴史や謂れとなると・・・知らないことが多いので、今回改めて受講した次第である。でも・・・古びた頭では与えられた知識は、なかなかちゃんと留まってくれない(苦笑)でもまあ、愛する故郷の歴史を知ることは、楽しいことだと心が弾んでいる。

三光園は老松などとともに有名な博多の歴史の古い老舗料亭。早目に着くと男衆が打ち水をしていた。磨き抜かれた床、階段の彫り物、料亭の裏はすぐに河に面して眺めがいい。数寄屋造り、枯山水の庭園など。歴史を感じさせる。

http://www.sankoen.jp/ (料亭三光園)

 

  きりりとした老舗料亭の女将さんのご挨拶、上田啓蔵さんの司会で博多情緒の宴が始まった。裾を引いたお座敷姿に博多献上の帯の芸者さん達の粋な艶やかさ。私達主婦とは日頃縁のない、博多検番の芸者さんたちの【正調博多節】や【黒田節】などいくつかの踊りを鑑賞しながら、美味しい会席料理に舌鼓。踊り終えた芸妓さんたちが席を回ってお酌をしてくれる。皆さんきれい!見とれてしまう。

     

   伝統芸能を学ぶような気持ちがないと、続かないだろうが、若い人に入って来て欲しいと桜子さんや和可奈さん、小桃さん達芸妓さんは話していた。昔の博多は、黒田藩の城下町でもあり、神屋宗湛に代表される商人の街でもあった。博多の人にとって、芸事は茶道や書画と同じように、嗜みとして愛されていた。素人離れした人達も多かったようだ。

 昔は検番も三つ(通称、中検・水検・旧検と言った)あったが、今では一つに統一され博多検番となった。時代の移り変わりなのだろう。粋な昔ながらの情緒に浸ったひとときだった。珍しい体験を会場の皆さんも大いに楽しんでたようだ。

お料理・・・季節感に溢れて、目にも美しく、食べて美味しい料理(つい写真を撮るのを忘れました)少しだけ撮ったのを。

    

     

ご隠居さんは膝の故障で不参加となり、友人を代わりに誘った。とても喜んでくれたのでほっご隠居さん、ほんとに残念! 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする