大宰府ルミナスでの講座【博多に学ぶ日本の歴史】から、秋の一日【博多情緒めぐり】へ出かけた。博多の町は先祖の代からの我が故郷なのだが、知っているようで知らないことも多く、楽しみにしていた。博多は日本の西の護り【大宰府政庁】のあった太宰府とも勿論大きな繋がりがある。
福岡市観光案内ボランティア主催のコースが【寺社めぐり・博多下町の小話・軍師官兵衛(如水公)・博多町筋とベイサイドの香り・・・】など7つのコースがある。
今回は【寺社めぐり(博多の歴史と文化の伝来を知ろう)】コース。10時に櫛田神社出発の2時間コース。上田講師とボランティア2人、3つの班に分かれて。天気も上々、秋の空は明るく、陽射しも暖かい。「博多の町はほんなこと(本当に)面白かですたい!」と歴史の楽しい挿話も交えて説明してくれるボランティアのYさんと一緒に神社や博多の路地を歩いた。
出発点の博多の守り櫛田神社(757年神託により建立)町中の小さな神社だが山笠のお宮として全国的に有名だ。博多っ子が燃える祇園山笠の時は、お櫛田さんの境内は、人・人で溢れんばかりとなる。博多の街を【おっしょい、おっしょい】と駆け抜ける男たち、湯気となって立ち上る勢い水、幼い私の心に強く焼き付いている想い出の祭りだ。
櫛田神社の向かいに昔ながらの博多町屋を移転した【博多町家ふるさと館】があり、伝統工芸の博多人形。博多織・曲げ物などなどの実演も含めて、博多のアレコレを見ることが出来る。
博多の路地を歩きながら【子供の頃、路地の家の前にバンコ(長い腰掛)があって、夏の夕方などおじいさんたちが足元に蚊取り線香を置きながら、しょうぎなどしていたねぇ」周りの皆さんも同年代。「そんな光景があったね」と昔話に花を咲かせながら、ボランティアさんの後に 続く。
秀吉が戦火のあと、がれきなどを使って作らせた博多の街の【博多塀】今は実際にはもうないものだが。博多町屋の裏手に保存してある。
<鹿島本館>国登録有形文化財の和風旅館。大正ロマンを感じる宿。
<竜宮寺>袖の湊とよばれた海の直ぐ近くにあった浮御堂で、人魚が網にかかり時の天子に奏聞すると、それは吉兆だと公家冷泉中納言をつかわした。今も人魚の骨(真実は別として)や姿を描いた絵が秘蔵されている。人形塚も建っている。」
<東長寺>東長寺は空海(弘法大師)が開いたお寺。千手観音・不動明王など。また、織田信長が本能寺居間に掲げていた【弘法大師筆千字文】は、丁度居合わせた博多の大商人 島井宗室が持ち出したと言われる。半分の5百字が現存している。
ここには黒田藩主代々の墓所があるが、先日の新聞によると、福岡市に寄贈されたそうだ。
福岡大仏(木造では日本一)の台座の下に【地獄・極楽めぐり】がある。小さな入口を入ると細い細い通路に色々な地獄絵が。そこを抜けると真っ黒。とにかく真っ暗。真の闇とはこういうものだったのか・・・と最近の薄闇しか知らぬ現代人には、オモシロイ体験だった。闇を抜けると明かりがさして来て、極楽へと。さあ、現世への出口だ。
<承天寺>(1242年、大宰少弐武藤資頼が寺地として数万坪を寄進、聖一国師により開かれた)聖一国師にまつわる楽しいエピソードもある。
うどん、蕎麦発祥の地(聖一国師が宋代の中国から製粉技術を学んで伝えたのが始まり。
・聖一国師が博多を托鉢中、栗波吉左衛門の親切に対し、お礼に【甘酒饅頭】の手法を教え【虎屋】の屋号を与え、自ら筆を取って【御饅頭所】の書を与えた。
この看板を昭和初期、栗波家から東京の 虎屋が買い取ったので、羊羹で有名な東京赤坂の【虎屋黒川家】に現存している。
・博多山笠発祥之地の碑・・・1241年(仁治2年)に博多で 疫病が流行した際、承天寺の開祖の聖一国師が町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り 水を撒きながら町を清めてまわり、疫病退散を祈祷したことを発祥として、今も山笠の時はこの寺に挨拶に来る。
聖福寺
超有名なお寺。天台宗、栄西が源頼朝の建立許可を得て建てたお寺。先手観音や壱八羅漢など。栄西は栄から【お茶の実】を持ち帰り、福岡と佐賀の県境脊振山に植えた。
お茶輸入の元祖でもあり【茶祖】とも呼ばれている。現代の白峰老師で第133代となる。このお寺は子供の頃、境内でよく遊んだ覚えがあって懐かしい。傍にある幻住庵は洒脱な書画で有名な仙崖和尚が住まわれていたところだ。
<妙楽寺>1316年建立。博多の北の浜にあったため、元・明・朝鮮との交流が深く、博多商人とも関連が多く、貿易の一大拠点となったお寺。1586年鹿児島島津藩が博多に火を放ち消失した。1600年 筑前藩主 黒田長政によって場所を現在の地に移し再建された。
ういろう(薬)発祥の地。元の順宗に仕えていた儒医が元滅亡後、日本に亡命。妙楽寺に居住し、彼が調合した【透頂香(とうちんこう)】を室町幕府、足利義満に献上。絶賛され他ものが代々子孫に伝わり【外郎(ういろう)】となり、京都・小田原で売り出され有名になった。子の時の接待用に使っていたお菓子がの名が、いつのまにか【ういろう】と呼ばれるようになった 。江戸歌舞伎の【外郎売】はこの薬の効能などを、早口言葉で立て板に水と喋るのが有名である。
また、このお寺には、秀吉に一歩も譲らなかったという豪商、神屋宗湛や伊藤小左衛門一家の墓がある(伊藤小左衛門は長崎で大きな貿易をしていて、密貿易と密告され、一族30数名が斬首にあったという。)なんと!悲しい話だろう。
近松門左衛門の歌舞伎【博多小女郎波枕】は、博多の街を舞台に大海賊が出るが、これは伊藤小左衛門をモデルにしたと言われる…なんてことは、歌舞伎好きなととろサンにとっては、【あ、知っている」という歴史上のエピソードであった。
寺社巡りは2時間をオーバーしたが、それでもまだまだこのあたりには沢山のお寺があり、それぞれの歴史がある。
知らなかったなあ・・・と驚いたのは、
日本で一番お寺が多いのは何処?と案内のボランティアさんに聞かれて「京都」までは解ったが、「2位は?」京都?・・・いや福岡だそうだ。そういえば福博って、やたらお寺が多い。黒田長政は河の傍に沢山のお寺を建立した。これはいざという時、墓石が弾除けになるから~~との考えからだったそうだ。
博多のお寺は・・・純粋な仏教だけでなく、博多の豪商たちとのつながりが大きく、貿易などにも関係していたというのが、他の土地と違った面白さがある。
私の母の実家の前なども通ったし、思い出深い町並みだったので、楽しい時間を過ごすことが出来たが今度はもっとゆっくり回ってみたいし、他のコースも体験してみたいと思う。太宰府も史跡の多いところだが、博多はまたちょっと違った城下町と博多商人の町と・・・魅力のある町と言えよう。戦災があったから、すべてが昔の面影を残しているわけではないので、戦後近代的に作られた町と旧い町が微妙なコントラストで、そのあたりが面白いのかもしれない。