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ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

江戸時代の芝居小屋再現【平成中村座小倉城公演】

2019-11-30 23:11:57 | 映画・観劇・コンサートなど

今秋11月、【平成中村座・小倉城公演】が実現した。九州初上陸である。小倉城勝山公園、すぐ傍には紫川の優しい流れと色づいた木々。2ヶ月前から購入していた昼・夜のチケット。義妹のことなどで沈んだ気持ちだったが、思い切って足を運んだ。憂きことを嘆くばかりでは、義妹も喜びはしないだろうと勝手なことを考えて。

画像は同行の方が、小倉城から撮影されたものを拝借。

 故十八代目中村勘三郎さんの念願だった江戸時代の芝居小屋【平成中村座】が、浅草でお目見えしたのは、2000年11月。土地があればどこででも、昔風に言うなら「小屋掛け」出来るこの組み立て式芝居小屋は以来、遠くはニューヨークなどへも行き、400年余り続く日本の伝統芸能「歌舞伎」は、大きな話題と賞賛をよんだ。

その「平成中村座」が初めて九州入りした。大阪城や名古屋城に続いて、小倉城をバックに建設された。

 

「昼の部」は古典歌舞伎・歌舞伎舞踊・上方の和事狂言と上手く演目を並べていた。

・神霊矢口渡し  ・お祭り(歌舞伎舞踊)・恋飛脚大和往来(近松門左衛門作)封印切りの場。

「夜の部」    ・通し狂言 小笠原騒動(小倉藩のお家騒動

これはご当地小倉で実際にあったお家騒動をテーマにしている。通し狂言というのは、最初から最後までを上演すること。歌舞伎の場合【見取り狂言】と言って長い話の中の人気の場を、切り取って上演することも多い。「義経千本桜の中の”吉野山”」とか、「菅原伝授手習鑑」の中の”車引”とか。

中村勘九郎・七之助兄弟に、中村童、中村橋之助、坂東弥十郎、片岡亀蔵、などに、鶴松、虎之介といった若い役者さん達。中村屋一門の老練な脇役さん達。

歌舞伎座の半分くらいの人数(880席)とこじんまりとした、昔ながらの芝居小屋の風情は、舞台が近く、役者さん達を間近に見ることも出来る。舞台正面は開くようになっていて、小倉城がくっきりと見えると観客席がどよめいた。特に【夜の部】は勘九郎はじめ鶴松君たちも、客席をめぐるような筋立てになっていたり、捕り手に追われる勘九郎のお家乗っ取りをたくらむ小倉藩の執権犬神兵部が梯子で二階席に登る場面もあって、二階席の観客は大喜び。小倉の祇園太鼓の演奏も上手く取り入れて、またチャリ場(お笑い)では、小倉弁での面白い喋りなどが入り、歌舞伎は初めての人達も大いに満足。最後はスタンディング・カーテンコールと場内は沸いた。

最近体調不良をかこっていたご隠居も、昼の部・夜の部と【大向こう】を。中村屋!萬屋!と声張り上げていた。はねると「ああ、疲れたぁ」それでも仲間との「お茶タイム」の時までは付き合ってくれた。観光に向かう仲間と別れ、一路我が家へ。小倉を最後に訪れたのは、いつのことだろう?きれいになった街に驚いた。今度はゆっくり観光客してみるのもいいなと思いながら、慌ただしくも充実していた【芝居見】から日常生活へと戻った。

 

 夜の部が終わって余韻を味わいながら、暮れなずむ小倉の街へ、紫川のほとりはXmasイルミが輝いていた

 

 平成中村座・観劇記 よろしかったら。新しいブログに引っ越ししました。

ととろサンの歌舞伎ブログ 覗いてみて下さい。

 

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水なし、土なし、球根から花が咲いて。

2019-11-21 14:34:26 | 日々の中で

秋たけなわ、紅葉の名所竈門神社などは今盛りだそうな。近いのに今秋はまだ足を運んでいない。高く澄んだ蒼い秋空のもと我が家のささやかな紅葉を眺めて秋を感じている

 

 以前NHK講座の仲間からいただいた【サフランの球根】「水も土もいりません。転がしておくだけで花が咲くんです」とのことで、なんにもしないであり合わせの器に入れておいた。

 先週ふと気がついたら、玄関のが一輪咲いていた。咲くまでの過程がみたいと、居間に移動させて白い柔らかな茎がぐんぐん伸びていくのを眺めていた。茎の先に薄青い蕾が!徐々にひらきはじめて薄紫のサフランの花びらが開いた。えんじ色の長いめしべが伸びている。球根をそのままに花咲かせると、花の時期は一回きりだが、水も土も使わずに咲くというのを知らなかったので、珍しくて眺めている。

       (白い茎が伸びて蕾が)

    紫の花びらが開きました。赤く伸びているのがめしべ(乾燥させて食品に使います)

早速仲間に「咲きました!」とメール添付で。暫くサフランの花話題にメールが行き交った。我が家に頂いたものの中から、ご隠居の九博ボランティアの仲間4人にも一粒ずつ差し上げていたので、今12軒でそれぞれに順を追いながら、サフランの花が咲き続けていると思うと、なんだか嬉しい。憂き事ことも多い現世だが、こんな花の便りに心慰められている今秋である。

 ・サフラン・・・サフランはアヤメ科の多年草およびそのめしべを乾燥させた香辛料をさす(サフラン・ライスなど)西南アジア原産で、最初に栽培されたのがギリシアとされる。地中海の島で発掘された壁画によると、青銅器時代から栽培されたと考えられる。

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秋たけなわ・・・義妹逝く

2019-11-08 16:26:59 | 日々の中で

暫くネットから遠ざかっていたら、ネット仲間や友人達から「元気ですか?体調大丈夫?」と案じるメールや電話が入ってきた。病気と共存しながら生きている私を案じてのこと、有難いことだ。

「私は元気なんだけど、ご隠居の妹が旅立ちました。気持ちが落ち着かなくて、UPも出来ないままで」と返信する。

庭にはつわぶきの花が明るい黄色の花を咲かせる11月5日朝、義妹は逝った。

その朝のこと、ご隠居が「糸ラッキョウ、白だけでピンクは一本だったのに、全部ピンクの花が咲いた」と。山野草の鉢には、小指の先ほどの可愛い花がリング状に可愛い輪を作っていた。山野草好きなご隠居が丹精した小さな小さな花。ルーペで見るとその可愛らしい形状が何ともいえない

に。淡い紫やピンクの花を心から愛した、庭いじりが大好き、花を見に久住などに行くのが大好きだった義妹、ご隠居と「白の筈の糸ラッキョウが、ピンクばかり咲いたのは、H子さんを悼む花の想いなのかも知れないね」と話したことだった。

私が彼女に会ったのは、まだF女学院の高校生の頃。始めてご隠居の家に招かれた時。学校から帰って挨拶に出てきて義妹H子ちゃん(私は今だに彼女をちゃん付けで呼んだり、改まった時にはサン付けだが)は、ミッション・スクールの制服セーラー服がとても良く似合う、可憐で楚々とした美少女だった。彼女は三人兄妹の末っ子。私は長女。以来実の妹みたいな存在になった。

ご隠居やその仲間との久住登山や海水浴など、随分いろんなところにも一緒に行った。ご隠居が就職して新人教育で寮に入っていた間も、フィアンセだった私は、ご隠居の両親が旅行する間、「H子一人だから泊まりに来て」と頼まれたり、時々泊まりに行っては義妹と布団を並べて、あれこれの青春の悩み?などを打ち明けられたりしたものだ。

身内なのに、こんなことをいうのはおかしいだろうが、義妹はほんとにハッと人の目を引く顔立ちだった。大きな瞳に両えくぼがくっきり。兄たちの友人は妹の顔を見たくて、遊びに来る人も多かったらしい。

ここに一冊の小冊子がある。デパート博多大丸が、外商部の客用に作った夏の売り出し用の。義母と買い物に行っていた義妹に「モデルに」という話があり、外交的な義母は喜んで引き受け、シャイな義妹はいやいやながら応じたそうな。折角の素敵な画像なのに、いやだと家族以外には見せなかったらしい。博多周辺の海辺や山で撮影されたその画像は愛くるしく元気溌剌で、何よりも清純!!花のような。芸能界からも声がかかったがそれは苦手、好きではないと。その次の年のモデルになった人は女優となった。

望まれて結婚、7歳年上の夫に大事にされ、絵が上手く器用で料理上手で、どこかおっとりした雰囲気を持つ義妹は、何の苦労もない生涯を送る筈だったのに、三番目の出産時、妊娠中毒症となり、完治せず透析を受けることとなった。彼女が40代後半、夫が癌でなくなり、以来20数年。10月半ば大腿部骨折して(長く透析を続けていると骨も脆くなる)入院・手術。無事に済んでリハビリ転院も決まっていたのに、感染症になり一時はICUに。慌ててご隠居と飛んで行ったが、抗生剤のおかげで持ち直しHCUに移り、いずれは一般病棟に。とのことでほっとして、予定していたや「大島や宗像神社」とか「やめのもり」へも行くことが出来たのだが。

5日早朝姪より電話。子供達や私達が見守る中、5日朝永眠した。透析が難しくなり、膵炎をおこし肺に水が溜まるようになってとの説明だった。

長年愚痴も言わず、一日おきに透析を受けながら、頑張って来た義妹H子の最後の顔は義母にそっくりだった。義母も美しい人だった。

「長い間よく頑張ったね!」辛さから解き離れて、大好きだったYさん(夫)に会えることを、義姉としてほっとして見送らなければと思いながらも、涙は止まらなかった。彼女に相応しく淡いピンクのバラなどに囲まれた祭壇、義妹の子供達と我が家の娘達などは、子供の頃一緒によく遊んでいたので、横浜から長女も駆けつけた。甥や姪たち、孫達、若い人達が多い式で、永遠に少女のような雰囲気を残していた義妹に相応しい式だった。アメリカにいる次女はさすがに参列は出来なかったが。

 彼岸の向こうでは、明るく元気にYさんと楽しんでね。花を沢山愛でてね。

 

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