ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

伊豆堂ヶ島へ

2006-11-26 12:38:39 | 旅&温泉紀行

 伊豆二日目 バスに揺られて西伊豆『堂ヶ島へ』
  ホテル。

 高台のホテルの広い窓ガラスから、明け染める伊豆の海と空を眺める。少し曇りかなと思われる空だったが、それでも朝の光が広がり、海面に柔らかな朱色の揺らぎを作り出す。しばし見とれながら、さて2日目は何処へ。市内も湾内遊覧船も興味はあるけど、折角だから足を伸ばしてみようかな。

ホテルのフロントのお兄さんが『夕方までに駅に戻るのなら、堂ヶ島あたりがいいですよ』とパンフレットをくれた。よし、そうしよう!Mさんに?してお礼と行き先を告げる。

下田駅前より10時発のバス。このバスの中が楽しかった。乗客はお年寄り二人。『何処から?』と尋ねられ、『横浜からですが、ほんとは九州の太宰府から』『まあ、一度太宰府天満宮行ったことがあるよ』に始まって、運転手さんも加わってのお喋り。『帰りは海沿いのバスに乗るといいよ、時間はかかるけど、綺麗な海がずっと見えるから』など教えてくれる。そういえばバスはずっと山の中を走る。地元のお年寄りが時々乗ったり降りたり。お互いに顔見知りらしく、ご近所の人の話や病院通いの話が飛び交う、その間に私の方を向いて、話しかけてくれる。旅の楽しさを感じるひとときだ。峠を越えて堂ヶ島へ。1時間半くらいだったか。

 堂ヶ島では『洞窟めぐり』の船に乗る。ガイドさんの話を聞きながら、明るい静かな海を 楽しむ。源頼朝が隠れ住んだ岩屋などもあるとか。佐賀の唐津の七ツ釜というあたりに風情が似ている。海の洞窟、洞窟の上にまん丸な穴が開いて空の色がまぶしかったり。

 

潮風と優しい波のうねりとが心地よかった。長い歴史の中で刻まれた地層の浮き出した岩肌などを楽しんだ。短い時間だったけど。

 船を下りてあたりをぶらぶら。『加山雄三ミュージアム』が。いかにも観光客相手らしいなと。その隣は『蘭の館』とか。こちらは興味があったので、ちょっと立ち寄ってみる。ずいぶんと大きな建物。ちょっとさびれたような感じがするけど、館内 は蘭の花・花・花。

ウイークデイのせいか館内は殆ど人影がなく、長いエスカレータを上り、広い館内をめぐるとなんだかちょっと怖い気がしてくる。標識に従ってとにかく歩いてみる。蘭の原種・歴史世界の分布図などもある。『伊豆の海一望のもとに』の看板に釣られて、山道へと出た。木立の中を歩くと”つり橋”が!!。

ととろサンは自慢じゃないが高いところが駄目。四国の祖谷の葛橋でも、座り込んでしまった経験があるくらい。”どうしよう、引き返そうか”でも~見晴台からの海の眺望は見たいし。決心して恐る恐るしっかりと手すり(鉄の綱)を握りしめながら、下を見ないようにしてやっとの思いで渡りました。「やったあ!」前後に全く人の影がないので、木立の中の細い道を辿る時は正直なところちょっと怖くて不安でした。見晴台に立つと、その頃はもう曇っていて・・・伊豆七島など全く見えなくなっていました。水平線と空の境もぼやけてしまっていて。帰りはつり橋を渡らないで戻る道があったので、ほっ!下のロビーでは飲んだトロピカルジュースがやけに美味しく感じられました

    

      記念に、パチリ。

 

蘭の館が余りに広かったので、思いがけず時間をとり、海沿いめぐりのバスを使うと、帰りの時間が・・・。来た時と同じバスで伊豆下田駅へ。伊豆は金目鯛が名産とのこと、干物などを土産に。また、『踊り子号』の乗客となりました。南伊豆はじめまだまだ訪れたいところも。でも、またいつか・・機会があれば。楽しみは残しておいた方がいい。今回はMさんのおかげで本当に嬉しい旅となりました。改めて感謝

横浜に帰り着いて・・・「アラ、デジカメの充電器がない!」ホテルに電話「はい、お預かりしています。」また、やっちゃったぁ。「そういう方多いんですよ」とホテルの方に慰められたけど。今回は大丈夫・・と思っていたのに~またもや、ドジのととろサンでした。

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再び・・・”独り旅”

2006-11-25 08:52:20 | 旅&温泉紀行

 開国の歴史と海の町 伊豆下田へ

10月中旬から11月にかけて、横浜の娘宅に滞在。夫サンは所用のため、先に帰った。(いつものパターン)前回、娘に勧められて初めての(生まれて初めて!の)”独り旅”『富士山に逢いたくて』を体験。今回は以前から密かに”伊豆に行こう”とプランをたてていた。

 

パソコンを始めてまもない頃、親しくなったNさんが紹介してくれたMさんのHPには、伊豆下田の海や町の風景・歴史が紹介されている。彼女が生まれ育ち、今も暮らす故郷伊豆下田への愛と優しさに満ちたHPであった。

宿のことなど尋ねたら「お会いしたわ、案内します」と嬉しい言葉が返ってきた。私もお会いしたかったし・・・言葉に甘えての今回の一泊二日の小さな旅となった。仕事現役の時代に何度も伊豆白浜などに行った夫さんも「海も海岸も綺麗だよ。行っておいで」と。
Nさんも誘いたかったけれど、彼女はつい先日娘さんと伊豆方面へ旅したばかり。この時はMさんとは、日程が合わず会えなかったそうだ

ネットを通じて親しくなったWさんも、今回は『オフ会』へどうぞ!と声を掛けてくださった。以前の私は「オフ会ってなんだろ?」オフ会なる言葉も知らなかったのだが。Wさんの愛してやまぬ嬬恋は、四季折々の自然の美しさに包まれた地方だとHPを通して知った。その嬬恋へも一度は足を運び、自然のさまに実際に触れたいと切望しているのだが、今回は日程上無理だったのと、出来れば夫さん(山野草や山が大好きな)と一緒に訪れてみたいという気持ちも強く、ご好意に応じられなかった。

 10月も暮れの30日、新横浜から新幹線で『熱海』→『踊り子号』に乗り換えて二時間程で伊豆下田へ。駅ではMさんが出迎えて下さった。お互いに満面の笑みがこぼれる。「なんだか初めてあった気がしないわねぇ」BBSなどでお喋りを交わし、ブログなどには、その人の性格や生活の背景がおのずと浮かび上がってくるものだ。Mさんも思い描いていた通りの穏やかで優しい雰囲気の方だった。

 Mさんの詳しい説明を聞きながら、日暮れにホテルに送っていただくまで、下田の町を散策。穏やかな海、まぶしいような明るい陽光。昔を偲ばせる町並み。目を上げればなだらかな寝姿山(文字通り人が寝た姿に見える)が。

この小さな湊町に日本を大きく揺るがし、長年の眠り鎖国から開国へと大きく歴史を変えたペルーの黒船襲来、付随しての、哀しい情話唐人お吉の物語、吉田松陰がこの入り江の先の『弁天島』から小船に乗り、沖合いの米艦に乗り移り渡米を企てた小さな島は今は公園となっている~~などなど。掘り起こした事物展示の博物館的歴史より・・・人間のありようが絡むそんな歴史が好きな私には、わくわくする海辺の歴史模様の町であった。

 

綺麗ななまこ塀は、今はレストランですが、『欠乏所跡』です。欠損所とは嘉永七年(安政元年)に日米和親条約が終結開港となった下田では、薪・食料・石油・水などの必需品を入港する外国船のために提供した役所のあったところ。(Mさんから教えていただきました)

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伊豆下田へ

2006-11-25 07:02:04 | 旅&温泉紀行

下田の町散策

 下田の町にはお寺が多いようだ。小さな路地や町筋にすんなりと溶け込んでお寺が散在する。ととろサンはなぜかお寺好きなのだ。多分子供の頃、祖母のお供でお寺参りによく出かけ、あの抹香くさいといわれるお線香の匂いに満ちたひんやりとした本堂や鎮座まします仏様にいつのまにか愛着を覚えていたのだろう。尾道を散策したときも、確か32かの全部のお寺を回ったことがある。

  

 ペルーの宿所となった玉泉寺には、ペルーや通訳ヒュースケンの寝起きした部屋が当時の侭保存してあった。このお寺はMさんの菩提寺。春は楼門にかぶるように咲き誇る河津桜と、境内の藤棚が美しいという海善寺はMさんのご実家の菩提寺。14代将軍徳川家茂公が京都に向かう途中、嵐にあい風待ちのために泊まったお寺だそうだ。
唐人お吉の寺は宝福寺泣いて別れたという恋人鶴松の墓は稲田寺。別々のお寺に眠るのも、悲しい定めの行き着いた先といえよう。

    

 面白いなと思ったのは、お寺さんに唐人お吉記念館などが併設されていること。確か鶴松さんの菩提寺にも何かあったような気がしているが。しっかり経営理念があるお寺なのかも。

唐人お吉ショート・ストーリー

 17歳の芸妓お吉は”新内明烏(あけがらす)”が上手でしかも美人だったという。それをみこまれ、下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に説得され、恋人の船大工鶴松と別れ、ハリスの侍妾(じしょう)となった。伊豆の人たちが初めてみる異人、いや日本人にとっては驚異だった雲をつくような怪人にみえたであろうハリス。その妾となるのは、お国のためにという大義名分と多額のお金とに縛られてのことだっただろう。

ハリスに仕えたのは短い期間だった。お吉は、「唐人」とののしられ横浜に流れ、鶴松と世帯も持ったがうまくいかず別れて、後に下田へ戻り小料理屋「安直楼」を開いたが、酒に溺れて店もつぶれ、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ(お吉が淵)、自らの命を絶ってしまう。日本が開国へと向かった歴史の大波の揺れた時代、陰にはこんな悲哀にみちた女性がいた。波瀾にみちた51年の生涯。あまりにも哀しい物語。歴史の陰にはその歴史を動かしたような女性もいれば、権力の犠牲となった哀れな女性もいたことを改めた感じてしまった。

   Mさんのそんな下田に伝わるさまざまな話を聞きながらの散策は、本当に楽しかった。昔を今に偲びながら、夕暮れまで付き合ってくださった。

 途中で「ちょっと休みましょうね」と立ち寄ったのはMさんのお宅。HPで想像はしていたが、本当に本当に海まで0分のところにあった。淹れて下さった美味しいコーヒー、ブルマンにほっと安らぎながら、目の前の窓ガラス越しに、下田の入り江の静かな海を眺めることができる。遊覧船『サスケハナ号』がゆっくりと姿を現した。すばらしい借景である。天候によって季節によって変わる海のさま、赤く染まる夕焼け、暮れなずむラベンダー色の空を日々眺められるのだから。『とっても気に入っている・・』とおっしゃるMさん、当然だわ、Mさんの宝物だなと思った。

  Mさん宅の窓からはいつも優しい下田の海が見える。

Mさんの下田散策のお供、海大好きな愛犬”嵐君”にも初お目見え。喜んでしっかり尻尾振って甘えてくれたので、嬉しかったわ。優しいワンちゃんでした。

Mさんと歩いていると自転車で通りかかった女性が「あら!」と声を掛けた。『親友なんですよ』制服姿の高校生に『母校の制服』とMさん、生まれ育った町で暮らす彼女の日常をかいまみる思いで楽しかった。ずっと故郷で暮らせることは、幸せだなと。 道端にはまだ向日葵が、夏の名残りの風情をみせていました。

私の育った博多の町は福岡大空襲で、一夜にして焼け野原となり、あたりの様子も変わった。私の生まれ育った家のあたりは・・・商業の町となってしまった。当時の友人達もほとんど郊外などに移り住んで、今は若者相手のお店や飲食店が並び、にぎわっている。だから時折、戦災に遭わずそのまま残った博多の町の路地などを、探して歩いたりする。懐かしい昔の匂いが残っているような、そんな町筋を見つけ出すと無性に嬉しくなる。

 

(昔の建物をそのまま生かしたレトロなお店)  (しっとりした街並みも)

古い町並みを散策してレトロなお店へ。『風待工房と名付けられた(下田は船が風を待つ港でもあった)この店はMさんの弟さんの店。昔は川沿いに並ぶ遊郭だったそうだ。その一角を買い取って、そのままの雰囲気を生かした店作り。弟さんの目で選んだ陶器類や昔の品などが古さを残した店内にさりげなく置かれている。手先が器用な風貌も自然体で穏やかな笑顔の店主は、店の二階(住居かな)は自分で建て増ししてしまったとのこと。そういう話を聞くと、”ものに拘る”気持ちの持ち主だということがうなずける。

ゆったりとした時間を過ごして、夕暮れの色濃くなってきた中を宿まで送ってもらった。穏やかな優しい海・明るい空・レトロな町並み・歴史の色濃く、温泉があっても妙にきらびやかではない、落ち着いた雰囲気の町だった。

もう一度・・・訪ねても新しい発見が待っている、そんな想いがある。再び~気軽に立ち寄れそうなそんな暖かい感じを受けた。

 宿はネットの直前何とかでとても割安にゲットできたが、なんと!十帖以上はありそうな広い広い部屋。窓からは海が!。食事も海の幸がならぶ。ただし、部屋食!独り旅には贅沢すぎたきらいありだったが、ひろ~~い部屋の真ん中で、独りで部屋食ってのは・・・いやあ、食卓の品数は多いけど・・・いと寂し・・・でゴザイマシタ

 一日中付き合ってくださったMさんに、心からの感謝を!

明日は「独り旅」・・・さて、西に行くか南にいくか。風の吹くまま足の向くまま~なぁんて。

案内してくださったMさんのHPは  海辺のmituru

下田の町の素敵な風景・風物・自然と優しい心があります。

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11月23日 晩秋から初冬へ

2006-11-24 07:24:19 | 日々の中で

 昨夜から雨。ネットのSさんのブログに『山茶花梅雨』とあった。そういえば、そういDcf_0015 う表現があったなあ・・と庭の山茶花に降る雨をしばし眺めた。

 調べてみると冬の雨にも色々な表現や表情があるものだ。朝時雨・片時雨・北時雨・山茶花時雨・小夜時雨北山時雨磯しぐれなどなど。これらは気象用語としても使われているという。日本語って・・・風流な言葉が古来から数多く残っているものだなと思う

亡き父がさほど上手ではないのだが、俳句を楽しみとしていた。だから家には俳句の月刊誌や本、歳時記のたぐいが並んでいたし、父の句を詠む姿を子供の頃から眺めたり、わが家で句会がある時は、父の師である河野静雲から『一緒に』といわれて、たどたどしい句を作ったりしていたものだ。小学生の頃だった。まだ無邪気だから、素直なPhoto_101句が出来たりしたような。

あのまま・・・続けていれば・・・もしかしたら女流俳人?まっさか!その静雲師の『仏心寺』(住職であった)がある太宰府に移り住んだのは嬉しいことだった。



        秋訪へば 秋の心に 観世音   静雲

太宰府の『観世音寺』で詠んだ句。観世音寺にこの句碑がある。歴史ある古拙観世音寺の秋の風情が感じられる秀句。(注)河野 静雲(昭和9年に俳誌『ホトトギス』(高浜虚子主宰)の同人となり、昭和16年に俳誌『冬野』を発刊。仏心寺を太宰府に建立した住職であり俳人)

昨秋松尾芭蕉の『奥の細道』を偲びながら、みちのくを訪れた。”立石寺”への苔むした石段や紅葉散り敷く道を歩き、芭蕉の句碑の前にたたずみながら、父を想った。”山寺(立石寺)”を訪れたいといいながら、実現出来ないまま鬼籍の人となった父だった。手帳を片手に句を書き付ける父の姿を見たような気がしたものだった。父娘みちのくの旅が出来たら~さぞや喜んでくれただろうに。

 しとしとと時折風を巻きながら、山茶花梅雨の一日。色づいた紅葉や蔦がぬれながら道に秋の色をにじませていた。父にしろ母にしろ・・・・ああもしてやりたかった、こうもしてやりたかった~~と想うこと多かりきである。

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