天候異変のような豪雨被害が続いた後のお盆、災害地が故郷の人達は、どんな想いだっただろうか。
今年は娘達も帰省出来ず、お盆の頃は義姉の実家の長崎へ帰省する事が多い広島在住の義兄夫婦も、今年は長崎へは帰らないとのこと。舅・姑の傍に住んで看取った私達だが、次男夫婦なので姑亡き後の法要を済ませると、義兄が広島で祀りたいと今は義兄宅に御仏壇もあり、我が家の仏壇は菩提寺の和尚さんに「魂抜き式」をしてもらった。
もう、仏壇でなくただの家具なので、処分してもいいのだが・・・仏壇となるとそうするには気が重く、そのまま祀っている。お盆の頃に義兄夫婦がよく家を留守にするので、その時はピンチヒッターで、我が家で迎え火・送り火も炊き、お供えなどもして舅・姑を迎えていた(和尚さんに聞くと、いいですよ、そちらでお盆をなさっても)とのことだったから。
だが、今年は義兄夫婦が家でお盆の時期を過ごすとのことなので「迎え火炊いたら、お父さん・お母さんに途中下車させることになるから、今年は何もしないで、お墓参りだけにしよう」とご隠居さんと話して。
毎年恒例の【三寺詣り】と95歳で家で家族に看取られ、天寿全うしたおばの初盆だけ(そこでイトコたちとか親戚に会って、昔話など色々飛び出して)最近はお祝い事より仏事の時に縁のある人たちに会うことが多い。
我が家の菩提寺大長寺(中央区舞鶴。ここには姑の実家の納骨堂も)⇒萬行寺(博多区祇園町。私の実家の墓所)⇒西教寺(博多区上呉服町)を回る。福博の街中にあるので、一気に三寺お参りするのが毎年の習わしである。
昔懐かしいボンカレーの広告が残っている路地は、TV【ぶらタモリ】にも出てきた博多の路地。母方の実家のお寺の前だ。この辺りは幸いに【福岡大空襲】を免れた。が、家は路地が細いので類焼を防ぐために、叩き壊された。その当時女学生だった叔母は(母の末の妹)自分の家が目の前で壊されていくのをみて、本当に悲しかったと話した。
その頃天神近くに住んでいた私の実家は、6月の福岡大空襲で焼けてしまった。B29からの焼夷弾の火の粉が舞う中を、防空頭巾をかぶって頭から水を掛けられて、逃げ惑ったあの夜と翌朝家のあったところに行ってみたら、見事に広大な焼け野原が広がっていて、ブスブス煙が上がり、壊れた水道管から水がジャージャー流れ出ていた。あの光景は幼な心に焼き付いて、今も夏になると蘇る。8月終戦直後の23日、2歳下の弟が疎開先で亡くなった。弟はまだまだ幼く、私にはこの上なく可愛い弟だったから~~。その死のショックは大きかった。母はもっとだっただろう。夜中にふと目が覚めると、蚊帳の中に身じろぎもせず座っている母の姿を見たものだった。
あれから長い年月が流れた。戦争で得るものは何もない。けれど戦争を知らない世代が政治家になり、きな臭い感じが漂う昨今は、心が傷むことが多い。
毎年早く8月が終わって欲しいと思ってしまう私である。
家で送り火炊かなくていいので、私の弟宅にお詣りして”送り火”一緒に…と思っていたが、この暑さでちょっと体調が思わしくなく、転ばぬ先の杖と家で今夜は静かに過ごしている。