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ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

久々の湯布院温泉

2007-05-28 12:54:20 | 旅&温泉紀行

  由布岳が田圃の水に写って。

九州は温泉が多く、それ程の時間を要しなくても、久住・阿蘇のような近いところ から南は鹿児島・宮崎、西は長崎・雲仙・島原など。だが、なかなか機会が出来ない。ましてや、関東以北は遠すぎて。ネットを通じて楽しませてもらっている。

久しぶりに”湯布院温泉”へ。知人(大分のラムネ温泉や、阿蘇五岳を眺望におさめる露天風呂の宿などはこの方の情報である)が『安いけどなかなかいい』と教えてくれた。

実はととろ夫婦5月23日は結婚記念日。ところが、この日予定有り。で、その前に前祝と。豪華絢爛フランス料理いや懐石料理つきの華やか温泉宿・・・と洒落る気はなく、近頃二人ともやけに忙しいので(実は記念日のことをケロリと失念していたととろサン。夫サンから言われて、はっと思い出したくらいであった)

とにかく静かな宿で、ゆっくり露天風呂に 入りたい!なまじなプレゼントより、温泉大好きのととろサンは、小さくとも温泉らしい温泉なら最高!

   

広大な麦畑(麦秋)みんなビールになるのね。   五月ごろに咲く【ミヤマキリシマ】

ドライブ途中の筑後平野は、両側とも見渡す限りの麦畑。色づいて綺麗なこと!『麦秋』とは良い表現だと思う。この近くにはSビール工場などがあり、この麦畑は全てビールに。それにしても何と広いこと!

  ”やまなみハイウエイ”を走り阿蘇を掠めて、飯田高原で暫し遊んだ。

 

  三股山がくっきりと。              山藤も盛り。天ぷらに出来るんだよね。

 下城の大銀杏』も若葉に包まれていた。小さな銀杏の葉が生意気に(笑)一人前に銀杏の形をしているのが、なんとも可愛い!。その脇の小さな雑貨屋さんでは、オジイチャン(家の中でした)とオバアチャンにいつも声かける。随分耳が遠くなられたが、元気だと嬉しくなる。おじいちゃんの作る落花生も、他の豆類も美味しいので、このルートの時は、いつも立ち寄る。100円均一。竹筒の中にお金は入れておく無人スタンド形式だ。

おばあちゃんとお友達、『写真撮って!』と。遅くなったけど、昨日送りましたよ。元気で美味しいお豆作って下さいね。

 やまなみハイウエーは緑色の芝生を一面に敷き詰めたような小高く、なだらかな丘陵地帯(阿蘇のカルデラ)がどこまでもどこまでも続き、草が眩しく輝き、日差しの中で牛馬がのんびりと草を食んだり、休んだり。このハイウエイは『牛馬優先道路』。時々牛や馬さんが道路をのんびり道を横切る間、車は大人しく待っている。

この広い広い柔らかで、なだらかな緑の平野を眺めながらのドライブは、本当に気持が良い。ミヤマキリシマが咲き始めてた。久住のあたりは、まもなく全山この濃いピンクの花で彩られる。親指の先より、ちょっと大きいくらいの花。可愛い花!

 ・硫黄山は、風の具合で噴煙が左右に。今日は余り風もなくおだやか。硫黄の匂いが風に乗って漂ってくる。でも温泉気分が高まってきて、悪いものではない。

さあ、湯布院へ

湯布院温泉は若い女性向の雑誌に紹介されて以来、ブーム到来の丁有名温泉地と化してしまった。高く聳える由布岳のふもとの小さな盆地、小さな綺麗な川辺には蛍が飛び交い、緑に包まれて、かけ流しの温泉の宿が幾つか。『隠れ宿』のような風情の、鄙びたとて素敵な温泉地であった。

11月や12月初旬は、空気が澄んで朝霧が発生し易く、湯布院の町はすっぽりと朝霧に包まれてしまう。ロマンテイックな光景である。

大好き!だったのだが。でも、今は・・・もう随分前から常時観光客がぞろぞろ、雑多な小さなお店が並び、地元名産ではない品が並べられ、落ち着かない町となってしまった。我が家に遠方から来る女性客の殆どが『湯布院に行きたい』とおっしゃる。

最初の頃は案内していたが、最近は・・・他のところの方がいいよ。と別の温泉へ。この小さな温泉町に130軒くらいの宿があるそうだ。勿論価格を問わねば、リッチな風流なお宿も、洒落た美味しいレストランも色々ある。だが、雑然として、わけのわからないようなお店が立ち並んでしまったことも事実だ。だからつい足が遠のく。それでも、今の時期は、新緑がどこも美しい。若葉の季節が大好きなととろサンは、嬉しくてうれしくて。若緑の輝きに目を細めました。

 さて、今回の宿は駅からすぐなのだが、まず静かだった。庭に一戸建ち。10戸く らいか?民宿”牧場の家”(何で牧場かは・・・わからなかった?)わらぶきの家が本館で食事どころ。お風呂は家族風呂が幾つか個別にあり、大浴場は男女とも露天風呂。これがなかなよかった。見上げると由布岳が聳え、新緑を渡る風が心地よい。

 部屋は・・・和風に作られた庭の中に、ごくごく普通の簡単な建築の家が何軒 か。玄関入ると六畳二間に小さな縁側。(若い頃住んでた借家に似ているなあ。) ちょっと回りの風情とそぐわないのがおかしい。

そういえば、ここの庭にはやたらに石碑があったなあ。川柳の番傘(有名な川柳の雑誌)の会主の碑とか、『平家物語』の”祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り・・・」の書き出しなどが彫られた石碑も。これもまた、なんか”オモシロイ”感じ。更に囲炉裏を模した昔風のフロントには、あれま、有名人がいっぱい。北島三郎・坂本冬美・夢何とか旅番組のスター・目黒祐樹・古くは津軽三味線の高橋竹山(余談だが、この人の演奏会素晴らしかった)などなど。この宿の社長さん(おじさん風な)と並んだ写真がずらりと掛けてあった。一時期、こんな田舎屋風な風情が温泉ブームの時代に、テレビなどで受けたのだろう。庭にはオオヤマレンゲ(椿かな?)の香りが漂っていた。

  

   宿泊の人数が限られているのがよかった。豊富な湯量の、広い露天風呂は早朝も夜も独り占めである。由布岳を眺めながら”最高の贅沢だなあ”とつぶやいたととろさんであった。部屋も寝るだけだもの。床の間付きだし(関係ないか)、これで充分。民宿だから、お布団は自分で敷き、お茶も自分で入れるが、仲居さんが出たり入ったりするよりいいかも。借家時代の若い頃を思い出させた部屋は、結婚記念日に相応しい感じがして、おもわずしみじみと、昔語りに夜は更けていった。43年・・・よくここまでたどり着いたものだ(爆)。若い時の苦労は買ってでもしろ終わりよければ全て良し。昔の人は、良い言葉を残したものだ。

 

露天風呂                    金鱗湖で。

 食事は『お肉がいいですよ』知人の言葉に『焼肉コース』を頼んでみた。確かに!豊後牛は柔らかく美味。大きなお皿にはお肉・地鶏・生椎茸などきのこ類・定番のキャベツ・にら・人参・ピーマンなどなどがずらり。これに、『酢の物・茶碗蒸し・サトイモ・蒟蒻などの煮しめ・お刺身(新しくて美味。九州は山でもお刺身が美味しかったりする)・鮎の塩焼き・椀蕎麦』だったか。とにかく、『ご飯お持ちしましょうか』といわれても・・・おなかは満杯で。

  洒落た献立ではない、ごくシンプルな素朴な料理だけど、焼肉にこれだけつくと・・・。多すぎる程。一泊二食で8,000円から。値段の違いは、一戸建て借家風宿がどこに面しているか。山側か道側かなどで違うそうで、食事は全く一緒だとのこと。

食事処の、お揃いの赤いエプロンのオバサンたちは、バイトの方達かな、なんか余りととろさんと年も違わないような。食事の時に一緒になったのは、韓国からの若い女性。浴衣の着方が解らないと手真似で。オバチャンが、ちゃんとつくろってあげて帯を結びなおして、気さくに話しかけ(勿論日本語で)「いっぱい食べてね」なんて優しい。身振り手振りと笑顔は万国共通の言葉だなと再認識。

そのお嬢さん、立派なカメラで、献立の一つ一つを撮っていた。。ととろサン達にも笑顔で・・・ハッキリした日本語で話せば、挨拶程度は解るらしい。翌朝も一緒になったが、『お会いできて 嬉しいです』と一語一語はっきりと言ってくれた。『とても上手ですよ。日本語 勉強しているの』『ハイ』旅の小冊子かな、辞書かなを片手に。浴衣着て下駄を履くのが、とても楽しそう。可愛い美人さんでしたので、写真撮りたかったけど・・・やっぱり遠慮しちゃった。笑顔が輝いていました。。きっと素敵な日本の旅を、体験してくれることでしょう。

 九州はアジアと一番近い国。昔から交流の多かった地方です。韓国とも中国ともその交流には、さまざまな歴史上の問題などもありますが、『近くて遠い国』ではなく、最近はとても近い国・・・になっています。太宰府天満宮でもそうですが、九州のみならず、日本のあちこちでアジアの旅行客を見かけるのが、当たり前の風景になってきました。良い交流関係を結べることを祈りたい気持でいっぱいになった。

 翌日はガイドブック片手の若い女性や、観光バスからぞろぞろの観光客を避け て、人気のない昔の雰囲気の残るあたりを散  策。でも、好きな喫茶店は有名な宿の傍だし、金鱗湖も近くだし、やっぱり行っちゃいました。人だらけだけど、休日ではなかったので、まあまあってところかな。 

 湯布院散策ののち、湯布院の町を右下に見て、山手の方へ100Mくらい登ると 小さな緑に囲まれたレストランがある。(有名な”無量塔・・・むらた・・の手前横かな)笑顔が優しいひげのマスター(『ムスタッシュ』とはイタリア語で髭のこと)と奥さん、お嬢さんの家族で経営するお店兼宿でもある。パンを作るのはお嬢さん。マスターはじめご家族が優しくて、居心地の良い家庭的な雰囲気が嬉しい。数年前友人夫婦(彼らが由布岳に登る時の定宿)と初めて来て以来、湯布院高原の山野草散策の時には立ち寄ることが多い。  

 緑の樹木や花々に囲まれた、小さなレストランはイタリア料理がメーン。宿泊はお店の奥。天蓋の付いたベット・ルームと音楽を楽しめる居間。小さいけどお湯がいつも溢れている温泉。(全てがこじんまりとして、静かでお気に入りの宿でもあり、ちょっと昼食に立ち寄ったりもするところだ。外のテラスに若い二人連れ、店内には外国の人達。大分大学に招聘されたアメリカの教授夫婦達と日本の先生方が10名ほど。

  湯布院の町中は盆地なので、今日も汗ばむほどに暑かったが、ここは少し山手だから、気温も低く、緑の木々を吹き抜ける風が心地よい。英語の会話が流れてきて、アメリカにいるような感じだね・・と夫サン。娘のことに想いを馳せる。横浜とアメリカに暮らす娘達。その日々の健康と幸せを願う想いを、湯布院の緑陰からはるかに祈りながら、時間がとまったような空間に身をおいていた。

結婚記念日のお祝いにと、心遣いのワインを頂き、マスターの笑顔に送られて湯布院への小さな旅は終わった。

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サポート隊出動?)

2007-05-28 12:53:38 | 草の根地域福祉

 男性軍 頑張る!の巻

5月26日土曜日の午後、自治会の要請で『サポート隊』出動。”公民館の暖房器具・照明具等の清掃を!”(サポート隊は自治会活動でもあるので、これは少しばかりジョークでもあるのだが)

かなりの人数の男性が出席(殆どがリタイア後の人だが、現役の若い方も。嬉しいことだ)天井の暖房器具・蛍光灯・換気扇など、女性ではなかなか上手くできない、高いところのものも、あっという間に綺麗になり、室内が明るくなった。

 『大勢ですれば、早いわネエ』とか『やりだすと男性の方が、やり方が丁寧ね』と雑巾などを絞って、脚立の上の男性に手渡しながら、女性軍は感嘆のまなざしで見上げたものだ。(お父さん達の株、大いに上がりました)

あっという間に片付いた後は『懇親会』・・・缶ビールにおつまみ、焼き鳥など余り手のかからない酒肴で。奥さん方の手作り持参のものも何品か加わって。自己紹介のあたりから気分もほぐれ、ジョーク連発の方もあって、笑い声が大きく響くようになった。談笑気分盛り上がってました。

日頃地域内で集まる機会がない男性たち。今回は絶好の地域デビュー、二度目の社会参加のきっかけである。強要すべきものではないので、後は自然の流れに任せていこう。

特筆すべきは、『男の料理教室』で作った『酢の物』(キャベツ・きゅうり・わかめ・針しょうがの”ピリ辛酢の物”を復習?で、何人かのオトウさん達が作ってくれたこと。味付けもばっちり!美味しいと好評。ささやかな宴が終わって・・・皆さん、台所まで使った食器などを、運んでくださった。

ととろサンたちが子供会などをやっていた頃は、お父さん達に若い男性も加わったりして、『ソフト・ボール』チームがあり、太宰府市の対抗試合などに出たものだった。子供達もチームがあり、指導もして下さっていた。試合や練習の後は、ちょっとビールで乾杯、お疲れさん会。運動会もあった。今は老齢化?して解散してしまったが、その頃の人たちの間では夫婦ぐるみの交流が個人的に続いているようだ。当時の夫サンは”会社人間”で、地域のことなどには一切タッチしないで、ととろサン任せだったので、ソフトボールにも運動会にも縁がなかった。夫サンは中・高まで短距離の選手だったから、運動会の地区別リレーに出て欲しいなと思っていたが、一度も実現しなかった。地域にデビュー(笑)したのは、定年後のことである。

笑い話だが、その頃ととろサンはお姑さんと、買い物など殆ど行動をともにしていたので、隣近所の方は、ととろサンは実の娘さんだと思い、したがって、余り姿も見ない夫サンは『養子さん』と思われていた節もある。日本成長期には、こんな会社人間の男性も、多かったようである。

 男性の方達は、仕事などの分野はそれぞれ違っても、長い間社会で働いてきた方たちであり、自己紹介でも・・・とマイクを向けると、それぞれがちゃんと話してくださる。 社会経験が豊富なだけ、話題の範囲も、趣味の範囲も広いのだが。地域に参加というのは、ある種わずらわしいと考えている人が多いのだろう。人は人に支えられて生きているものだから、自分のできることで、少しだけでも人を支えてみることも考えていい・・・のが定年後の人生の課題の一つなのかも。そこから得るものもかなり多い筈だと思う。(初めは表情がちょっと硬いですねえ。でも・・・だんだん笑顔がはじけてました。ととろサン、食べるのや呑むの(?)やおしゃべりに忙しくて、写真のこと忘れてしまってました。だから最初の頃のしかありません。)

女性の場合は、なかなか要領を得なかったり、嫌がられたりする向きもあるが。やはり社会参加してきた者と、家庭で主婦業専念してきた世代の多い女性達の違いだろう。

  終の棲家となる地域の中で、どう過ごしていくか。それは個人個人の考え方で、周りがとかく言うことではないが、こういう言葉を耳にした。

『山にも沢山登ったし、ゴルフなど趣味も色々あったけど、自分も仲間も歳を取り、山にも登れなくなり、趣味の集まりにも出かけるのが辛くなった。最後まで残るのは、町内・近所の人との付き合い。それを最近しみじみ実感している』と。

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フラメンコ・曽根崎心中 5月19日 

2007-05-20 22:31:20 | 映画・観劇・コンサートなど

  

   熊本の『八千代座』(以前ブログに掲載した、江戸時代そのままのレトロな芝居小屋。国の重要保存指定)で『フラメンコ・曽根崎心中』を観た。太宰府からは片道1時間。

 平成13年に初演。芸術祭優秀賞受賞作品の再演である。

曽根崎心中』は近松作の”心中もの浄瑠璃”として有名で、『文楽』『歌舞伎』でもしばしば上演される。歌舞伎の場合は、人間国宝中村藤十郎がまだ”扇雀”という 名前の頃に初演。一躍”扇雀ブーム”が起こった。

    素敵ですね。

 阿木耀子作詞&プロデュース、宇崎竜童作曲&音楽監修、フラメンコは日本での踊り手第一人者鍵田真由美&佐藤浩希(お初と徳兵衛)・・・そういえば、どちらもご夫婦、絶妙のパートナー。といっても、宇崎さん達は知っているが、フラメンコは2,3度海外からの公演で見ただけなので、日本のスターの方たちのことは知らなかった。プログラムやネット・フレンドで、フラメンコを習っているKさんからの知識である。(彼女はこの舞台の主役である、鍵田真由美さんにかって習っていたのだそうだ)
フラメンコで曽根崎心中?フラメンコは激しい踊りで、あの連綿とした恋の物語に合うのだろうか、タンゴならわかるような気がするけど・・と思いながらも、どんな舞台に仕上げているのか、無性に気になっていたのだが。実際に幕が開くと、シンプルで斬新な舞台装置の中で(舞う人たちを引き立たせながら、舞台として確立していた。あの、伊藤喜朔賞奨励賞受賞とのこと)。

死出の旅路を決意した時のお初は真っ赤な衣装。道行で死に直面する時は真っ白な衣装、他の踊り手もさまざまに意匠を凝らして、さまざまな色で舞う。ただ、徳兵衛の衣装を初め、男性の装いがちょっと気になってしまった。シンプルというか、江戸の職人を思い浮かべてしまったのであるが。色彩感覚の素晴らしさに加えて、技と演技力を全身で発揮する。鍵田真由美の身体の柔らかさに、驚かされた。歌舞伎では”海老反り”という背中を床につく程反らせる技も、各所にでてくる。あのカタカタとなんていうのだろう、専門用語では。靴のリズムが身体に伝わってくる、いつの間にか身を乗り出してしまっていた。

フラメンコの持つ激しさと優しさが、上手くお芝居に生かされて、ソロの場面も群舞も、そして二人の息のあった舞もそれぞれに、変化を伴って観客を魅了した。、敵役の九兵次(矢野吉峰)はコミカルな面を出すためかちょっと腰をかがめた形で踊る。Kさんに聞くと。フラメンコでああいう姿勢で踊るのは至難の技とのことだ。優秀な踊り手たちと美術と演出と・・・色々なものが上手く生かされ、再演ということもあって、初演よりもっと練り上げられたものとなっていたのだろう。惜しむらくは、全部生演奏で聴けたら、凄いだろうなあ・・・東京では生演奏だったのだろうな。しかし、地方の小さな劇場では無理なことではある。劇中の道行の琵琶演奏は、黒田月水という土佐琵琶の第一人者の方が、出演なさっていた。

カンテ・フラメンコ(フラメンコの歌い手のことをいうそうだ)という名称もやはりKさんから教えていただいた。滝本正信・川島桂子・石塚隆充といった方たち。

 私にとっては日本人によるフラメンコの舞台は、非常に珍しくもあった。日本の伝統芸能の作品を、フラメンコで表現するという試みは、見事な舞台となったようだ。

先ず、西国三十三ヶ所お札所めぐり・・・『一番目は天満大融寺』に始まる静かな導入部とささやくような歌声、静かな動きに魅せられた。十八番まできて、ここから、お初と徳兵衛の悲しい恋の物語が始まる。

友達であり、恋敵である、九平次のわなにはまってしまう徳兵衛、どうにもならぬ浮世の義理。死を選ぶしか、二人が結ばれることは無い結末へと、時に激しく、時に静寂の中で、踊り手は二人の恋を表現していく。文楽や歌舞伎の場面を上手く取り入れ、浄瑠璃の名文句も生かされて・・・”あれ、数うれば暁の七つの鐘の、六つなりて、残る一つが今生の鐘の響きの聞き納め・・・”と心中へと向かう『道行』・・・そして死の場面。手に持つ刃、ためらう徳兵衛、潔い観念の表情のお初。崩れ落ちた二人の上に舞うは、桜の花びらか。

最終幕はまた、お札所巡りへと戻っていく。19番より33番まで。淡々とご詠歌風に寺の名前を唱えながら。踊り手の姿が消えて、静かに静かに幕が下りる。死ぬより他に、愛を貫くすべのなかったお初と徳兵衛の恋。九平次の悪巧みが暴かれた時には、もう二人は死出の旅路へと踏み出してしまっていた。純粋でひたむきな恋、そして悲しい終末は見ていて胸が熱くなった。 曲も詩も物語のテーマにしっくりと、溶け込むように、観る人の心に染み入るようであった。

♪夜のしじまに隠してみても、隠し切れない現身(うつせみ)の恋・・・・♪全編を流れる言葉は切ない心を映して余りある。浄瑠璃の心を阿木の作詞はよく謳い上げている。・・・宇崎竜童・阿木耀子・・・只者じゃないなあ!文楽とのコンポをTVでちょっと見たが、それも素晴らしかった。(人形浄瑠璃との組み合わせ、その舞台を観たかったんだけど)『曽根崎心中』の極まるところは、人形浄瑠璃・・・文楽にあると思うが、これはその浄瑠璃の世界を存分に描き出して、若い人にも近松の名作を、親しいものと感じさせたであろう。

 江戸時代にスリップしたような芝居小屋の中は、カーテンコールでは観客スタンデイング、更に宇崎竜童さんのギターによる主題歌の弾き語りが終わると、八千代座は歓声に包まれ、いつまでも拍手は鳴り止まなかった。

レトロな芝居小屋&フラメンコの取り合わせの妙、楽しませてもらった。(舞台関係の画像はパンフレットから拝借しました。)

★付録

 

 舞台が始まる前に、食事に入った店でレトロな小物がおいてある店先が賑やかになった。人だかりが。宇崎竜童さん、阿木耀子さんが。皆さんカメラや携帯を。『写真よろしいのですか』『ハイ、どうぞ!』とカメラ目線でにっこりと阿木さん。気さくな感じ。可愛い!という声が囁かれていた。若いなあ!。

宇崎さんは確か60歳の筈だが。ジーンズで無造作な格好だが、垢抜けてとても雰囲気が素敵である。若い頃より今のほうがずっと”いい男だなあ”なんて思う。いい男の条件って・・・内側からにじみ出るものかも。

宇崎さんは、照れくさそうに下を向いて。シャイなんだなあ。ツーショットで撮っている人も。そんなことはやっぱり出来ないので、遠くからパチリと。 阿木耀子さん、カーテンコールで、舞台に立たれたときは黒の衣装。それも素敵でした。(写真撮影、有難うございました)

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博多どんたく今昔ものがたり

2007-05-07 16:23:44 | 日々の中で

Photo博多どんたくのルーツは・・・十六世紀まで遡る 5月4日・5日は博多二大祭りの一つ『博多どんたく』(もう一つは七月の『山笠』)二日間で博多の街の人出は210万人だったとか。連休中全国一の数字を誇ったようだが。(全ての画像は”風さん”から了解を得て、お借りしました。有難う!博多大好き!風さんのHPには博多の祭りや風景が沢山ありますよ。)

★『ドンタク』の語源は、オランダ語で『ゾンターク』(休日という意味。海に面して港がある博多は海外との交易も盛んであった)江頭 光氏(西日本新聞社文化部・出版部長など)著書から引用させてもらうと

★”三々五々、町を流しては『祝うたぁ』と店先に入り込み、得意の芸を見せ合った戦前の博多どんたく。迎えるほうでは緋(ひ)の毛せんを敷いて、バックに金屏風。もてなしのご馳走は、冷酒に昆布(博多では”コブ“と言ったものだ)するめ、蒲鉾、芋と銀杏(これも”ギナン”と)のきんとん、せんべいに夏みかん。帰りに”あずかり”が渡された。赤で大きく”のし”と書いた半紙を結んだ笹の枝一本。ゴム印で店の名が押してあり、そこへ持っていけばマンジュウ一つと代わる仕組み。”あずかり”はいわば、かねての”ごぶさた破り”それが多いのが自慢で、一抱えほどを肩に、酔いも手伝ってヨロリヨロリと歩くあとから、マンジュウ一個になる半紙を狙って、腕白小僧がピョンピョン飛び上がりながら付いて歩く・・・そんな風景もほほえましかった。それも、これも、戦災でパー。(以下略)

お料理が簡単なものなのは、手につまんで指が醤油などで汚れないで、お酒とともにたべられるものをという配慮である。

昔から『博多は芸どころ』といわれた。海に面した博多の街は、城下町であるとともに海外貿易で栄えた商人の町でもあった。商家の旦那衆の懐は豊かだったし、手踊りや三味線、都都逸の一つでもご披露しなければ、仲間内の寄り合いで恥ずかしくて・・・というところだったらしい。だから『どんたく』の時はそういう商家の人たちが、芸を披露する祭りであった。

江戸は黒田藩の時代から、上方などから来る歌舞伎芝居のほかに、地元を本拠地とする地役者たちもいたというから、風流や遊芸を好む粋な空気があったようである。黒田藩が役者達を招いて、興行をさせたという記録もあるようだ。

これが、戦前の『博多どんたく』商人の町”博多”の風景。那珂川という川を挟んで、福岡と博多に分かれていた(黒田藩のお城のある城下町と博多商人の街。今はその呼び名は継承されている。観光客が混乱するのが・・・”福岡なのに・・・博多駅??・・・)

 Photo_3これに『松囃子』が加わるのだ。福禄寿・恵比寿・大黒天に扮して馬に乗り、そPhoto_4 Photo_5に”カサボコ”と稚児の列が続く。”傘鉾かさぼこ)”は赤や青・黄色柔らかい色調の垂れぎぬ。その下を赤ん坊を抱いてくぐると、その子は健康に育つという。今年のどんたくでも、その光景は見られた。

★”松囃子”は・・・江戸時代のの学者(博多の人)貝原益軒(「女大学」などの著書あり)の『筑前国続風土記』(筑前とは博多のこと)によると、小正月(1月15日)に三福神を馬に乗せ、囃子言葉を唱え、舞姿の稚児を引き連れて、黒田藩主(舞鶴城)のところへ行って猿楽の短い謡曲を舞って祝いとし、博多の中心の神社『櫛田神社(山笠で有名な神社)』から『祟福寺』(黒田藩の菩提寺として由緒ある寺)を回り、そののち博多の町を練り歩いたという。

更に♪”ぼんち可愛や ねんねしな、・・・・♪博多ドンタク 松囃子・・・”と「しゃもじ」を打ち合わせながら拍子をとり、三味線やかねの囃子の行列が続く。

何故?お祭りに「しゃもじが?」一説によると、祭囃子の余りにも調子よく楽しげな響きに、町屋のおかみさんが、手にしゃもじを持ったまま飛び出して、そのしゃもじを打ち鳴らしたのが始まりとのことである。そのしゃもじを打ち鳴らしてのドンタクの唄『ぼんちかわいや』は、もとは江戸のしりとり唄を博多風にもじって作られたものらしい。

戦争により福岡大空襲の被害を受けた福博の街は壊滅状態。どんたくどころではなかったが、昭和21年5月、まず奈良屋校区がドンタクを復活”戦災復興”を掛け声に、また、どんたくが始まった。

★現在は個人参加ではなく、博多の経済界(銀行・会社など)や地元商店街などに、さまざまな民謡や踊りの会、町内会などのいわば団体によるパレード行進に、観光客も巻き込んでの二日目最終日の総踊りへと、祭りはなだれ込んでいく。路面電車のある頃は花電車、今はバスきらびやかに飾りつけ祭りの盛り上げに一役買う。、これは子供達だけでなく見物客大喜びである。祭りの形は大掛かりになり、よりきらびやかにはなったが・・・。

昔私の実家は、戦前までは博多の町の中心街である”川端”というところがいわばルーツであった。川端町1番地・・・と、博多では著名な『万行寺」が菩提寺であることを、亡くなった父は誇りに思っていたようで、郊外に移っても本籍はそのままにしていた。母の実家もやはり古くからの博多の街中で、幸いに戦災を逃れ(家は接収解除という処置で、戦争時の類火を防ぐため、壊されて疎開しなければならなかったが)何代も同じ場所にいる。(私にも博多の「のぼせもん」の血が流れているようだ。)

博多商人の代表的な街、川端での大店は祖父の代でつぶれた。祖父は心底商売というものが嫌いで、できれば絵描き(画家なんて洒落た表現はしない。)か博多人形師になりたかったらしい。なかなか器用な人で確かに絵心はあったようだ。だから父の弟(叔父)も絵が上手く一応芸大受験まで経験がある。但し一回目は失敗。東京に残って浪人のつもりが、その時代芸大目指していた浪人生は、いわばアウトロー。小柄で優しい叔父に言わせれば『あらけない(荒っぽい)、えずかごたあ(恐ろしいような)人ばっかり』で、叔父は早々に故郷へ戻ってしまったという。

余談だが、この叔父、名前を「マスオ」という。10代の頃、漫画「サザエさん」を描いた長谷川町子さんとは、福岡の画塾で一緒だったそうだ。町子さんが県立高女の女学生だったという。漫画に登場する「マスオ」さん、”もしかして?町子さんの初恋はおじさん?”なんてからかって『馬鹿なことを」と苦笑させたものだ。でもねえ、画塾から海水浴に行ったり、上手な絵入りの家庭科のノートを見せてもらったりしたことがある・・・なんて聞くと(笑)。その頃の叔父は、なかなかの美少年?だったようだから。

亡き祖母から昔の博多の話をよく聞いた。今になると、もっと昔話を聞いてノートでもとっておけばよかったな・・と思うのだが、後の祭りである。紋入りの幕を店に張り巡らせて、いつでも入ってきて(ドンタクの人が)よかごと(いいように)用意バしてた。』そうだ。面白い話を聞いた(これが一番記憶に残っている)まだ祖母が嫁に来たばかりの、若いご寮さん(ごりょんさん)・・・博多の商売店の奥さんのことをそういう)だった頃のこと。

ドンタクの日に『花嫁行列』が店先に。「ドンタクと嫁取りが重なってしもうて・・」と仲人さんの挨拶。綿帽子を被った楚々たる風情の白無垢姿の花嫁さんや、とりまきの人たちがずらりと後に控えている。祖母は慌てて『どこのお店の?』と思いながら、慌ててご祝儀を用意して「おめでとうございます。まあ、佳か(良い)日によかことの重なって。どちら様のご祝儀で?」

と。とたんに「祝うたぁ」と一斉に声が上がる。びっくりした祖母に花嫁さんが綿帽子を上げるとなんとそこには、我が亭主の祖父が!いとも美しげに花嫁に化けていたのである。婚礼の行列を”とりまき連”の仲間達と演出した祖父であった。あげな(あんなに)驚いたこたあ、なかった。シャレっ気の多か人やったけど」聞いた私も子供心に、粋だった祖父の姿を思い浮かべながら(その頃はもう鬼籍の人)笑ってしまったものである。

Photo_2福岡はお城のある城下町ではあったが、殿様と博多商人は上手く折り合って暮らしていたらしい。お城の中へ『松囃子』を招き入れるお殿様もなかなか粋なものである。博多商人の中には神屋宗湛のような知性優れた大商人もいたし、港のある町博多の商人は、新しいもの好きな先取の機運に燃えていた人たちが多く、派手に洒脱な遊びをして、町の発展にも大いに貢献したらしい。
祖父も・・・派手に遊んだり(この遊び方がまた面白い)、道楽に凝ったりして、肝心の家業は傾いて人手に渡ったという次第であった(最ももし祖父が何とか店を残していても、父はある種自由人のような生き方をした祖父を見ていたから、逆にまことに堅物で、こちらも商売なんぞは出来そうにもない人であった)

祖父は、人形師にでもなっていたらきっと素敵な博多人形を創っていたのではないかと思う。中風を患って手が不自由になった祖父だったが、私のために窓からの景色を写生してくれたりしたその絵は、なかなか見事だった。また、私の雛祭りのために、博多人形でひな壇飾りを叔父と二人で作ってくれたそうだ。亡き母が「あれは・・・残しておきたかった。素晴らしかった」と(私は記憶にない)。写真に凝ってもいたが、全ては福岡大空襲、灰と化してしまったのである。

戦後博多の街の中心は、福岡部の”天神”に移り、小学校の同級生には新天町などの子も多かったから、ドンタクに出るための稽古が忙しかったり、早退したりしたり。先生も「どんたくだから」と暗黙の了解。のんびりした時代だった。町のあちこちにステージができ、素人の芸自慢の人たちがご披露するのを、見に出かけたものだ。

天神で勤めていた頃は会社のロビーで、三券番の綺麗どころのお姐さん達が、一踊り。黒紋付に裾ひいて、島田姿でずらりと。後ろには三味や唄、音曲も揃って。毎年いながらにして、楽しませてもらったが、今は券番も一つになり、芸者衆の数も少なくなっているそうな。 夜ともなると、静かになった路地に爪弾きの三味線の音が聞こえたり、また、風に乗って遠くからお囃子が流れてきたりする、その風情はなんとも言えず良いものであった。 

太宰府に移り住んでから、特に最近は『ドンタ ク』のために博多の街へ出かけることもない。とにかく、あの人出の凄さに圧倒されて疲れてしまうから。

Photo_2 Photo 今の『博多どんたく』は・・・流行の音楽やダンス、きらびやかな衣裳の参加者で街が盛り上がる一方、大切に博多松囃子の伝統を大切に守り続けていこうとしている。現代にマッチした伝統の祭りを創ろうとしている努力はわかるのだが、出演する人と見る人、迎える人との気持の交流のない、パフォーマンス、商業主義がベースとなってしまったような気がする。風流や情緒や博多っ子の心意気などがくすんでしまったような・・・。
 古き時代の風情のある祭り「どんたく」、子供の頃の、少し素朴だけど心が浮き立ったあのしゃもじやカネの響き♪”ぼんち可愛やねんねしな・・・博多どんたく松囃子・・♪と祭りのざわめきが聞こえてきた、あの頃を懐かしいと思うのは、年を重ねたせいなのだろうか (博多の歴史やしきたりなどについては、波多江五平衛さんの本も面白い。
おまけ。

粋な肩裏 (いきなすらせ)
 博多どんたくの衣装は・・・。羽織をするりと裏返せば、これが古くから伝わるどんたく参加衣装。博多っ子の粋がのぞく。

一束一本 (いっそくいっぽん)
松ばやしの通りもん(行列)を迎える側はお祝儀の「1束1本」を用意する。半紙1束と白扇1本のことで、三方に乗せて渡す。(もともと鎌倉時代以後の武家の謝儀のあらわし方だが、松囃子の挨拶を受けて、黒田の殿様は、こういう返礼をした。それがこれまでしきたりとなって伝わっている)

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なんじゃもんじゃの木

2007-05-02 20:08:07 | 日々の中で

 GW突入。どこの観光地も人・人・人~のようだ。太宰府でも県外ナンバーの車を見かける。リタイヤ後の日々の私達は、若い人の邪魔をしないよう、いや、実は混雑が苦手で連休の間は家を中心に半径・・・M内でひっそりと過ごす。

 先日散歩に出た夫が『なんじゃもんじゃが花盛りだよ』というので、太宰府天満宮裏手まで出かけた。境内はかなりの人ごみだが(遊園地もあるし)、ちょっと横手に回るとひっそりとしている。梅の季節もこの辺りの梅林は人も少ない。穴場・・と称してお弁当持参でこの辺りでのんびり楽しむことにしている。今の時期は下草も綺麗に刈り取られて、ピクニックには最適である。

   

なんじゃもんじゃの木」・・・この面白い名前は検索したところによると、昔青山練兵場(随分と古い話だ)のあたりに、この木があって「何だろう、何じゃ何じゃこの木は』といっているうちに”なんじゃもんじゃ”という名前になったと書いてあった。『明治神宮外苑」にもあるそうだ。

・木犀(もくせい)科。                     
・学名  Chionanthus retusus                 
         Chionanthus : ヒトツバタゴ属      
        retusus     : くぼみの ある円形の  ・・・という意味
  Chionanthus(チオナンサス)は ギリシャ語の「chion(雪)+ anthos(花)」が語源で、  白い花のかたまりを雪にたとえた。  とある。

 なるほどと納得。まるで雪を被ったような真っ白な花である。一つ一つは糸状のプロペラみたいな花の塊なのだが。太宰府では三条という町(天満宮近く)の個人の家、太宰府市役所(確か五島から贈られた・・とか。確認はまだしていないけど)それに、この天満宮横手の数本。まだ他にもあるのだろうけど。   ネットで調べると、全国あちこちに散らばっているようで、コメントが多いのも珍しい名前ゆえだろう。

珍しくって掲示板に貼り付けたら、Wさんが『奇想天外という名前の花もあるよ』と教えてくれた。  ( ナミブ砂漠のみに育成する本当に変わった奇想天外な、ちょっと不気味な花)地球上にはもっともっと、面白い花が沢山あるのだろう。

  http://www7a.biglobe.ne.jp/~websabotenkonjaku/konjaku2kisoutengai2.html

 (註)  ナミビア共和国(―きょうわこく)、通称ナミビアは、アフリカ南西部の首都ウィントフック。北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、また大西洋に面する。とありました。(ウィキペディアによる)

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