今日1月9日の西日新聞の朝刊に、こんな記事が載った。
【博多っ子親しんだ歌舞伎の殿堂・大博劇場】【大博劇場の歴史刊行へ】という見出しで。
大博(たいはく)劇場は終戦後暫くしてその幕を閉じたが、1920年博多区上呉服町にオープンして以来、博多っ子に親しまれた劇場であった。六代目菊五郎はじめ東京や大阪の著名な役者をはじめ、新派、新国劇なども来演した。
アインシュタインが来日の際、大博劇場で行った講演会の写真は、鈴なり超満員の人であった。また、ロシアの名バレリーナ、【アンナ・パブロア】もこの劇場で踊った。この劇場創立の代表者が私の祖父。この劇場は私の遊び場でもあった。お茶子さんと呼ばれた女性従業員さん達にも可愛がられ、私の幼少時代には、劇場にまつわるいろんなエピソードがある。解らないながらも、舞台も沢山見て、その色彩鮮やかな舞台と音曲に子供の私はいつの間にか魅せられていた。
もともと芝居の世界には全く関わりのなかった曾祖父が、仕事の関係などでよく大阪へ行き、初代中村鴈治郎の舞台を見て「博多のもんにも、こげなよか芝居を見せてやりたか(博多の人にもこんな良い芝居を見せてやりたい)」気持ちが高じて、先祖から受け継いだ土地などを投入して、ど素人なのに芝居興行の世界に手を染めていったのが、そもそもの始まりだった。家族たちはかなり迷惑を蒙ったようだ。この曾祖父は博多っ子らしい逸話の持ち主でもある。町内の有志を連れての【富士登山】などは、明治の新聞に記事になった(その当時は記事も”文語体”だ)
筥崎宮の浜で別れの宴を張って呑めや唄えやのあと、別れの水杯を交わして船出し、出雲大社や伊勢神宮、大阪などを回って富士山へ。かなりの月数の旅だったらしい。全員男性で女性は一人【髪結いのXXさん】が参加などとあるのも面白い。
私が今【たまには歌舞伎を観よう会】(洒落でそう名付けたのだが)の世話をしているのも、そんな曾祖父からの親子三代にわたる芝居好き家系の血なのかもしれない(私や跡取りの従弟は4代目)
息子二人がそれぞれ医者と会社員という普通の道に進んだので、諸般の事情から当時お茶の水女高師範(今のお茶の水女子大)を出て、同期生で親友の田中澄江(のちに作家)さんなどと脚本の勉強をしていた叔母が呼び返され、最後の幕を下ろすまで劇場のことを任された。
K教授が「川上音二郎」の話を聞きに叔母(実家の母の妹)のところに行かれた時に、定年後の叔母が【博多の芝居】のことなどを書き綴っていたノートを見て【ぜひ出版を」という話になり、叔母はK教授に沢山のノートを託した。この原稿は、叔母が上京の度に国立図書館などに通って、資料の照らし合わせなどをした正確なものに、自身の眺めてきた大博劇場のことを合わせて描いたもので、読み物としても面白かったから、その出来上がりが楽しみである。
私もささやかながら、その準備の段階でのノートからパソコンに打ち込む作業など手伝いをした。もう一人歌舞伎に関しては専門のI教授の研究室で、周り中に演劇関係の本がどっさりある中での(私の大好きな空間だった)、原稿のチェックや読み合わせ、内容の検討などをするのは、ほんとに楽しかった。明治以来の博多の文化の一端が、記録として読み物として蘇る、今夏の出版が待ち遠しい。亡き叔母もどんなにか喜んでくれるであろう。