ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

好きな映画館が消える!

2007-02-23 08:03:34 | 映画・観劇・コンサートなど

今月末で閉館・・・寂しいなあ。

福岡市の西区、TNC会館(テレビ西日本)の中に『シネサロン・パヴェリア』という映画館がある。サロンというだけに大きな映画館ではなく、こじんまりとした、まさに映画サロンの趣きである。そのサロンが来月末で閉館するという。

『寂しくなるなあ』と夫サンも言う。このサロンは、メジャーではないが、優れた映画を上映する館であった。映画といえばハリウッド、マイカル系の上映館が多い中で、稀有な存在であった。(都市高速で20分。やや遠いけど博多の海沿いの景色は、ドライブ気分で心地よい。

        父と暮らせば』(井上ひさし原作・宮沢りえ・原田芳雄)や『初恋の来た道』(中国)もここで観た。イラン・イタリア・フランス・インドなどさまざまな映画が上映された。
友の会会員になると(会費は年間1000円だったか)小冊子とともに原稿用紙が送られて来る。”よかったなあ!”という映画を観ると、感想を綴ってみたくなり投稿。掲載されるとペア招待券が届く。嬉しいプレゼントだ。誕生月にもペア券。10回観るとペア券のおまけが。映画フアンには、まことに嬉しい企画であった。映画好きな人が経営しているんだろうなあ。と贔屓の映画館であった。

高校生の頃、映画の会で試写を見て感想文を書くという企画があった。せっせと見てはせっせと書いた。良いものは封切洋画館の招待券がご褒美としてもらえる。更に地元の映画雑誌に掲載されたり、高校生の私にとっては、格好のアルバイト(?)のようなものだった。これで、随分と映画を観たものだった。広島在住中にも、そんな感じの映画館にめぐり合った。鷹野橋という古びた商店街の一角にその映画館はある。(広島のネット友人に尋ねると、まだ元気で存在しているという。嬉しいことだ)初めての時は、少なからず驚いた。飲み屋さんのような小さな店が~。なんだか昭和30年代のようなレトロといえば聞こえはいいが。”この上に本当に映画館があるのかしら?”半信半疑でこれまた古びた階段を登ると、奥まった一角にその映画館はあった。

中に入ると驚いた。少人数の上映室が確か二つかな。中は椅子もゆったりリラックスできる仕組み。天井には絵柄もあって。あの階段下の雰囲気からは、想像できない喜ばしい風情であった。ここも映画大好きな人が、経営しているのだろう。手のひらに入る位の 小冊子、確か『The End』だったか『End Mark』だったか。映画に関してさまざまな企画が用意されていた。深夜マラソン・監督特集などなど。他の館では上映されないような映画も随分観ることが出来た。映画・演劇・音楽フアンのととろサン夫婦にとっては、格好の楽しみの場所であった。ウオーキングを兼ねながら、歩いて出かけたりしたものである。

  ※『パヴェリア』から友の会会員の皆様へ~と夫サンと私それぞれに、ペア招待券と閉館挨拶が届いた。3月はリクエストに答えて、希望の多かった映画5作品を上映しますからリクエストをと。また、25日には『さよならイベント』を行うのでと出欠のはがきも。淋しくなるなあ。とまた、つぶやいた私だった。

映画『華麗なる恋の舞台で』(シネサロン・パヴェリア

久しぶりで大人の鑑賞に値する映画だった。期待通り。

 

映画の舞台は、1930年代のイギリスはロンドンの演劇界。主人公は舞台の大スター、40代のジュリア。演じるのは私のご贔屓の女優の一人アネット・ベニング。(『アメリカン・ビューテイ」「心の旅」など。)

主人公の夫は、元俳優で今は劇場経営者(演じるのは、イギリス生まれのロイヤル・シェ-クスピア・アカエミーの舞台で有名なジェレミー・アイアインズ・・・「仮面の男」以来ご贔屓デス。「ベニスの商人」にも出演)

脇がまたいい!ローレンス・オリビエ賞2度受賞の名優マイケル・ガンボン(ハリー・ポッターの校長先生も彼) 主人公の付き人で目立たないような役でいながら”上手いなあ!”と感心させられたのは、ジュリエット・スティーヴン(やはりロイヤル・シェークスピア・アカデミーでの第一人者。映画などでは脇で見事な自然体の演技を見せてくれる女優だ)他にブルース・クリーンウッド(『13デイズ』のJ・Fケネデイ役など)

原作は実力と美貌を兼ね備えた大女優として人気を博し、包容力のある夫と優しい大学生の息子という恵まれた状況にありながらも、女としての40代、満たされない心と何もかも投げ捨ててしまいたいような焦慮感じの中にあるジュリア。

登場するは若く積極的で熱烈な彼女のフアンのアメリカ青年・・・愚かとは解っていながらの恋が始まる。青年に更に若く野望に満ちた明日の女優を目指す若い女性が登場し、三角の線上で・・・ジュリアの恋の行方は・・・絶望の中から自分を見つめ、未熟な恋人と野心の塊の青年の新恋人で、出世のために夫を奪った新米女優に、彼女はどう対応するか?歓喜・苦悩が交錯する。ゴシップにまみれ、やり場の無い日々。しかし、人間喜劇の要素もあって、ユーモアもただよう。原作は、サマセット・モームの『劇場』  なるほど!

クライマックスは終幕の舞台の上で。どんでん返しの面白さ。火花のような激しく、息を呑む舞台である。ジュリアの女優魂の見事さ。そして、彼女は華麗なる舞台で、、女として女優として見事に蘇る。とにかくアネット・ヴェニングの上手さに圧倒された。さまざまの表情、時に女優として華やかに、時に女としての切なさを素顔のままでさらけだす。英語はわからなくても、台詞の上手さは伝わってくる。

それに脇を固める俳優達の、控えめで抑えた演技の中にきらりとひかるもの。舞台劇・・・ともいえよう。舞台は主人公が上手くても脇役の俳優が駄目だと、つまらない舞台となってしまう・・といつも思うのだが、この映画は見事。ひきつけられながら、最後のあのクライマックスへと。充分堪能した。早速友人にこの映画のことを?。 友人からのメールがきた。『久しぶりに良い映画を観たわ。全身から嫌味のない色気と魅力が溢れ、泣き笑い、そして最後にはスカートを翻して微笑む・・・アネット・ベニングはエレガントで上手い俳優ね』と。同感。今の時代でいうと、アネット・ベニングやケイト・ブランシェットは、いいなあ・・・と思う女優サンなのです。

お勧めの映画でした。1930年代の衣装もまた素敵!でした。周りの登場人物もなかなか!若い青年と女優の卵が未熟に見えるのは、あえてそんな感じで登場させたのか。

人生の機微を重くならずに、内容は深くお洒落に描いた見ごたえのある映画だった。

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陽光燦燦・・でもちょっぴり憂鬱?

2007-02-13 11:05:09 | 日々の中で

2月13日  なんという穏やかさ、暖かさ



まさに早春、穏やかな光が満ちて沈丁花の花も蕾が大きくなり、雪柳の枯れた枝の先にも小さな可愛い白い花が咲き始めた。

昨日も好天気で主婦業が捗った。日頃二人暮らしだからとサボりがちの掃除も、念入りにガラス窓も磨いて、いつもの庭の風情が美しく感じられる。来客用の寝具類も陽に当てて。動いた後はお気に入りの縁側での、”お茶タイム”も心地よかった。

  さて今日は・・・ひ・ま・・・休日後の買い物にでも。なれどちょっと憂鬱なのだ。

実は本日『英会話』の日なのである。娘がアメリカに暮らす関係で、1,2年に一度は20日間程ショート・ステイの真似事をすることがある。だから~出来れば”英語が話せたらなあ”と公の機関での募集に応募。最初は『初級』サークルへ。ところが、元気の良い若い先生のもと、リズムに乗って歌って動いて・・・というのがあった。How are you? I,m fine.といった会話を歌いながら。これが駄目で苦手で。だんだん気分が落ち込んでしまった。

2年目。サークル入門の前に「理解力チェック」を受けるシステムだった。歌ったり踊ったりするのは苦手なんです・・・と言ったからだろう。初級ではなく上のクラスになってしまった。人数は10人程。先生は日系の・・・日本語も日本の風習もよくご存知の感じの良い青年(といっても、日本人の奥様と小さなお子さんがいる方)。皆さん、英語のレベルがはるかに上のクラスだったのだ。ちゃんとセンテンスで先生への質問や会話も。”わあ、どうしょう”やめようか・・・アメリカにいる娘に言われたことがある。『お母さん、英会話サークルでは出来るだけ話すことが大事。勿論ヒヤリング(聴くこと)もそうだけど。参加することよ』と。持ち前の厚かましさに、娘の助言がプラスしたものだから大変である。英語だけでは会話にならず、日本語はさんで(というか日本語の方が多い)のお喋り。

仲間の皆さんはとっても良い方達で、足を引っ張っている私にも優しい。だけど、終わって一人帰る頃には、気持ちはションボリ。”やっぱり・・・英語は私には合わない、苦手だ。やめようか”用件が入って休まねばならない時は、内心ほっとする。登校拒否の子供の気持ちが理解できる。

中学で英語が始まった時、まず英語の先生が苦手だった。怖かった。スリッパで男の子などは頭をたたかれた。いつも鞭を持って、小柄だが声のでっかい人だった。嫌われたわけではない。むしろ可愛がられた方かも。学芸会などの指導もしてらしたので、発表会(という程ではないが)世話にもなった。でも苦手意識が大きかった。Is this a pen? I am a garl. 見れば解ることを、何故英語では説明しなければならないのか?不思議だった。それでも何とか点数はそこそこに。高校進学。

これがまた、英語嫌いの始まり。東大出身という大層ご年配の英語教師の授業は、全く面白くなかった。発音も英語にうとい私でさえ、なんか変だよ・・・。文法益々解らない。苦手意識は増加する一方であった。幾何と同じように英語の時間は苦痛でさえあった。それでも、地元の九大や福岡女子大といった4年制の大学に進学する友人もいたのだから(試験科目は八科目。勿論英語もある)。やはり・・・私の英語に対する感覚がおかしかったのかもしれない。

最初娘のところに行くと決めた時から、英語関係の本をあれこれ。気がついたらかなりある。勿論ラジオやTVの『英会話入門』などのテキスト類も。ところが長続きしないのだ。三日坊主もいいところである 苦手意識を振り払うには、どうすればいいのだろうか。聞き取る力もないしね。(耳が悪いのでは?と耳のせいにしたいけど。そうじゃないのよね)努力が足りない、天性語学に向いていない、才能皆無・・・なのだろうなあ。とみに記憶力が後退し、物忘れが加速化し~~という現状の中で・・・気持ちだけは『アチラの方と食事する時など、ちょっと話せたらいいなあ』という願望のみが強く存在する。困ったものだ。

さて、今日は英会話サークル(三月で終了)。皆さんにお会いするのは楽しい。でも~~気が重いととろサンである。外は穏やかな、柔らかい産毛のような陽ざしというのに。嗚呼!

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数日まとめて・・気まぐれ日記

2007-02-05 16:57:58 | 日々の中で

1月31日古謝美佐子・沖縄のこころうたチャリテイコンサートへ

 『やすらぎ荘改修支援』のためのコンサート。『やすらぎ荘』は、心身障害の子供や大人が、がなんとか自力で自分のことが出来るようにと訓練などを受ける施設(福岡県朝倉郡)だが、築35年老朽化が激しくなり、西日本新聞が創刊130周年事業として改修の一環を担う。

 サンシンを片手に、音量豊かに謳い上げる『童神(わらびがみ)』『黄金ん子(くがにんぐわ。孫が出来た時に作られた自作の曲)や『花』など、沖縄民謡の数々。彼女の声は、”人を癒したり、健康を促進するような高周波とゆらぎ成分を持つ何万人に一人の声”と、研究者が分析したことがある。

『なんでかねえ』『だからよう~』気取らない沖縄のイントネーションでのお喋りは、朝ドラなどで有名になったあの”おばあ”の語り口そのもの。沖縄の平和通り市場に座らせたら、歌手とは解らないかも知れない。庶民的でおおらかな歌い手であるが、以前からずっと、”何かの力になりたい”とチャリテイも続けている。夫のサウンド・プロジューサーの佐原さんとのお喋りも、ユーモアたっぷりで、曲の合間に楽しませてくれた。

 熱っぽく沖縄の現状を語る。『今基地には立派な住宅がどんどん建っているよ。アメリカさんの将校クラスが入るんだけど、家賃は20万から25万。でも彼らは1,2万しか払わなくていいのサ。あとは?日本が払うのサ。私らの税金からだよ。なんかおかしいさね。仕事なくて自殺する50代の男性が多くて、男性の寿命はどんどん低くなっているのにね』彼女自身吉嘉手納基地近くで生まれ育ち、5歳から民謡を謳い、小学生低学年からずっと舞台に立っている。沖縄と基地の問題・・・非常に難しいものがあるが、沖縄の大半は基地で占められており、また、海を埋め立てて延長などのために、あの綺麗な海が汚れていき、珊瑚が住めなくなっていることも事実である。

その昔琉球王朝時代に、島津藩に占拠され、近代になっては戦争に巻き込まれ、多くの悲劇を生み出し、それでも沖縄の人は南国特有の明るさ、おおらかさを失わずに生きてきた。素朴な親しみのある民族性と、沖縄芝居・民謡・などの芸能、紅型・壷屋焼きなど民芸、独特の文化がある。豊かな声量、伸びやかに謳い上げるその声は・・・出来ればホールなどでなく、都府楼史跡のような広々して、空へと歌声が漂っていくようなところで聴きたかった・・・と思った。(31日は十三夜。博多の街に月が昇り始めたころ)

2月3日 節分・・・北北西に進路をとれ? 

 節分・・・立春の前夜に行われ、たたり(鬼)を払うものとして"豆まき”が行われる。『鬼やらい』とも。

 そのあとの こどもの声や 鬼やらひ   小林 一茶

四季折々移り変わりのある日本ならではの節分。立春・立夏。立秋・立冬の前夜が節分だが、やはり厳冬から立春へと、季節の移るのが一番嬉しく、2月の節分が行事として巷間に残っているようだ。しかし・・・恵方巻き、つまり巻き寿司(太巻きとも)をここ太宰府や福岡・博多でも食べるようになったのは、ごく近年のこと。いつの頃からだろう?子供の時を振り返っても、子育ての頃を振り返っても、『豆まき』は年中行事の一つとして楽しく、夫さんが(その頃はパパであった)キャッ、キャッとやっていたが、巻き寿司は食べなかったなあ。

広島に転勤して・・・知人とデパートに行き、食品売り場に山積みされた太巻き寿司と鰯に驚いたものである。広島では当然のように、節分はこの寿司と鰯がつきもの。『縁起物だから是非!」といわれて買ったものの、お寿司と鰯の取り合わせはなんとも・・・。そういえば、江戸時代辺りから関東関西では、鰯を柊の枝に差して入り口に飾る(どちらもその匂いを鬼が嫌がるから)風習があると知ってはいたが。九州といっても育った福岡の街では、行われていなかったと思う。

調べてみたら~1989年……広島のセブンイレブンが恵方巻きの販売開始。翌年より販売エリアが広がり、95年には関西以西の地区に広がったという。 それまでも、恵方巻き(太巻き、巻き寿司)食べる習慣はあったのだが、西日本には存在しなかったようだ。

 『ヴァレンタインデイのチョコと同じで、商業主義に踊らされているな』と思いながらも、楽しいことは、おどってもいいかも~~と広島在住時代以来、節分には巻き寿司を求め、「今年はどっちの方角向いて食べるのかな」と。ちなみに・・・今年は『北北西』でした。北北西に進路をとれって映画があったっけ。ジェームス・スチュアートとグレース・ケリーだったかなあ??

2月5日 九州国立博物館も春のイベント

  従弟が日野市より帰省。博物館に行きたいとのことで案内役を。若沖展』は江戸の色合いやデザインが若い人にも人気らしく、休日でもあったので、かなりの賑わいだった。イベントで『ジャズ・ライブ(女性三人による)』なかなか見事な演奏で楽しかった。国博では、色々なイベントがあり、このライブも無料。他に『お煎茶席』とろりとした美味しいお煎茶。なかなか家では、ここまで深い味は出ないなあ・・。

古今のお雛様や、柳川の”さげもん”なども展示されロビーは一足早い春!

Photo_133Photo_135 Img_0190 遊びの広場『あじっぱ』では子供達が楽しそうに、陳列したアジア各地の民芸品・楽器・玩具などで遊んでいた。

 昨年11月開館1年を迎えて、入館者150万人というのは、博物館としては まことに盛況。これも、『触ってもいい』コーナーとか、アジアとの交流文化中心の常設館はじめ、折に触れての『特別展』などに加えて、趣向を凝らしたイベントもあり、また天満宮と直結してところにあるというのも利点だろう。

  ちらほら紅梅が咲き出した。立春にふさわしいぽかぽかと気持ちのよい一日だった。

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全国で唯一継承『大江の幸若舞』

2007-02-02 17:18:55 | 日々の中で

           

子供達も、継承する。

 1月20日、サークルの仲間達と、山門郡瀬高町の大江神社に『幸若舞』を観に行った。 この舞曲は、はるか昔室町時代の初期に、源義家の血を引く幼名"幸若丸”という人が、長じて和漢の学問を学ぶとともに、双紙に節や拍子をつけて舞うことに非常に秀で、幸若舞を興したという。その舞を継承する弟子の中に、瀬高の人がいて持ち帰り、220年前から『大江の舞(めえ)』と称されて、この瀬高で延々と受け継がれてきたものである。

福井の越前に始まったとされる、この舞曲が、遠く離れた九州の瀬高町にだけ残っているというのが、面白い。 今では全国で、唯一この瀬高町にだけ、この舞曲の原形が現存する。三番叟その他古典芸能といわれるものの元となった舞曲であり、<国指定重要無形民族文化財>の指定を受けている。長い歴史の変遷を経て、大江に伝わっているのは『大頭流(だいがしら)幸若』とよばれるもので、平家物語・源平盛衰記・義経記・曽我物語・・・などから取材されている。

 織田信長が”本能寺の変”で死期を悟り、最後に舞う『人間五十年~~』というのは、有名だが、これは『幸若舞』の一つ『敦盛』の中にある。当時幸若舞は武人に愛された舞曲であったという。ちなみに、『人間』は”じんかん”とも読まれることもあり、これは仏語から来たものだという。

毎年必ず1月20日に、五穀豊穣を祈って、大江神社の境内にある舞楽堂(屋 根は茅葺、風情がいい。)で行われるが、いつも雪がちらつき、凍てつくような厳冬の最中であるが、今年は思いがけず暖か。世話役の一人としては・・・天候が一番気になっていたので、ほっとする。土曜日だったせいか、境内は大勢の見物客で埋まっていた。(大江神社の大きな注連縄は、初めて見る形であった)

今年演じられたのは『浜出』『日本記』『安宅』『和泉城(2・3)』であった。いずれも古来からの日本の歴史を物語るもの。安宅は、義経・弁慶などと富樫との問答で有名なあの安宅関の物語。

周防袴姿に立烏帽子をかむり、腰に刀・右手には扇(中啓)を持って舞う。太夫と呼ばれる囃し方といっても、一人だけで、鳴り物は鼓。掛け声や鼓を打つ間合いが、非常に微妙である。「ビヨ~~ン」あるいは『ニョ~』と聞こえるような掛け声もあったりして。舞そのものもシンプルな感じで、この舞曲は・・・言葉を聞き取るのが面白い。言葉(物語)が主でそれに舞で色を添えた・・といったような感じを受ける。サークルの講師のT教授も、そのようなことを話しておられたなあと実感する。

 今日の舞曲のうち、最初の二つは小学生(5,6年生三人ずつ)によって舞われた。その懸命な舞姿には、可愛らしさとともに胸を打たれるような真摯さが感じられた。

舞台の隅には、28代・29代・30代三人の幸若舞の家元の方が、羽織袴で厳粛に座って、じいっと舞い姿を見つめている。相撲の勝負の検分のような厳かさである。

 観客も静かに舞台を見守る。神社の境内での厳粛な奉納の舞。この舞曲がはるか700年も前から謳われ舞われてきた、それも織田信長など歴史を動かしたり、歴史の中に生きている”もののふ”によって舞われたと想うと、身体に緊張感が走るような気がする。

歴史を遡った空間に、ひととき自分が迷い込んでしまって、この舞台が、この舞い手が、今の時代のものか、はるか昔の時代なのか、異次元の世界に迷い込んだような不可思議な気持ちに襲われた。白日夢・・・なのか。

幸若舞から古典芸能の、例えば歌舞伎・能・三番叟などの門付け芸能に至る、さまざまな芸能へと引き継がれていった、その歴史に圧倒される想いであった。この舞曲だけがそういう芸能の原点ではないのだが、そのルーツの一つであることは歴然として事実で、それが全国に一箇所だけ残っているというその誇りを、舞い手・はやし方・毎年奉納の準備などに携わる人たちの表情から、伺うことが出来る。こういうものを維持し、継承していくための経費の工面もご努力も大変なようだが、これからも、何とか護り続けていただきたいと心から願う。

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