「飛行機の時間は」「5時半」「じゃあ、もう少し、どこか希望は」と運転手のKさん。
”物作り”に関心のある娘はそういうところを・・・とリクエスト。
「ポピュラーだけど、」と琉球ガラスと紅型工房へ案内してくれた。
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充実した時間を過ごし、那覇空 港へ。
5泊7日の夏を先取りの旅は終わった。 代表的なブーゲンビリア
3人とも真っ黒。ととろサンは、それなりに日焼けはしたけど、ダイビングした夫やマサ君・”めい”には比べようもない。海大好き、ダイビングインストラクターのマサ君は、しきりに珊瑚の荒れたことを案じていた。海水浴客がうかつに珊瑚の上に足を乗せたりしないよう、ちゃんと注意書きなどを立てたほうがいいなあとか。夫や娘の関心も、今後の沖縄の海の行方を中心に話が広がる。
座間味でも『美ら島(ちゅらしま)を守ろう』と随分前から、ダイビングの人たちを中心に頑張っている。訪れる外部の者たちも、その心を大切に自然を傷つけない、壊さない気持ちをしっかり持って訪れなければと改めて思ったことだった。
戦争の悲劇、基地問題などを思うと安穏と観光気分にもなれないのだが、それでも観光は沖縄の大きな財源。訪れることことが沖縄を少しでも理解することが、本土に住む私たちの責務なのかもしれない。だが、余りに観光化された戦跡には、何度も足を運ぶ気持ちになれず、心の中で密かに沖縄の受難の歴史を想い、二度と『戦世(いくさゆ)のない』ことを願うばかりである。
いつか・・・ブログに書く日も来るかもしれないが、ととろサンにとって沖縄は美しい自然への憧れと同時に、以前住んだ時に医療の遅れ、担当が若い未熟な医者だったために受けた悲惨な体験を生涯引きずることになった場所でもある(その頃の沖縄はまだ医療も本土より10年くらい遅れていたという)苦いやりきれない思い出だ。随分と辛いことだった。これも”定め”かもしれないし、命を取り留めただけでも良しとしなければと、思えるようになるまで長い年月がかかった。当時小学三年生になったばかりの長女には、本当に悲しい辛い思いをさせた。今度沖縄に同行した次女は、まだ幼稚園に入ったばかりで、今は朧にしか覚えていないだろうが。
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その頃は、小学校の図書室に一冊の本もない時代で、私はそれ前の経験を生かして、『自宅開放文庫』を近所の子供たちのために開いていた。近くの海上保安庁の社宅にいらしたY・Tさんなども手伝ってくれており、私の入院中などは娘達を一家をあげて助けて下さった。
近所の方たちも、夫の会社の人たちも優しかった。その優しさは、本当に嬉しかったが、それでも、沖縄で受けた恐怖ともいえる体験は、正しい診断とそのあとのフォローがきちんとなされていたら~~と、思わずにはいられないような、あと数日遅れていたら、今こうしてここに私は存在しなかったかもしれない・・・そんな状況で、福岡に急遽送り返された私を診た総合病院の医者は、唖然としてカルテを要求。だか、その病院からはカルテは送ってこなかった。入院中、看護婦(その頃はまだ士でなく婦)さんが「ここは、野戦病院みたいなものだから、早く本土に帰った方がいいですよ」とこっそり耳打ちしてくれた、そんな状況に沖縄は置かれていたのだった。無論今の沖縄の話ではない、30数年前のことだ。
花は「ハマユウ」とその上のは「アサヒカズラ」(ネット仲間のホマンさんから教えていただきました)
『お母さんが生きていて良かった!』時折長女が口にする言葉である。
今は、こうして沖縄へ来ることを、楽しめるようになった。胸が苦しくなることもなくなた。時の流れというのは・・・何よりもの癒しなのであろう。
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・元気なオトシヨリ・・・といえば、沖縄に来るたびに立ち寄る『かめ・天ぷら』と幟のある小さな間口の店。沖縄ではポピュラーなお菓子『サーターアンダギー』(砂糖菓子)を専門にしている店で、老夫婦でやっている。天ぷらといっても、料理の天ぷらではない。揚げ菓子を作っている店のことである。揚げるのはおじいちゃんの亀市さん。帰る日に訪ねた。亀市さんは6時早朝の仕事を終えて姿が見えなかったがおばあちゃん、いや奥さんというべきかは元気で『看板娘』の写真を撮らせてくれた。4年ぶりだったが、元気な姿をみてほっとする。友人などは他からも貰ったりしたが、ここのが一番美味しい!という。まとめて発送を依頼。ひもちのするお菓子である。
「小麦粉が値上がりして、やめようかと思ったけど、お客さんが続けてくれって」と済まなさそうな顔で70円になったといいながら、5個もおまけに~~とくれる。ここでも沖縄だな・・・と温かいものを感じた。実家まで連れて行って、観光化していない自然を紹介してくれた運転手さん、沖縄の人の大らかな温かさを今回も感じた旅であった。今回は買い物はなし~~の筈だったが、壷屋焼きのお茶碗・琉球ガラスの大き目のカップ・紅型など記念やお土産に求めた(やっぱり・・・笑)
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那覇空港
娘夫婦は名古屋(マサ君の実家)へ。私達は福岡へと。私たちも殆ど同じ時刻の出発。
『今度はいつ会えるかな』
『いつでも来て、何ヶ月でも滞在して』と娘夫婦。
今の時代、メール・電話・携帯などと便利で、それこそ、今日の夕飯何にしたの?なんて他愛ない母娘の会話だって瞬時に彼の国へ飛んでいく。横浜の長女だって孫達だってそうだ。パソコンにカメラを取り付ければ、顔を見ながら話もできる。有り難いことだなあとしみじみ思う。
それでもハグして別れたあとは・・・胸が熱く寂しくなったととろサンでした。戻ってきた福岡には、まだ低く重たい梅雨空が広がっておりました。(沖縄の旅・おしまい)
<おまけ>
I先生のところでの最後のゆんたくの時に『うみうし』の話が出た。マサ君が「うみうし大好きなんですよ。潜ると探します」
「あら、それなら、沖縄のウミウシ研究の第一人者が近くに」と。その話が出た直後、一台の車が「あら、ちょっと待ってね」T子さんが車の方へ。
『この方よ』帰宅した男性を伴ってゆんたくの席に。
小野 篤司(おの・あつし)さん。上智大学卒業後伊豆海洋公園・〔株〕益田海洋プロダクションを経て、現在は座間味島でダイビングガイド業。日本貝類学会会員。図書・雑誌への写真提供多数・・・・という【うみうし】写真の第一人者。
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早速パソコンを開いて、最近の画像を見せてくださった。ととろさんは、「うみうし」は余り~~ではあるが(実際に見たことがないので)、その色彩や形のなんとさまざまなこと!驚くばかりだ。海の中の小さな生きもの”うみうし”が大好きというマサ君、夫サンも昆虫大好き人間だから、早速大いなる興味を示す。
思いがけない巡り合いがまた一つ。おかげで、小野さんの著作【沖縄のウミウシ】(掲載種類600種・写真枚数1200枚】を分けていただき、二人とも大喜びだった。
【人生は人と人との出会いの積み重ねである】という言葉が好きだ。素敵な巡り合いは、素敵な人生を作り出していく。それには、自分も何かを他の人に与えるものを、持たないといけないなあ。たとえ、それが小さなものであっても。特別な才能でなくても、思いやりやいたわりや優しさ、元気さ、明るさといった誰でも出来ることであってもいい。
私は他の人に、何かをもたらして生きてきたのだろうか。改めて振り返ってみたととろサンであった。今からだって、遅くはないのだから。