ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

五木寛之さんと一行日記

2008-09-27 08:24:30 | 日々の中で

 一昨夜の【千灯明】は汗ばむほどの蒸し暑さだったが、昨日から急に涼しくなった。ひんやりを通り越して肌寒く、慌てて長袖を羽織った。この天候が従来の”秋”なのだろう。

昨日朝何気なしにTVを見ていたら、作家の五木寛之さんが登場なさってた。NHKの【この人にときめき!】(だったか)という番組。途中で電話が入ったりで、じっくりと聞くことは出来なかったが、懐かしい(おかしな表現だが)気がした。昔かなり読んだものだ。福岡の炭鉱の町筑豊の生まれで引揚げ経験者。直木賞受賞は【蒼ざめた馬を見よ】だったか。もうお幾つだろう、75,6歳かしら。

 いかにも作家らしい風貌は、銀髪の美しかった関西の作家藤本義一さんなどと、見た目の素的さにも惹かれたものだ(ミーハーととろでもあります)情緒漂う金沢の町を散策する姿もしっくりと雅な古都の中で”サマ”になっていた。

夫サンがサラリーマンを卒業した時、繊細風文学青年いや、老年かな。それが夫のトレードマークでもあるから、今まで’7:3に分けていた髪を、「ちょっとパーマを当てて五木寛之や藤本義一みたいにロングにしたら、きっと素的よ」と私好みに変えようとしたが、見事失敗。

「男がパーマなんて!」という世代の人である。物凄く堅い髪なので、手入れが面倒とスッパリと大工の棟梁みたいなヘヤースタイルにした。初めはびっくり。でも今は見慣れてしまってしまった。「こんなに洗髪が楽とは」と本人悦に入っている。

 地元紙N新聞に9月より【親鸞】が連載となった。第一回を読んでふと、吉川英二の【新・平家物語】の冒頭を思い出した「面白そうだ」なんとなく切り抜いて・・・・。連載小説を切り抜くなんてことをするのは、随分と久しぶりのことである。

さっと目を通したものを、数日分溜めて精読している。楽しみだ。仏教小説、いえいえ、今非常に面白い人間像や時代の様子が、生き生きと描き出され始めているところである。TVでの五木さんの話に【鬱】の話が出た。もともとこの字は樹木が生い茂るという、活発な活動力のさまをいい、その力が内にこもって、外側へ発散することの出来ない状態になったのが今でいう”鬱”だとか。書くことから暫く遠ざかっていた時期があるのは、日本がぐんぐん”躁”状態になって加速して(それを繁栄と施政者も国民も受け止めていた)中で、自分の居場所がない、何か違う!という気持ちがしていたそうである。日本はこれから暫く”鬱”の状態が続くでしょうねと。そうかあ、国にも”躁鬱”があったんだなどと、新鮮な表現だなと思った。

面白い!と思ったのは、その欝の時代に書き綴られた【一行日記

とにかく【楽しいかったことを書く】書かれたことが2,3羅列されたが、これが作家五木寛之がこんなことを・・・みたいな楽しさがあった。いいな、こういうのって。

・新幹線に乗ったら富士山が見えた。楽しかった。

・カレーライスを食べたら、お釣りが余分にきた。

あとなんだっけ。立ったり座ったりでみたので、正確には覚えていない。ゆっくり見たかったなあ。確か【悲しいこと一行日記】の話もでていたような・・・ちゃんと見ればよかったな。

お元気で書き続けてくださいね!

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第3回太宰府 古都の光

2008-09-27 05:45:16 | 日々の中で

9月25日

21日に始まった、900年以上続いている太宰府天満宮の秋の神幸式大祭(じんこうしきたいさい)を締めくくる最後の行事が【千灯明】である。夜8時本殿から太鼓の音が鳴り響き、心字池のまわりの千本余りのろうそくに神火からとった灯りがともされる。夜の帳の中、池の面にゆらゆらと火影が揺れ、雅な雅楽の響きと共に、あたりは幽玄の世界へと姿をかえる。(千灯明は天満宮HPより拝借)この幻想的な雰囲気が好きで、出来る限り足を運んでいる。

  

 (子供達の作品)

”古都の光”の祭典は、この天満宮行事にあわせて、太宰府市ブランド創造協議会(太宰府市観光協会・商工会・天満宮・太宰府市)の主催で行われるようになった。夫サンが九州国立博物館の”環境ボランティア”をしているので、国博前での”点灯式”を見に行くことにした。我が家から歩いて7~10分。(夕暮れの中の国博)

       

薄闇の中6時半、主催者や来賓のお決まりの挨拶のあと、巫女さんが神火を掲げて登場。西高辻宮司の手でたいまつに火がうつされた。参列者の手の提灯など明りが灯り、暖かいひかりが浮き 上がる。提灯は200円也。あれ、昨年まで無料だったんでは?

子供たちの作品の紙灯籠が並んでいた。「あ、XXちゃんのだ”我が地区の子供たちの名前を幾つか見つ けた。携帯でパチリ、お母さんに送ったりする。子供連れの人たちや知人の顔も。「お元気になられてよかったですね」と嬉しい挨拶をいただく。

蒸し暑く今にも雨が落ちそうな気配だったので、心配したが、なんとか無事に今年も秋の千灯明や市内の6っ箇所(史跡の観世音寺・戒檀院・水城防塁跡など)での”ひかりの祭典”も行われたようだ。よかった!

 >平安朝の昔、堀河天皇の康和3年(1101年)大宰権帥大江匡房卿(おおえのまさふさきょう)により始められたもので、祭神菅原道真公在世の往時を偲び、尊き神徳を仰ぎ神慮を和め奉ると共に五穀豊穣を神明に感謝する大祭。

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ととろサン、青ざめる・・・の巻(その1)

2008-09-20 12:07:06 | C型肝炎治療記

 うっすら秋色に染まりかけた庭の片隅には、今年も水引草が小さな赤い宝石を連ねて、優しく風に揺れています。そんな”小さな秋”の中で、大きな出来事をまずはクリアー出来た嬉しさを、しみじみかみ締めている今朝のととろサンです。

 早朝の人気アニメ”チーズ・スイートホーム”(可愛い子猫のお話)のタイトル【チイ、頑張る!】【チィ、決心する!】風なイトルをつければ、まさに【ととろサン、青ざめる!

この出来事は、今夏我が家を駆け抜けた最大級の台風でした。

【癌告知】受けてしまいました!

「やっぱり腫瘍でしたよ」かかりつけの医者からCT検査の結果、そう告知されました。もっと詳しくと、MRI検査も受けました(検査そのものは、全く怖くもなんともないですよ)奇跡は起こらず、23ミリの腫瘍が私の肝臓に出現していたのです。全国に150万人以上いるというC型患者、ここ数年薬害保障などで騒がれているあのC型肝炎と私は長年付き合っています。

激しい副作用に耐えながら【インターフェロン】も3回(うち一回は途中下車)受けましたが、随分と居心地がいいのか、C型ウイルスは、ととろさんの身体に居座り続けています。だから、今まで仕方なしに、上手く共存(きちんと病院などに通って)しつつ、普通の生活を普通に過ごしておりました。

C型肝炎→肝硬変→肝臓がんというのは、C型肝炎を抱えている人なら、避けられない図式なので、いつかはと覚悟はしていたつもりでしたが(癌にならない前に寿命が尽きる場合も多い。90歳過ぎまで生きても癌にならない状態の人も)いざ告知を受けると「わぁ、ついに!」と胸の動悸が早くなり、し~~んと身体中が冷たくなるような感じでした。横にいた夫サンも、引きつった顔になっていました。医者は電波による治療法を勧めました。

沖縄の海でシュノーケリングを楽しんだりしたばかりなのに、自分の身体の中に癌が出来ているなんて、信じられない気持ちでした。でも目の前の映像には、確かに影があるのです。”肝癌になった時は抗癌剤や放射線などの治療は受けず、自然に任せて余命を生きる”きっぱりとそう思い定めていたつもりでした。癌そのものを叩くことには効果はあっても、化学療法は諸刃の刃、副作用も酷いから【私は何もしない】と心定めていたつもりでした。一応自分としてなすべきことはやってきたし、未練はないと。

だが、【人間は独りではない、家族や友人達の想いを無視してはいけないんだ】と思い知らされ、信頼できる夫の友人(医療界関係)に相談。【現代医学は捨てたものじゃないですよ。チャレンジした方がいい】と、その治療法に秀でている病院と医者を紹介してくれることになり、娘達とも話し、電波による治療法を受けることにしました。

 いざ入院と心を決めると、 どうしても温泉に行きたくて、夫サンと【雲仙温泉】で一泊。(こんなに元気なのに、沖縄でもシュノーケリングあんなに楽しめたのに、身体の中に癌があるなんて!複雑な思いでした)


その話題には触れず二人とも、雲仙・島原と楽しいことだけに目を向けようと努めたのですが、夫の胸中も私以上に切なかったと思います。気を遣ってくれているのが、よく解る小さな旅でした。

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ととろサン、いよいよ担当医に会う・・(その2)

2008-09-20 12:06:03 | C型肝炎治療記

    8月5日紹介受けた病院へ初診に。今まで古い大学病院や10年は医療が遅れているといわれていた頃の沖縄など、病院に関しては良いめぐり合いのなかったととろサンでしたが、今回下見にいって、2年前に新築,空間が広く、正面前には樹木が、院内にも緑や屋上庭園のある、明るくカラフルなこの病院は「あ、プチホテルみたいと気に入ってしまいました。大学病院みたいに大きすぎることもなくて。受付も優しく親切だったので、安心しておりました。ネットで調べると電波を使っての治療実績も多く、肝臓研究に取り組んでいる病院でした。なお、本体の久留米大学病院もも同じように肝臓では権威の大学、九大病院は肝移植に力を注いでいます。          久留米大医療センター

担当してくださるT先生はエコーを見ながら、病状・今後の治療についてじっくり1時間説明を。内科医というより外科医の感じで、スパッと本音で明快に話されるという印象。九州男児、バンカラタイプかな。多くのこの治療を手がけていらっしゃるベテランで優秀な方です。気に入りました。

エコー検査のあと「う~~んがちょっと良くないなあ」「はっ?」(内心私確かに美人じゃないけど、面と向かってブスっていわれても)”顔”は顔でも”癌の顔”のことだったのです。常に癌と向き合っている医者にとっては、癌の様相は”顔なんですね。更に娘や孫の血液型なども聞かれました。何故って!ここで「肝移植という方法、考えていらっしゃいますか」「お嬢さんとも話しておきたいのですが、こちらにいらっしゃること出来ますか」という言葉が!「えっ」ちょっと青ざめました。

「そ、そんなことまで考えてなかった!【癌告知】【余命】【肝移植】なんて言葉がぐるぐる頭の中真っ白。医者はあらゆる治療の可能性を、患者とその家族にすべきだという【インフォームド・コンセント】だったのですが。

更に、先生の話は続きます。

「大切なのは、家族みんなの合意と納得。よくよく話し合った上で、自分自身の結論をだすことです。生存率など、平均値では医学は語れない。同じ治療をしても、百人百様の結果しか出ない、あとはその人自身の問題であり、医学の及ぶ範囲ではない。医学上想定した以上の良い結果が出れば、それを神の業だと受け取る人もいるだろう」

「あなたの場合、アメリカであれば、ドナー待ちが可能なケースだが、日本の法律ではそれが認められず、家族からの肝臓提供が必要になる。手術は1200万円かかる。医学で決めるべきことを、日本は予算がないからと、法律で決めてしまっているのは間違いと思う」といったシビアなこともはっきりと仰いました。真剣に肝臓癌と向き合っていればこその、考え方だと思います。

続いて、

ラジオ波熱焼灼法 による治療が可能だと思われるが、検査をして万一の場合は3センチ切るかもしれませんが、それ以上は切りません。

この治療法は癌細胞をラジオ波(80度くらいの熱)で焼いて壊死させるというものなので、2年以上再発しなければ5年以上は充分約束できるが、1~2年で再発するようだと、その保障は出来ないが・・・とはっきり仰いました。いずれ再発は避けられないだろうと。だから【生体肝移植】のことも申し上げましたと。こういう風に、きっちりと言って下さる方が気持ちがいいなと思いました。そのときはその時でまた考えれば、いいことですから。その場で夫と相談(というか、娘達とも相談し、もう気持ちは決めてきていたのですが)【ラジオ波・・・】でお願いしたいと申し出ました。

まな板の上の鯉の心境です。総てお任せしようと思ったことでした。

 
最後に【大丈夫ですよ。安心してください】とにこっと笑顔に。メガネの奥の目は、とても温かい感じでした横浜在住の長女が先生にお電話して、色々伺い、それをまた私の方へ。娘はお舅さんが癌で亡くなるまで関わってきたので、かなり詳しく冷静な判断力を持っていたようで、「お母さん、安心して入院していいよ。大丈夫」とアメリカの娘からも何度も電話がありました。娘達【肝臓あげるよ。半分残せばドナーに支障はないのよって。そういわれても、その気持ちはありません。もう、ここまで生きてこれただけでも有り難いのに、将来ある娘達から貰ってまで、全治する気持ちにはなれません。

入院日はお盆明けの8月19日と予約。万一・・・なんて悲痛な思いもあったりして、家の中のことあれこれ夫サンに一覧表にして手渡したり、箪笥の中、書類の整理、友人関係住所録新規作成などなど~それにお盆、敬老会寸劇シナリオ作成、法事を済ませ、親戚の祝い事への出席など、出来る限りきちんとして入院しようと、まあ、忙しかったこと!おまけに【雲仙・島原】へも行きましたし。

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ととろさん、いよいよ検査・治療する~~の巻(その3)

2008-09-20 12:04:57 | C型肝炎治療記

8月19日入院。  

夫に【今回は個室を】と頼んだ。贅沢だとは思うが、短期間だし。一人でゆっくりしたい!4階の綺麗な部屋、こじんまりとしたミニ・ホテルみたいな。シャワー・トイレなどが備わっているから、とても楽だ。入院期間は2週間。看護士さんたちも、入ってくると「昼間何時までの担当のXXです」と自己紹介。優しい対応である。色々な形でのローテーションが組まれているようだ。(部屋からの眺め。丸屋根が外来)

入院治療計画書が手渡される。

 最初の二日間は、まあ、よく寝たこと。昔と違って就寝時間も10時。と遅くなっているのだが9時ごろからすやすや。入院前が余りに忙しくあれもこれもと、欲張って片付けたので、疲れ果ててたのだろう。読みたい本もたっぷり持ち込んだ。テレビもDVDも見ることが出来る。とすっかりリラックスした気分だ。太ももからカテーテル入れての血液造影は初めてのことなので、怖いなと思うが

エコー・CT・MRIなどの検査がある。造影剤を入れてより詳しく丁寧な検査だ。その結果、カテーテル入れての検査は必要なしとのこと。3センチ切らないで、なんとかやれそうですよとTドクター。検査の合間は閑です。売店覗いたり、屋上庭園に出たり、後はラジオ・本・手紙・携帯電話も使OK。友人や妹などとのお喋りなどなど。弟妹にも親戚にも友人達にも、一切お見舞い不要、お断りと。だから夫サン以外の訪問者なし。静かに隠れ住んでいる感じで、心地よい。〔ある日の献立]

8月25日 朝食抜きでアサイチ手術室へ。病室からエレベーターで手術室へ。いやなんだなあ。この感じ。思い出したくないことも思い出しておびえた気持ちになる。横浜の娘が昨日飛んできた。海外出張から戻った婿と入れ替わりに、出てきたようだ。病室で一泊してくれる。

麻酔科も手術室も若い女性の医者が多い。嬉しいことだ。これから何をするか、病室に来て説明や確認がきめ細かくなされる。「これから麻酔の注射しますので・・・」いつのまにか・・・・。「終わりましたよ」と声かけられて、自分が酸素マスクをしていることに気がつく。全身麻酔1時間15分くらいだったそうだ。

 麻酔が覚めたような覚めないような、朦朧とした状態で、かなりナーバスになっていたらしい。夫サンが「頑張って」って言ったら、「これ以上どう頑張るの・・・・」と昔の沖縄での辛い体験を思い出してたらしく、涙を流していたそうだ。「ブログに載せるから、酸素マスクした写真とっておいて」なんてアホなことまで言ったそうだ。本人はどちらも全く覚えていないのです。オハズカシイ。その夜は夫サンが、泊まってくれました。ベッドの壁には次女が買ってくれた【ドリームキャッチャー】(アメリカ先住民族手作りのお守り)が。

  

(休日の病院)        (悪夢を食べてくれるお守り、ドリームキャッチャー)

もしかしたら、癌腫瘍を焼いた周りに抗癌剤を少しふりかけるかもといったことも聞いていたが、その必要もなかったらしい。念の為4センチ以上壊死させたとか。この治療は、周りの血管や内臓の壁を傷つけたりすることもないとはいえないから、腕の良い医者に処置してもらうのが肝要だから、私は運が良かったなと、しみじみ思いました。

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