気まぐれ日記 6月24日(日)
昨夜中雨の音はやむことなく続いていた。今日もまた。雨の日は嫌いではない、どちらかといえば好きなのかも。子供の頃の雨の日曜日は特に。庭先をみながら、町中の家の小さな縁側に足を投げ出して、本を読んだものだ。雨音が小さくなり、軒先からポトン、ポトンと雨だれが落ちる頃には、西の空には薄い明るさが戻り、時には虹がかかったり、蜘蛛の巣にきらきら光る雨露が美しくて、思わず見とれたりしたものだった。
俳句の季語なら梅雨寒、梅雨冷えなんとなしに肌寒い。幸いなんの予定もなく、買い物に出かける必要もない。完全家篭りの一日となった。洗濯も掃除も休み。読み掛けていた本を読み、便りをくれた友人達に返信を書いたり(携帯電話・メールがレトロを好む友人達にもだいぶ普及、昨今手紙類が少なくなった)、六月博多座歌舞伎の感想などをブログにUPしたり、静かな雨音をバックミュージックに、怠惰な一日が過ぎていった。それもまた良からずや。
読書会で、枕草子音読しながら1段から最後まで読み通し中。サークル仲間で国語教諭を定年退職したGさんを講師にして。正直に言うと、私にとって清少納言は苦手なタイプだ。「嫌味な人だなあ、才能ひけらかして周りを観察していて!」とも思うが、感性の鋭さ、頭脳明晰さはやはり凄い。その筆力で、十代にしてみやびで優しい人柄と優れた才能を持つ中宮定子のもとで、引き立てられ、王朝サロンの様子を生き生きと描き出している。「ほう、平安の宮廷の日常はこんな風だったのか」興味をそそられながら、読み進んでいる。
雪の降る風情を好ましいと見ていた清少納言だが、さて雨は・・・どうだろう。「池あるところの五月長雨こそいとあはれなれ。菖蒲・菰など生ひこりて、水もみどりなるに、庭もひとつ色に見えわたりて、曇りたる空をつくづくとながめくらしたるは、いみじゅうこそあはれなれ・・・・とある。(いみじゅうあはれ・・・とは大変趣があっていい・・こと)
この頃の菖蒲というのは、今のきれいな花菖蒲ではなく、菰などと同じような植物のこと。雨のそぼ降る風情を”良し”としたのは,この箇所だけのような気がする。雨は清少納言にとってうっとうしいものだったのだろう。 あの十二単の衣装が湿っぽくなったりしたら・・・なんて現実的なことを思ってしまった。
梅雨といえば、紫陽花。これだけ降り続くと雨に濡れる風情を通り越して、可哀想になる。今盛りだろう太宰府天満宮の花菖蒲もあの大きな花びらが、うなだれてしまっていることだろう。万葉の昔から桜花は和歌に詠まれ、こよなく愛されてきたが、さて、紫陽花はというと万葉集にも二首しか詠まれていないらしいしその後も余りない。一つ一つの花びらは可愛く、色も変化するが、大きな花のまま朽ちて茶色くなっていくさまが、儚い美しさを求めた都びとの心を打たなかったのだろうか。
ダラダラした一日を過ごしたが、長崎あたりでは豪雨となって島原城の石垣にも被害が出たとか。これ以上大雨にならないようにと願うのみ。