ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

猛暑もなんのその・・・町内バスハイク

2018-07-23 05:27:54 | 日々の中で

7月17日

今日も炎暑だったが、前から計画されていた町内バスハイクで”うきは市街から、車を走らせ15分、そこには豊かな自然に囲まれた「山里ひめはる」があります”今も変わらない日本の原風景、ゆっくりと流れる時間、あたたかな人々のおもてなし、山里の文化に触れ、緑にひたる・・・”と案内パンフレットにある【山里ひめはる】

 「町内福祉行事で熱中症で救急車とか、洒落にもならんケン、みんなシッカリ水分摂って」とお世話係の福祉ひまわりサン、目も気も配ってくれる。

昨年の水害からやっと立ち直りつつある朝倉やうきはに、少しでも役に立てばとのボランティアの気持ちもあって、計画されたようだ。夏休みの今も来訪者はぐんと減っている。勿論参加者は高齢者の枠に入る人たちが多い。体力ではボランティア活動など出来ないから~~せめて被害がまだ修復中の様子を実際に目にし、食事や買い物で少しでも経済に援助を・・・。

 外は焼け付く暑さだが、バスの中は涼しく快適。「お久しぶり!」と明るい笑い声とお喋りが弾む。まずは【ブルーベリー狩り】の果樹園「やまんどん」へ。うきは市あたりは、果物の名産地。富有柿・巨峰・梨・無花果・ブルーベリーなどなど。

 ブルーベリー、食べ放題、一時間採り放題…と言っても…やっぱり暑い!!20分くらいで休憩所で冷たい湧き水に、ほっと汗をぬぐう。もう、顔はヒリヒリ。熱いのさえ、笑いの種になるから、やっぱりこうして近くの皆さんと出かけるのはいいことだ。和気あいあいとお喋りに興じながら。

バスの窓外に、早苗の緑の美しい棚田やダムをながめながら、くねくね山道を食事処へ。バスの外は崖。運転手さんは慣れたものだが、「落ちそう!怖かあ!」と嬌声があがる。

民家をそのまま利用してのお食事処。1日一組限定で泊まることも出来、夏休みは親子で緑と水の自然を楽しみに来る人も多いのだが、水害以来、足が遠のいているという。もう、修復が進んだからぜひ!と。

昼席は地産の食材で。素朴だが味付けが良く、鶏肉もちゃんとちゃんと地鶏。小さいけどヤマメの塩焼きも美味。お値段も安い。

バスの窓から眺めるみどりの美しい棚田。こういう風景が続く。

美しい水面のダムの端にはまだ水害の時の流木があった。バスの中からだったが、小学校そばなどもまだ修復途中のようだったし、美しい早苗の水田の近くには、泥が乾いてお米を植えることのできない白茶けた田んぼが広範囲に広がっていた。1年経っても,まだまだこういう状態だということを目にして、住宅を奪われ仮住まいで生活している人々のことを、改めて思った。

食事処の人も「来て下さることが一番嬉しい」と。今日は私達だけ貸し切りだった。暑い中の静かな緑の風景。標高400余M.今年は風も生暖かい。「涼しゅうなかねえ」汗拭きながら

この辺りの棚田の風景は有名で、秋には真っ赤な彼岸花が畔を彩る。私達も美しい時期に訪れたことがある。稲刈りの終わった棚田が彼岸花に彩られて、素敵な山里風景だった。それが壊れやっと修復、今はまた苗が植えられ、早苗が風に揺れ、水田に影を落としていた。また今年も豪雨・猛暑、自然が優しく静まってくれることを祈る想いで、心の中でなんとなく手を合わせた。

以前秋㋈に訪れた時の彼岸花咲く棚田。

バスハイクの3点セットは、観光&食事&買い物。買い物は耳納山のふもと耳納の里で、ささやかだがこの地の貧者の一灯になればと、地産の野菜・食品などをガッツリと買い込んで帰途についた。朝倉名物の3連水車が復活して、ゴトンゴトンと軽快に水車を回していた。落ちる水しぶき、復活のシンボルという、嬉しいことだ。

町内福祉に力を貸してくれるひまわりさん達に、毎度のことながら感謝!あるのみ。

昔は世話する側だったのにねえ・・・と一緒に自治会活動をしていた同年配の友人と、しみじみと話す。後を継いでくれる人たちが絶えませんように。

コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武田政子の博多演劇史【芝居小屋から】が上梓された!!嬉しい!

2018-07-12 18:16:32 | 日々の中で

武田政子とは叔母(私の母の妹)今はすでに亡き人だが、その政子叔母の残した3代続いた、博多の劇場(昔の博多風に言えば芝居どこ・・・芝居小屋…)との関わりを通して、明治・大正・昭和の博多の演劇を、自分の体験を通じて感じたことなどを、書き綴ったノートが、一冊の本となって,福岡地元の海鳥社より刊行された。叔母の手によって事実の裏付けをとった上での、「ものがたり博多演劇史としての」が生まれ、読み物として芸能史・地方演劇史として、初めて明快に語られた貴重な書であるとの評を頂いた。

 「人との出会いによって何かが展開することがある。武田政子さんとの出会いは、私にとってそういう一例であった」と編集に携わった狩野啓子(久留米大教授、当時は筑紫女子大)さんの序文にある通り、占領下の博多の文化・演劇について詳しい人として紹介を受けて、狩野さんが叔母に話を聞きにいらしたことに端を発する。

その内容については福岡女学院大学 岩井教授(現・名城大教授)の「解説」に目を通していただければ、明らかとなるだろう。

私の曾祖父(叔母には祖父)が芝居興行などには全く関係がなかったにも拘らず、大阪に仕事で行き来するうちに、芝居に魅せられて、ずぶの素人ながら、博多の演劇界に手を染めてしまったことから(家族は随分戸惑ったことだろう)私の曾祖父・祖父・政子叔母と年号を三代またいでの博多演劇との結びつきが始まったのである。叔母は劇場の幕を下ろした後、国語教諭だったのだが、合間に確実な資料の裏付けを取りながら、見聞きした劇場のことや上演したものの記憶などをまとめていたようだ。当時の芝居や博多の文化・娯楽の在りようや芝居小屋(劇場)の匂いが立ち上ってくる。

母の実家は菩提寺の記録によれば、8代同じ所(旧町名は福岡市中小路30番地。今は上呉服町)に住んでいたが、曾祖父の代から、家業が変わることとなったわけだ。歌舞伎のみならず、当時の色々な演劇や、地元博多の例えば【仁和加(にわか)】や、大阪喜劇や、世界の名バレリーナの出演、来日したアインシュタインの講演会(劇場の二階が落ちるのではと祖父が心配した程鈴なりの人達)など、当時のアミューズメントみたいなものだったのかもしれない。曾祖父が町内の人を引き連れて富士登山に行ったときなどの話など、芝居とは関係のないエピソードも面白い。それを紹介した新聞記事は文語体で書かれており、その旅立ちなどの様子はいかにも博多っ子らしく、読みながら笑ってしまった。

大博劇場は昔大丸デパートがあったすぐ近くだったが、今は劇場はくなり、電柱に「ここは博多の文化娯楽のの殿堂大博劇場が・・・・」と記され、博多駅に向かう大通りに「大博通り」名前が残るだけとなった。

叔母が劇場経営に携わる迄、私の母が手伝っていたので(劇評も書いたし、売店にも立ったとか)幼い頃の私は、母にくっついて実家に行き(劇場近くに実家はあった)近くの聖福寺・承天寺は近所の子たちとの恰好の遊び場であり、劇場は我が家のような感じで、前垂れを掛けたお茶子さん達に可愛がられたこと。奈落(回り舞台の仕掛けのある地下室)に降りて、法被を着た男衆から「お嬢ちゃん、危なかケン、ここに来たらいかん」と叱られたこと、解らないながらも、沢山の舞台を観たこと。劇場前は【山笠】のヤマの男たちが、疾風の如く走り抜ける道で【勢い水】がザバッとかかると、肌から蒸気となって立ち上る様を劇場二階の小窓から、子供ながらにワクワクしながら眺めた記憶などなど・・・思い出せはキリがないほど。

あ、もうすぐ、15日はいよいよ「山笠の追い山」最終日!

今TVで「追いならし」が「オイサ・オイサ」の掛け声とともに走り抜ける様子が放映された。

福岡大空襲はまぬがれたものの、博多の路地は狭いから、焼夷弾の火が類焼を起こしたらいけないと、家は叩き壊された。「接収何」とかという規則で。それで疎開させた資料もなくなったりして、編纂の手伝いをした従弟は資料集めに苦労したようだ。

出来れば…叔母の生存中に刊行の運びになっていたら~~と思うが、叔母のノートから、二人の教授の論文や博多興行史という形になって、一足先に世に出て、その後最後に叔母の原稿がこの度一冊の本となった。自分の記述したことがそういう役に立ったのを、あの毅然としていたけど、笑顔が優しかった叔母は、自分の本が長年かかったけれど約束通り発刊されたことや若い(叔母に比べると学研の徒と言える)お二人の為に「結果良し」と甘受していることだろう。

 生き生きした読みやすい文章、昔の博多の事、博多弁・面白い家族の話、劇場の経営の仕方などなど何処を切り取っても興味深かったなど、読んだ方からの読後感を頂いたりしている。

 私も少しだけ手伝ったので・・・よろしかったら・・・興味のある方は一読して欲しいと思う次第である。本は私の手元にあります。(宣伝してしまった。ごめんなさい)

友は言う「貴女にも曾祖父さんの熱い血が受け継がれているのよ。だから、歌舞伎を観る会なんてのを世話したりしているのね」と・・・AHAHA,お恥ずかしい次第だ。

コメント (21)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西日本豪雨・・・言葉もなく・・・

2018-07-11 14:37:47 | 日々の中で

太宰府はテレビ全国放送で「大雨避難地域」と報道がありあちこちから「大丈夫?」のお電話やメールを頂来ました。

バケツの底ひっくり返したような、物凄い雨音と雨量でしたが、大きな被害もなく、豪雨が過ぎた後には明るい青空と眩しい陽光、昨日の気温は36,2度全国4番目の高温となり、暑い、熱い夏へと突入しました。

今度の西日本豪雨、まさか!あれほど大きく悲惨な大災害にになろうとは、考えてもみないことでした。被害に遭われた方々の気持ちを思うと言葉もありません。死者や行方不明の方の数の多さ・・・。

そんな状況とこの猛暑の中で、後片付けやインフラ復興などに頑張っていらっしゃる方々の姿、お見舞いの言葉など空々しいと思いながらも、復旧への道の、少しでも早からんことを心よりお祈り申し上げます。

今アメリカ西海岸に滞在中の、今度の大災害を日にち遅れで知った知人からのメールが来ました。ラスベガスでショーを見た後か、強風・大雨・雷・・・砂漠のベガスでは雨が降るなんてことは、考えられないドライな地方なのに・・・。

やはり地球の自然や気候は、変化の様相を見せているのでしょうか。

 逆光ですが、台所の出窓で、水と光と空気で、芽の出掛けた里芋を捨てるよりと、水と空気と光で、こんなに可愛らしい茎と葉が。きれいな奇麗な柔らかいみどりです。蘇りへの小さな希望の証のような・・・。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする