「夏の夕立」
乾いていた大地に雨が降った/草原の草が/草原中に/雨音を立てた/瞬間/雨音が消えた/草が音まで残らず飲み込んだのだ/蜩は/草原を取り巻いている赤松林を駆け回って鳴いた/赤い赤い赤松林に日が隠れて行くときには/夏の夕立は虹になって手を振っていた
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今日は日曜日、久しぶりに詩を書いてみました。
「夏の夕立」
乾いていた大地に雨が降った/草原の草が/草原中に/雨音を立てた/瞬間/雨音が消えた/草が音まで残らず飲み込んだのだ/蜩は/草原を取り巻いている赤松林を駆け回って鳴いた/赤い赤い赤松林に日が隠れて行くときには/夏の夕立は虹になって手を振っていた
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今日は日曜日、久しぶりに詩を書いてみました。
午前6時。気温25℃。湿度87%。ムシムシする。扇風機を回す。
夜中は雨音がしていたが、夜が明けたら雨は止んで、青空が見えている。
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洗面所で顔を洗おうとしたら、水が出ない。我が家は、洗面所の水は井戸水を使っている。モーターを回して深い井戸から水を汲み上げている。
モーターは家の裏手にある。近くには電気コードがある。それが何者かによって抜かれていた。夜中、アライグマか、猪が、そこを通りかかっての仕業だろう。
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我等が集落には薩摩芋畑が広がっている。この数日、畑が荒らされる被害が相次いでいる。猪避けの柵は施してあるのに、敵はそれを乗り越えているようだ。
我が家も家の裏手に薩摩芋を植えて育てている。いよいよ我が家の畑にも狙いをつけたようだ。薩摩芋の収穫は9月過ぎなのに、もうこれだ。
詩人を気取った老人のわたしがいるが、どうもそれが気取りだけになっていて、実効性がなくなっている。詩が書けない。このところずっと書けない。一行も浮かんでこない。
この老人から詩を差し引いたら、それこそもう蛻(もぬけ)の空だろうがに、抗う術がない。肉体が衰えているのは、これは自然なことだ。でも詩を書く精神がそれに随順することはあるまい。そういって叱咤するのだが、反応しない。
夕方の5時を知らせる市役所のチャイムが鳴っている。今日はやけに日暮れが早い。夕空を残して祇園山がもう薄墨になっている。老人は気取り屋。気取ろうとする努力だけが、うっすら明かりを灯している。
わたしはここだよ、ここにいるよ、とわたしは叫んでいる、何度も何度も声に出して懸命に。
夢の中のような気もするし、夢の外であるような気もする。
叫んでいるのもわたしだが、それを聞こうとしている相手も、どうやらわたしのようだ。
生きているのか、生きてはいないのかが、どうも判然としていない。
そこは浜辺のようだ。白い砂浜が続いている。わたしが辿ってきた足跡が見えているが、それを沖から大波が寄せて消しに掛かっている。
そうはさせまいとして、夕日が砂浜に微かになった光を列べている。光を列べるとわたしの影が、岩礁の方まで長くなって行く。
夕暮れはさみしい。日が落ちて薄暗くなって、いままで大きく明るく見えていた山々が、しだいしだいに見えなくなって行く。
夕暮れはさみしい。目を瞑ると、わたしに手紙をくれたあの人の瞳が、夕暮れの池の細波のようになって、見え隠れして行く。
夕暮れはさみしい。すべてが行ってしまって此処へはもう二度と戻って来ないように思えて来る。たった一つも戻って来ないように思えて来る。
夕暮れはさみしい。一人取り残されているというのに、そのわたしの影さえも、もう地上に映らなくなって、わたしが消えてしまう。
わたしの現在が成立するために必要なすべての条件を満たして整えて下さったので、わたしが此処にいることがかないました。それをそうしてくださったすべてのエネルギー、すべてのパワーに感謝します。
それをそうだと認識してそのエネルギーやパワーを受け取っているわたしがいます。たくさんの、たくさんの、たくさんの条件がみな一つ残らずパーフェクトに満たされていなかったなら、ここにわたしはいませんでした。
わたしがここにいることをわたし自らがまずもっとも喜ぶべきですが、そのずっとずっと前に、そのわたしを想像して喜んで下さっている大いなる存在の、大きな大きな輝く瞳を想像しています。
観世音菩薩は、怖畏(ふい)急難の中に於いて、能(よ)く畏れ無き(=無畏)を施す。この故に、この娑婆世界の皆はこの菩薩を号して「施無畏者(せむいしゃ=畏れ無きを施す者)」と為せり。
妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第28より。
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わたしたちが暮らしているところは娑婆世界である。
(娑婆=サンスクリット語サハーの音訳語。忍土、苦しみを耐え忍ぶ世界の謂い)
此処は苦しみの世界である。恐怖に満ちている世界である。急難がとめどなく押し寄せて来る世界である。わたしたちは生まれてから死ぬまでさまざまな苦悩を強いられているしかないが、しかし暗闇ではない。
暗闇を暗闇としないために、仏と仏の智慧と教えとその実践が届いている。
恐怖を恐怖たらしめないハタラキが施無畏(せむい)のハタラキである。
恐がるなよ、恐がらないでもいいんだよ。安心をしていていいんだよ。此処を抜けて行けるんだよ。此処を超越して行けるんだよ。闇が光に変わって行くんだよ。こう叫んでいる人がいる。この人が施無畏者である。観世音菩薩である。
あなたが観世音菩薩なんだよ。施無畏の実践者なんだよ。此の闇を破して行く人なんだよ。と囁きかけて来る人がいるのである。勇気を鼓舞している人がいるのである。
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経典を読むと元気をもらう。此処は娑婆世界でありながら、即、仏の世界であった。そう思うと元気が湧き上がる。
どっかに行こうと思っていたのに、何処にも行かなかった。冷房が効いた部屋の中が、老人の僕の、最高の居場所だと判断したからだ。テレビのYouTubeで、バイオリン名曲集を聞いて過ごした。いまはパガニーニのカプリース第24番が流れている。老人の両耳が、美しい曲に酔い痺れている。
外の気温は35℃に上がっている。日射しが強い。何処にも行かないのが正解だ。だらしがないが、どんな行動も起こさないでいる。
何か行動を起こさないと、生きていることにならないぞ。耳元で脅しつける声がある。そういう脅迫にも耳を貸さない。外部のいかなる声をも聞かずにいる。これ以上の平穏な日常があろうか。
ベランダに朝方咲いていた青い色の朝顔が、もう萎んでしまった。最近は水撒きをして上げてないので、枯渇状態なのかもしれない。
僕は、肉体と精神の複合体になっている。どっちも僕だ。
その割合は?
5対5? それとも偏りがある?
さて、どっちの方により多く僕は僕を感じているだろうか?
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目も鼻も耳も口も皮膚も肉体である。見ているのも聞いているのも肉体の作用だ。痒いというのも痛いというのも肉体だ。病むのも老化するのも死ぬのも肉体だ。そうすると肉体の方が生きている本体のように思われるが、そうでもない。その一つ一つ反応して反応して苦悩しているのは寧ろ精神の方だ。
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精神は僕の肉体の苦悩を一手に引き受けている。損な立場だ。しかし、引き受けたその苦悩を歓喜に変換する能力を持つのも精神だ。得られた歓喜は、当然、肉体にも分け与えられることが多い。両者は不可分なのだろう、たぶん。
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老いて病んで壊れて死んで行くのは肉体の方だが、では、不可分の精神もそこで死滅してしまうのだろうか? いささか疑問が残る。
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僕は、僕の本質は不滅だと思っている。思うのは自由だから。
老いて病んで壊れて死んで行くのは肉体であって、本質はいささかもそれに患うことはない、と思っている。超然としている、と思っている。禅の教えではそれを「無」と表現している。無拘束の「無」だ。
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物質の肉体はドラマを終える。さまざまなさまざまなドラマを見せてくれたお陰で、僕は一歩も二歩も前進することになる。その前進を働きかけていたのは、現象面を担当した僕の肉体だったということにもなる。
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僕はやがて死ぬことになるが、死ぬ現象を引き受けた肉体を、精神は分離するのだろうか? 分離して単独になるのだろうか? これも疑問が残る。元の分子にして宇宙に返還をしてしまうのだろうか。どちらもいっしょに手を携えて元の1に戻ってしまうのだろうか?
人間の住む家の窓は透明ガラスだ。危険だ。其処に何もないとしか見えない。小鳥がよくぶつかる。スピードをつけているので、衝突時のショックが大きいだろう。
今朝は網戸にオニヤンマがぶつかった。鈍い音がしただけで、飛び去って行った。軽い脳震盪を起こしたかもしれない。揚羽蝶もよくぶつかるが、ひらひらして飛んでいるから、これは無傷のようだ。蝉もクワガタムシも透明ガラスが見抜けない。
里山の夏。7月は今日を入れてあと三日間で終わり、酷暑の8月に突入する。日の隈山の山裾辺りで山鳥が甲高く鳴いているのが聞こえる。