<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

里芋の収穫

2014年11月25日 15時16分17秒 | Weblog

畑の里芋を掘りました。地中でこれだけ繁殖をしたのかと驚くくらいの収穫量でした。大きい葉っぱをゆらゆらさせているところなど、見るからに原始的な、ジャングルの申し子のような、古生代植物のように見えます。栄養豊富と来ているから、地上の獣や昆虫類などの外敵の餌食になりそうです。じめついた土の中では、さぞかし好湿性のバクテリアの攻撃も受けそうです。これらに対抗しつつも、まるまると太って、きめ細かにみっちりとデンプンを貯えています。

泥を除いて水道の蛇口で洗って、取り囲んでいる柔らかな根毛を剥ぎ取りました。鬚根も元気いっぱいに伸びていました。それから包丁を使って皮剥きをしました。こんな作業をするのは嫌ではありません。むしろ好きな方です。夕ご飯には鶏肉で煮物をしてもらいました。柔らかく煮えていました。朝ご飯には味噌汁に加えてもらいました。味噌汁がとろとろになっていました。

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そろそろ外に出ます

2014年11月22日 10時53分24秒 | Weblog

おはようございます。といっても、もうすぐお昼時になります。光がぽかぽかしてふくれています。さぶろうは7時には目を覚ましました。それから朝ご飯。今日は玄米ご飯と変わったふうの中国菜の味噌汁でした。高菜の一夜漬けができあがっていてこれに鰹節をまぶしていただきました。香りがくんとしました。食事の後は炬燵に入り、新聞2紙を読んで過ごしました。今日は土曜日、公民館図書館が10時から12時まで開館する日です。みなさんおいでくださいの放送が入りました。さ、そろそろ外に出ます。ミーアキャットのように全身に光を浴びます。アネモネ、鉄砲百合、チューリップの球根を植え付ける作業に入ります。

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ごめんごめん

2014年11月21日 16時40分13秒 | Weblog

ごめんごめん。近くのスーパーの中で小・中学校時代の同級生を見かけた。足を引きずりながらよちよちよちよち向こうの方へ歩いて行った。杖こそついていなかったが、背中の曲がり具合といい、歩幅の小ささといい、白髪といい、いかにも老人という感じを受けて、一瞬戸惑ってしまった。さぶろうも、同級生が見かけたら、きっと同じように映るだろう。いかにも老人老人していると。追いかけて行って声をかけるべきだっただろうが、それをしなかった。こちらもよろよろよちよちだったから、見苦しさを見せたくなかったのである。

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お腹はすいているけど

2014年11月20日 10時27分25秒 | Weblog

朝夕は寒いけど、昼間になると気温が上がる。夜明け前は冷え冷えとする。寒暖の差が大きい。お昼になった。暑くなって下着一枚になった。外は光が溢れている。黄色い蝶々がひらひらと飛んでいく。お腹はすいているけど、食べたいと思うものが見つからない。

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干し柿作りは楽しい

2014年11月20日 10時13分39秒 | Weblog

夜なべをして干し柿作りをしています。包丁を使って渋柿の皮剥きをしてこれをベランダの竹の棒に吊しています。朝起きてからもこれを続けています。渋柿の渋で手の平や指先がべたべたになります。皮剥きが趣味としかいいようがありません。お金もかかります。渋柿は大きいのであれば一個70円~80円ちかくもします。これを一本の縄に12個吊します。これが例年ずらりと列びます。そんなにたくさん作って食べきれませんよと家族が言います。完成したら訪れた客人に差し上げています。正月前に送られてくるのを孫も待っています。渋柿は日に乾されている内に甘くなります。砂糖の甘さではありません。おいしいです。売るつもりでしているのではありません。今朝はとうとう吊した柿のあまりの重さに竹の棒が突然途中からぼっくり折れてしまいました。隣家の竹林から新しい雄竹をもらい受けて、切り倒してやり直しです。手間暇がかかります。でも楽しんでいます。

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たろうのお天気がいい日は

2014年11月19日 16時34分13秒 | Weblog

たろうのお天気は曇り。なぜ? 幼稚園に行けない日だから。かわいいあの子に会えないから。それをかあさんに気づかれた。

たろうのお天気は晴れ。なぜ? 幼稚園がはじまる日だから。かわいいあの子とあそべるから。それをとうさんに気づかれた。

たろうのお天気がいい日は、目がきらきらしてる。おしゃべりがはずむ。皿洗いができる。

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絶対信頼関係のままでいられる

2014年11月19日 16時14分13秒 | Weblog

「ぞうさん」   作詩 まど みちお  作曲 團 伊玖磨

ぞうさんぞうさん お鼻が長いのね そうよ かあさんも長いのよ

ぞうさんぞうさん だあれが好きなの あのね かあさんが好きなのよ

***

いいなあ。何度歌ってもいいなあ。いい歌だなあ。どうしたらこんないい歌が作れるのだろう。どうしてこんなにいい歌だと思うんだろう。いい歌だと思うから歌っているんだよね。鼻が長い短いを問題にしているのではない。長いことを自慢にしているのでもない。長いから不自由だと言っているんでもない。そこをつついているわけでもなく、つつかれていると思って憤激しているのでもない。大好きなかあさんと同じく長い鼻をしているので安心をしているのだ、きっと。かあさんが好きであればほかにはなんにもいらないんだよね。絶対信頼関係のままでいられるのがいいね。かあさんを題材にして歌った作品は多いけど、こんなに短い台詞でそれを表現できるなんてすばらしい。

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何があってもいいんだ

2014年11月18日 16時55分23秒 | Weblog

何があってもいいんだ。さぶろうはそう自分に言い聞かせた。それがあれば現世での修行ができない、ということはない。これがその根拠だった。プラスになることもマイナスになることも起こっていい。そこを乗り越えていくことがそのまま修行になる。大袈裟に聞こえるかも知れないけど、修行は自然体なのだ。無理がないのだ。意のままになれないことだってある。嫌なことだってある。好きこのんでそれを迎えているわけではないけど、風の日雨の日雪の日がある。そしてまた晴れの日がやってくる。そうするとその自然な経過の過程で、修行が進むことになるのである。何があってもいいんだ。引け目を感じることはないんだ。三郎はもう一度自分にそう言い聞かせて気持ちを楽にした。ヒヨドリが冬空でヒーヨヒーヨと鳴いて飛び去っていった。

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未来世を生きているさぶろうB

2014年11月18日 15時37分59秒 | Weblog

生きているさぶろうの姿を死んださぶろうが見ている。時間軸が逆さまのように思えるが、それでもそれが成立している。生死は平面体だから空間の直線上で連続しているらしい。いずれ死ぬのだが確実に死ぬので、死後のさぶろうはすでに存在しているのである。それで一足先にだが、この両者の間で会話が成立することになる。

現世を生きているさぶろうA:「やあ」

未来世を生きているさぶろうB(つまり現世を死んださぶろう):「やあ」

B:「そっちは寒そうだね」

A:「こっちは11月に入っているからね」

B:「鼻水たらしているけど、風邪を引いたんじゃないだろうね」

A:「大丈夫。洟(はな)垂らしているだけで、元気だよ」

B:「そう。そりゃよかった」

A;「でもいずれ死の病にかかることにはなるだろう。病は、そっちへ飛ぶときの出発ロケットのエンジンの役割を果たしてくれるからね。大事なんだ」

B:「でも、たいていはみんなこっちへ来るのを多少心配しているふうだげどね」

A:「そりゃ、無理もないさ。だって、そっちが見えてないからね。心配はあたりまえだろうね」

B:「だろうね。ところできみは今日の午前中、寒空の下でずっとひとり農作業をしていたね。上から眺めていたけど、きみはずいぶん満足そうだった」

A:「うん。満足を覚えていたよ。よくそれが見抜けたね。チンゲンサイの間引きをしていたんだ。これを、昼から我が家にやって来る客人にプレゼントするので張り合いがあったんだろうね」

こんなふうに会話が続いた。その後で未来世を生きているさぶろうが、未来世の話をした。現在世を生きているさぶろうが、「きみは、ところで何をしているんだい?」と聞いたので、彼は率直に答えていた。やっぱり楽しく暮らしているらしかった。現世の人間たちは、生命の連続現象がどうにも飲み込められないらしいから、ここが疑問符になる。いのちは紐じゃないんだから、ぷつんと切れたりはしないんだ。そこが合点できないらしい。

楽しくして暮らしている。これでいいんだ。人より余計に楽しんでいるなどと威張ったり、人の半分くらいしか楽しんでいないなどと自己卑下をしなくてもいいんだ。ふたりの結論はこうだった。それでこの日はお別れとなった。

 

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もう会う気はない

2014年11月17日 17時04分18秒 | Weblog

人恋しくない。そんな顔をしているが、やせ我慢だ。人のそばに行って温まっている方がいいに決まっている。

ある集まりでのことだ。この人とは波長が合うか合わないか、五感を駆使して判断をする。ここでしばらく時間がかかる。そしてゴーサインが下りる。

気持ちが自然にじわりじわりと近づいて行く。相手を恐がられてはいけないので、できるだけ警戒心を取り払えるような軽口を叩きながら。もちろんできるだけ柔和な物腰をとって。紳士ぶって。

すると、その人は、すっと破顔をしてくれた。これで心配が消えた。さぶろうは、櫨の話をし出す。川岸の櫨の紅葉がいまどんなにきれいになっているか。その人は若い人なので、櫨もみじを知らないらしい。そこで櫨の実取りのことを説明する。

どうしてそんな話をするのかやや変に思うはずだが、そこをそうしないで面白がってくれる。その人の乗るバスがやって来る。人々はぞろぞろとバスに乗り始める。明日もここに来て話の続きをしてくださいね、その人が言う。

さぶろうは手を振る。その人も手を振る。人恋しさはこうやって実現を見たので、この一週間ほどなら誰に会わずともあたたかさを持続できるはずだ。もう会う気はない。

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