生きているさぶろうの姿を死んださぶろうが見ている。時間軸が逆さまのように思えるが、それでもそれが成立している。生死は平面体だから空間の直線上で連続しているらしい。いずれ死ぬのだが確実に死ぬので、死後のさぶろうはすでに存在しているのである。それで一足先にだが、この両者の間で会話が成立することになる。
現世を生きているさぶろうA:「やあ」
未来世を生きているさぶろうB(つまり現世を死んださぶろう):「やあ」
B:「そっちは寒そうだね」
A:「こっちは11月に入っているからね」
B:「鼻水たらしているけど、風邪を引いたんじゃないだろうね」
A:「大丈夫。洟(はな)垂らしているだけで、元気だよ」
B:「そう。そりゃよかった」
A;「でもいずれ死の病にかかることにはなるだろう。病は、そっちへ飛ぶときの出発ロケットのエンジンの役割を果たしてくれるからね。大事なんだ」
B:「でも、たいていはみんなこっちへ来るのを多少心配しているふうだげどね」
A:「そりゃ、無理もないさ。だって、そっちが見えてないからね。心配はあたりまえだろうね」
B:「だろうね。ところできみは今日の午前中、寒空の下でずっとひとり農作業をしていたね。上から眺めていたけど、きみはずいぶん満足そうだった」
A:「うん。満足を覚えていたよ。よくそれが見抜けたね。チンゲンサイの間引きをしていたんだ。これを、昼から我が家にやって来る客人にプレゼントするので張り合いがあったんだろうね」
こんなふうに会話が続いた。その後で未来世を生きているさぶろうが、未来世の話をした。現在世を生きているさぶろうが、「きみは、ところで何をしているんだい?」と聞いたので、彼は率直に答えていた。やっぱり楽しく暮らしているらしかった。現世の人間たちは、生命の連続現象がどうにも飲み込められないらしいから、ここが疑問符になる。いのちは紐じゃないんだから、ぷつんと切れたりはしないんだ。そこが合点できないらしい。
楽しくして暮らしている。これでいいんだ。人より余計に楽しんでいるなどと威張ったり、人の半分くらいしか楽しんでいないなどと自己卑下をしなくてもいいんだ。ふたりの結論はこうだった。それでこの日はお別れとなった。