<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

非物体とはどういうものか

2014年11月13日 06時54分48秒 | Weblog

さぶろうに話しかけてくる者はいない。それで、さぶろうが一人二役をするしかない。

おい、さぶろう。おまへ物体か。へ、物体でございます。物体が話をするか。へ、ときどき非物体になります。ほう、非物体とはどういうものか。へ、物体から飛び出してきて応えるものが非物体でございます。

では、打てば響くのだな。さようで。打って響かせております。物体と非物体の一人二役をこなしている舞台俳優です。

物体には物体の世界があり、非物体には、これまた広大無辺の非物体世界が広がっておるので、見る世界(非物体界)も見られる世界(物体界)もどちらとも、退屈はしません。

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竹藪では雀の声

2014年11月13日 06時50分22秒 | Weblog

夜明けの7時まであと5分。ぼちぼち眠気がさしてきたようです。さ、一眠りをしますか。それがようございましょう。竹藪では雀の声。

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調えられた条件はすべて完全でありました

2014年11月13日 06時41分39秒 | Weblog

へえ、まもられてまもられてまいりました。おぎゃあと生まれてからこの方ずっとさぶろうは守られて守られて参りました。この今の今に至るまで寸刻も外さずに。間違いはございません。朝の空気を鼻から深々と吸いました。これが何よりの証拠です。さぶろうが生きていける条件をすべて調えていてくださいました。さぶろうに調えられた条件はいついかなる場合もすべて完全でありました。

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われ なんじを まもらん

2014年11月13日 06時13分53秒 | Weblog

「われはなんじをまもらん」「われもなんじをまもらん」「われらはみななんじをまもらん」「ガンジス川の砂の数ほどのわれらなれど一人残らずなんじをまもらん」「全宇宙の全的エネルギーを投入してまもらん」「ただただなんじをまもらん」

台詞の主は如来さまである。なんじとはさぶろうのことである。如来さま方が等しく向かい合っているのはさぶろうだから、間違いはない。

さぶろうを守ると口々にそう宣(のたま)ふのだ。宣言されるのだ。さぶろうはきょとんとしている。口を開けてあっけにとられている。「へえ」「へえ」とだけ言っている。言われていることがどういうことなのか分からないで居る。

「なんじをまもらん」の守る事とはどういうことを指しているのか。鈍い、鈍感の、重い、鈍重のさぶろうである。理解をしないでいるのは致し方がない。それでかの如来さま方を総動員して守るだけの値打ちが、あるのか。さぶろうにあるのか。あるとはどうしても思えない。

可愛いみよちゃんが言ってくれる方がよっぽどいい。それくらいにしか受け止めていないさぶろうだ。もっとも、可愛いみよちゃんなら、こっちの方から守ってあげたいくらいだが。

まもられているさぶろう。このフィーリングはあたたかい。ふかふかしている。だったらフィーリングだけでいいのかもしれない。如来さま方全員からまもられているさぶろうとはどんな人間なのか。できのいい、活動家の人間を想定しようが、そうではないのである。これがしようもない人間なのである。沼の中の蛙(びき)のようにふやけて、そこにのっそりとしているだけなのだ。

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違う。違うはずだ。

2014年11月13日 05時49分17秒 | Weblog

これで、生きているということになるのか。生きているというのはもっとこう燦々と輝いていることではないのか。さぶろうは、そうではない。老いてますますそうではない。日陰に入って寒がっている。日はあまり射さない。

そりゃそうだろう。さぶろうのすることは、一人遊びだ。土いじりの泥遊びだ。老いているのに、老いてなんの貢献をもしていないのに、それでもこうして生かされている。生かされているのに、毎日がこのざまだ。のたりのたり、ぶらりぶらりしているばかりだ。こんな生き方でいいのか。よかあない。

死なないで生きているということはもっと価値があるもののはずである。その価値を有効にしていない。圧が薄い。海面を漂っている海月(くらげ)のようだ。何処へ行くのか。あてもない。

じゃ、何をしていればいいのか。それもわからない。アルツハイマー症状に近い。おい、さぶろう、何やってんだ。顔を平手打ちして、どつきたくなる。老いるということはこんなに生温いことだったのか。違う。違うはずだ。

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おまへ寂しくはないか。寂しい。

2014年11月13日 05時09分35秒 | Weblog

寒いな。いま明け方の5時をちょっと回ったところ。もう眠れそうにない。お布団から出て炬燵に入って温まる。セーターとジャンパーを重ねた。やだな、それでも鼻水が出る。

夢ばかり見ている。それも若い頃の。働いていた職場のこと。うまくいったこと、いかなかったこと。得意顔とその反対のみじめ顔が同時にならぶ。退職後は全面撤退して、没交渉になった。

懐かしいんだろうな。夢の世界に浸っているなんて。活動が支持されていた頃はよかったが、最後は不支持で、引いた。引いたんだから、振り向かなくていいだろうに。昔を懐かしがっているみたい。

昨日は夕方4時から、赤玉葱の苗50株と極早生100株を畑に植え付けた。玉葱専用の肥料と有機石灰を施して。ふかふかに耕して。畝を作って、1列7株ずつ丁寧に列べて植え付けた。風呂場に使う丸椅子に座ってそれを移動させながらだから、時間がかかった。

今日もしお天気になればまた外に出よう。今度は庭に出て、一重咲きのアネモネと鉄砲百合とチューリップの球根を植え付けよう。チューリップは赤が15球、黄色が10球、紫と白がそれぞれ5球。1球が42円、かなりの大玉だった。

こんな暮らしをしている。終日ずっと一人遊びの、侘び暮らしだ。相手をしてくれるのはときおり土の中から出て来る蚯蚓(みみず)さんくらいなもんだ。蚯蚓さんは、耕す僕の小さな鍬先で掘り起こされてご登場になる。全身をくねらせて抗議する蚯蚓さんに、僕はごめんねを言う。そしてまた土の中に帰してあげる。

夕食が済んでから干し柿作りを始めた。台所のフロアーに座り込んで、渋柿の皮剥きをした。包丁を使って巧みに皮を剥く。これを1本の縄(ビニール紐)に12個ずつ結び付けて、ベランダの竹の棒に吊す作業だ。7本が吊された。渋柿の渋が両手の手の平にべったりくっついている。

さぶろう、おまへ寂しくはないか。そんな暮らしをしていて。へえ。寂しいよ。それでもそれで行くしかない。我が儘者の我が儘がますます昂じているので、人とはつきあえない。なにしろもはや協調性が0である。息を合わせることができないので、相手をしてくださる方が居ても、ただただご迷惑をおかけするだけだろう。

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