さぶろうは甘いものをよく喰うわい。今日は朝から銅鑼焼きを平らげた。もっともそう大きくはなかったのだけれども。ふっふっふ。小刻みに動く頬筋肉の嬉しそうな膨張収縮運動。
如仏無礙智 通達摩不照 願我功慧力 等此最勝尊
にょぶつむげち つうだつみふしょう がんがくえりき とうしさいしょうそん
昭和23年に本願寺で謹訳されている現代語訳「ちかいのうた」ではここはこう訳されている。
師のみほとけ(世自在王仏)の無礙の智慧 照らさぬくまのなきがごと わがいさおしの力また このみほとけににかよわん
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これは重誓偈からの引用である。重誓偈は阿弥陀如来が法蔵菩薩として師の世自在王仏のもとでご修行をされていたときにお誓いになられた誓願の偈である。
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世自在王仏の無礙の智慧はあらゆる国あらゆるところに通達して光となって輝き渡っているので、わたしのこの小さき功によらずとも、願わずして、わたしが最勝尊の世自在王仏となって輝いているではないか。
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わたしの発見である。最勝尊としてのわたしの発見である。それを最もよくよろこんでいてくださるのもまた最勝尊の仏である。最勝尊によって照らされているわたしであるから、秋の日の照るままにもみじ葉の一枚として照っていればいいのである。
若し衆生有りて是の観世音菩薩品の自在の業、普門示現の神通力を聞かん者は、当に知るべし、是の人の功徳は少なからず。仏、是の普門品を説きたまふ時、衆中の八万四千の衆生は皆、無等等のアノクタラサンミャクサンボダイ(無上正等正覚=仏の悟るところの仏智開悟)の心を発(おこ)したりき。
ごめんなさいね。またまた仏典を読んでいてさぶろうが立ち止まってしまったところ、さぶろうケ岬灯台へお連れしてしまいました。ここは観世音菩薩普門品第二十五の最終章です。灯台絶壁の岩礁にざぶんざぶんと白い波が打ち寄せてそこら一帯が柔らかな泡粒になっています。
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「自在の業」とはなんぞや? 「普門示現」とは? 「神通力」とは? そもさん。「無等等の菩提心」とはなんぞや?
例によってさぶろう(の目玉)はこの岬の灯台に真夜中にやってきています。真夜中の寝ぼけ眼の朗読癖が止まないのです。
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自在の業。観音さまの自由自在の働き。普門示現。場所を厭わず人を選ばず時を違わず普(あまね)く門戸を開いて、そこへ出現される。神通力。物理の法則に遮られないでまかり通るエネルギーの発揚の場。無等等の菩提心。同等も不等も壊滅した柔軟な仏さまの智慧。連想ゲームをして遊んだ。
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へえ、ここへ来るともう「わたしとあなたさま」の二者天涯でございます。観世音菩薩が自在の業をして立ち働いてくださるのも、偏にわたしひとりの転迷開悟のためでありました。普門示現をしてひょいひょいお顔を見せて説法をなさるのもわたしの寂寞(じゃくまく)を和らげんが為、神通力をわたしに発揮して下さるのもわたしを動かさんが為、無等等の菩提心の在処を指し示されたのもわたしの仏道成就のためでありました。
午前4時を回ってしまいました。あなたさまが今夜もわたし一人を相手に説法をなさいます。間の抜けたさぶろうですが、もう眠ろうにも眠られません。
秋晴れ。絶好の登山日和。リュック背負ってススキの山に登ったらよかろうなあ。萩も咲いているだろうなあ。高い山でなくてもいい。気温は低めでひんやりしている。汗も掻かなくてすむだろう。
でも、肩を貸してもらわないと、障害者用サポート杖だけでは登れそうにない。残念だけど遠くから眺めておくだけにする。
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秋の夜長の、さぶろうのぼそりぼそり朗読癖は止まない。途中途中で目が釘になってしみじみと読んでいる。
十方所来諸仏子 顕現神通至安楽
じっぽうしょらいしょぶっし けんげんじんづうしあんらく
十方より来たるところの諸々の仏の子らは、神通を顕現せしめられて安楽(国)に至りぬ
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これは「十二礼」の中にある句。七高僧の第一、龍樹菩薩が阿弥陀如来の仏徳を十二の偈にしてお讃えになられた。
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神通は神通力、通力として読んでみた。自由自在の超人的な不思議をこなしうる力のことである。人間業ではできないことをすらりとやってのけられる力のことである。神は「すぐれた」という形容詞だろうか。それとも神々の領域に通じる力と捉えねばならぬところか。ここではさしずめ安楽国に至り着くことのできたという事実を指している。安楽国とは微妙(みみょう)国、蓮華国、仏の浄土のことである。
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神通は顕現するものである。いまここに顕現しているものが神通である。
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指が曲がるのも、したがって、顕現している神通である。歩けば歩けるのもそうである。秋の日のやわらかい光が膝元に届いて来るのも顕現している神通である。山に向かえば山の櫨紅葉が瞳に映じて来るのもそうである。それを美しいものとして見てこころが喜ぶのも顕現の神通である。そこにもここにも顕現神通しているのだ。それをそう受け取れるのが仏の子、仏弟子の特権である。顕現せしめられて顕現するのである。彼らはこうして安楽国、「顕現しているものを喜んで安楽とする国」に至り着いた。