<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

未完成で生涯を閉じていい

2007年05月17日 11時42分53秒 | Weblog
 風がある。窓が開けておれない。寒くもある。今日はもう五月の十七日だ。庭のヒナゲシの花園が風の音で騒がしい。なぎ倒されている。軽く小さいモンシロチョウは風に飛ばされてしまったようだ。

      *

 今生のわたしの生涯は、<わたしは法華経に出会った>、そこのところまでで閉じてもいいように思われる。「法華経に何を教えられたのか?」と質問されても答えられない。「どんな価値があるのか?」と尋ねられても、「知らない」としか答えられない。それでいて、<わたしが法華経に会った>そのことだけが燦然と光っているように思われてならない。いい気持ちなのだ。法華経を声高に朗読していると、いい気持ちになるのだ。これだけは確かだ。法華経に登場される菩薩、如来、仏弟子たちのお名前を口するだけで、いい気持ちなのだ。陶然とする。ここまでで一巻の終わりであっていい、僕の今生のストーリーは。

      *

 ここまで来るのに何百生も費やしてきたのである。そうとしか思えない。何百回も生まれて来たのに、今度が初めてなのだ。この法華経の教典に出会うのは。出会ってこんなにも快感を感じるのは。いい気持ちなのだ。法華経を読んでいる自分にうっとりとするのだ。ここまでとうとうやってきた、という感じなのだ。理解をしているのではない。信仰までに至りついてもいない。書いていることの実践となるとまるでまるで。とんでもない、というところ。これで、法華経信者とはとても言えない。逆さづりされても言えない。けど、とにかくここまでたどり着いているのである。わたしはもう何回も何回も法華経を手にとって朗読を繰り返しているのだ。

      *

 次に生まれるときに、次のストーリーはゆだねよう。なあに、ここでストップということはない。進歩は続くのだ。法華経にもそう書いてある。永遠に仏道を歩くと書いてある。向上に向かって向かって向かって、大きな道を歩んでいる。まだあと何百何千何万回も生まれて生まれて、法華経を読んで読み進めて行くのだ。未完成でわたしの今生を閉じよう。
コメント
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