我が家の庭先に、アネモネの花がまだ咲き誇っています。
サイズは小さいけれど、伸び伸びして、かつは、凛々しくもしています。
己れのサイズなんて、それほど必須条件ではなかったのかも。
すくなくともそれほど重大事項ではなかったのかもしれませんね。
生き生きとして生きているアネモネの姿に、その生きざまに、教えられます。
我が家の庭先に、アネモネの花がまだ咲き誇っています。
サイズは小さいけれど、伸び伸びして、かつは、凛々しくもしています。
己れのサイズなんて、それほど必須条件ではなかったのかも。
すくなくともそれほど重大事項ではなかったのかもしれませんね。
生き生きとして生きているアネモネの姿に、その生きざまに、教えられます。
古びたもののすべては過去に葬られてしまう。
過去に葬られてしまうけれども、未来がこれを補ってくれる。
補って新しくしてくれる。
こうすることによって、古いものが古いままであり続けることを回避してくれる。
万物が新しくなる。満山が新緑となる。
椎が古くなった葉を落として、そこに新芽を付ける。古い衣を脱ぎ去って、木々が次々に新しい着物を全身に纏う。
古いもののすべては、葬り去られてしまう。これでいい。
われわれも過去を生きた。生きた過去は葬られてしまうけれど、未来がこれを補って、朝な朝な尋ねて来てくれる。そして新しくなってあざやかになれる。
創造をするというのは何かを残しておきたいと言う願望に基づいているのかも知れない。
消えて消えて消えて行く日常が悲しいのだろう。せっかく手にしたどんな幸福も消えて行ってしまう。流れ去って行ってしまう。手元に残らない。
そこに日記のようなものを残す。するとそれが記念碑になれる。ああそうだったな、そういうことがあったのだな、という回想ができる。
何にも残らないで泡のように消えて行ってしまうより科は、こちらの方が少しはマシではないか。
僅かながら、創造の粘土細工をして、残す。幼児のやるようなことなのだが、これでもっと癒やしに掛かる。
何もかもが消去の憂き目に遭うことから、逃れようとする。あがく。抵抗を試みる。
抵抗をしても無駄かも知れないのだが、これに賭ける。これに賭けるしかないから。
生きていたという事実は、しかし、何をしようとも、いつかは消去される。消去されるときが来る。
これでいいのかもしれないのだが、これを良くないとして、藻掻く。そしてペンを取る。記録をする。文章を書く。記録をするという創造をする。
不断草はたくましいです。一年中、青青としています。一年中、食べられます。
根っこを残して、茎と葉っぱを包丁でみんな切り取ってしまっても、すぐにまた新しい芽が出て来て、元通りに復元します。
逞しい生命力です。感歎します。
今日は訪れた客人にこれを切り取って差し上げました。どっしりした充実の重さです。
不断草は味にちょっと癖がありますから、みなさんが好きというわけではないようです。
根の上から切ったらまた復元する力を持つのが他の野菜にもあります。セロリも復元力を保有しています。根っこを全部抜いてしまわない限りは、死にません。
切って数日をおくと、また、ぬぬぬぬぬ、と芽立ってきます。そして生えそろいます。
この能力をどうやって編み出したのでしょうね。どんな進化の過程を経てきたのでしょう? 不思議です。
人間にはこの能力が備わっていませんね。
午後から雨になりました。でも、ぽつりぽつりというところです。土砂降りではありません。
でも、畑仕事を中止しました。しばらくは、炬燵に入った姿勢のままとろりとろりお昼寝をしました。とろとろりの快感を味わいました。
午前中は、プリンスメロンなどの苗を畑に植え付けました。4株。その後は、蔓無しインゲン豆の種蒔きをしていました。1袋蒔き終えました。
土の深いところに、有機鶏糞をたくさん施肥しました。もちろん有機石灰も、化学肥料を併用しました。
さあて、メロン類は実を付けるでしょうか。自信がありません。まずはショウジョウ蠅対策をしなければなりません。
実を付けて熟してきたら空から烏がこれを狙います。網を張ってこれを防止しなければなりません。
山からは腹を空かせた獣類が下りて来ます。そろそろ食べ時かなあという時を見計らって、かっさらってしまいます。
植えたら水撒き、施肥、草取り、芽摘みなどこまめな世話が必要です。人間の口に入るまでには多くの難関が待ち受けています。
それもこれも老爺には楽しいことです。植物の生長を毎朝観察して楽しみます。楽しませてもらいます。
ランチの後で、台所に座って蕗の筋剥きをしました、根気よく丁寧に。指がアクで薄黒く汚れてしまいました。
こういう作業が好きなんです。どうしてかわかりません。今夜は蕗の料理をしてもらいます。
この蕗は我が家の畑で収穫しました。我が家の畑は蕗と相性がいいようです。あちこちに繁茂しています。
施肥を時折しています。それに応えてくれているようです。なんでも愛情次第だなあとよく思います。
ツワブキも育っています、どっさり。でも、これはあまり食べていません。花を見るくらいです。
早くも夏ツバメが渡って来たようだ。昨日、お昼、鳴き声を聞いて、おやっと思って顔を上げた。麦畑の上空をスイスイスイと飛び交っていた。まだ数は少ないようだ。
ツバメが、我が家にも巣を作って、子育てをしていた。いまは玄関もドアが閉まっている。部屋の障子戸もガラス戸も閉まっている。ツバメは家の中には侵入できない。
だとすると、ツバメは何処で子育てをやれるのだろうか。人が行き交う公共施設(たとえば駅構内だとか、売店だとか、公園の公衆トイレだとか)のあたりだろうか。
蛇が狙う。猫が狙う。烏が狙う。人が行き交うところにはこの天敵が出没を控えている。で、ツバメは人が集まるところを安全地帯だと決めているフシがある。彼らは人を恐れない。むしろ親近感を覚えているふうでもある。
昔の人は家の中に巣を作る鳥にも寛大だった。むしろ、家の中に鳥が入って来るのをよしとして、歓迎していた。幸福を連れてくる鳥だと考えてもいた。で、居間の天井には巣が作れるように巣板をこしらえてあった。