「本願を信受するは前念命終(ぜんねんみょうじゅう)なり。既得往生(きとくおうじょう)は後念即生(ごねんそくしょう)なり。」
「愚禿鈔(ぐとくしょう)」より
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ここを高森顕徹氏は「親鸞聖人の花びら 桜の巻」で、このように解釈をしておられた。
「弥陀の本願、まことだったと信受した時、永(なが)の迷いの命が死ぬのだ。同時に往生一定(おうじょういちじょう)の光明の世界に生まれるのである。」
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わたしはほっとした。死んで生まれることができる、とあったからである。
わたしはわたしなりにあれこれと考えることになった。考えないでもいいのかもしれない。信受してしまえばそれでいいのかもしれない。
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迷いの命を死んで、光明の世界に生まれる、と。
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阿弥陀仏の本願を信じたときに、それが成立するのだ、と。
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どうか迷いの命を死んで下さいよ。死んで下さったらそこで初めて光明の世界に生まれる、と。
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光明の世界は阿弥陀仏の真如界のことである。
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我らは煩悩の世界、迷いの世界にいる。長い長い流転の世界に居る。
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流転の世界はかりそめの世界である。此処にいる限りはいつまでたってもかりそめの、虚仮の世界を出ることがない。
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虚仮不実の煩悩界を経由して、やがて智慧の光明輝く仏陀の世界に招き入れられる。橋渡しを買って出ているのが阿弥陀仏である。
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我我は行くところがある。進むところがある。目的地がある。目的地は光明の世界、真如界である。
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迷っているばかりではない。迷いを死ぬのだ。死ぬことによって迷いを離れるのである。この道筋が敷かれているのなら、そこを辿っていけばいいのである。
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この道筋は阿弥陀仏の本願の道筋である。それがわたしに向けられている。わたしの足下から始まっている。嬉しいではないか。